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総括パネルディスカッション『柳田国男が見た椎葉』

行程
平成20年7月21日(月) 於・えのはの家 
19:30〜21:00  【総括パネルディスカッション】
      パネリスト 
         綾部正哉氏(綾心塾長)
         黒木勝実氏(実行委員長)
         佐藤隆一氏(夕刊デイリ新聞社)
      コーディネーター 
         秋本 治(霧立越の歴史と自然を考える会)



秋本 治
 それでは、お腹がいっぱいになり、一息ついたところで、この興奮覚めやらぬところで早速総括のパネルディスカッションを開催させていただきます。私が司会進行役を勤めさせていただきますのでよろしくお願いします。
 先ずは、パネリストの先生方をご紹介します。綾部正哉先生です。中瀬邸で綾心塾を開いていらっしゃいます。お昼には大変お世話様になりました。よろしくお願いします。次に黒木勝実先生です。柳田国男の椎葉ガイド役をされた黒木盛衛氏のご子息です。今回は実行委員長として、また名ガイド役として大変お世話様になりました。それから延岡の夕刊デイリ新聞社の佐藤隆一先生です。取締役編集部長でいらっしゃいます。とくに柳田国男に関する情報は専門的にとても詳しい方でございます。よろしくお願いします。
 それでは、ここから先は、大変失礼ですが、お話に親しみがでますように敬称を略させていただきまして「先生」とはお呼びせずに「さん」づけて進行させて頂きたいと思います。先ずは、三日間通しての感想から総括のご意見を、それぞれ一言づつご発言頂きたいと思います。綾部さんからお願いします。

綾部正哉
 綾部です。椎葉に来まして八年、未だに「どうして椎葉に来たの」、て聞かれます。宮崎に長いこと住んでおりまして、定年退職後に椎葉に入って来て八年。もちろん来た当時も奇異な目で見られましたし、それから「何故こんな山の中に来たんですか」と。「いえいえ、実は学校の先生方や一般の方々の集まる場所にしたくて」と言ったら「じゃあ宮崎で良かったんじゃないですか。コースの面も悪い、時間も掛かる、そんなところにどうして塾を開いたんですか」と、そういうことを未だに聞かれます。これをお分かり頂くのにはとてもじゃない時間が掛かるんです。そうは言いながらも今日は、何故僕が椎葉に来たのか、そして八年経って、やはり正解であったと今確信に満ちた気持ちであります。まだまだこの先ずっとここで残りの人生を全うしたいと思う理由をちょっと述べたいと思います。
 大げさなようですが、実は人類は19世紀から20世紀へ、正確に言うと250年くらい前、産業革命がヨーロッパの方で起こって以来ですね、人類は何を追い求めてきたんだろう、と。それは一つにはスピードでした。スローよりもスピードを求めました。それから快適さを追い求めてきました。不快から遠ざかろうとしてきました。また合理性を追求してきたようにあります。非合理的なことには賛成をしない。合理的かどうかで価値を決めてしまう。そういうスピードとか快適さとか合理性とか、これを求めて科学技術も発達しました。
 そして、ご承知のようにIT社会、あるいは情報化社会とか今は言っております。でも、それで人類は幸せをつかんできたんだろうか、と。どうも、私はそうではないように今思うんです。21世紀に入ったけれども、この残り92年、果たして人類は生き延びれるだろうか、と。そういう不安な気持ちを、私だけでなく多くの学者が言っております。
 もちろん環境汚染、食糧不足あるいは宗教戦争、または民族間の対立、一つの国の中で戦いが行われているという現状、これは幸せを求めてきたはずの人類が自ら自分の首を絞めてきた結果ではなかろうか。なんて、そんなことをちょっと私風に考えておりまして、よし、退職後は逆を行こう、と。スピードでなくスローを求めよう。快適でなく私は不快とは思っておりませんが、一般に言う不快という暮らしをしてみたい。合理性を追求するならばその反対の非合理的なこともやってみよう、と。その為には、一体どこへ行ったらいいだろうと、退職前、一年前に考えました。やっばり椎葉でした。
 そして、どこかに空き家がありませんか、と知人を通して5軒くらい空き家を見つけて頂きましたが、最終的に素晴らしい中瀬邸に落ち着くことになりまして、年ごとにここに来て正解であったという風に、一言でいいまとめることが出来そうな気がします。その中身は、またお話しする機会があるかと思いますが、先ほど、昔話のおばあさんが川に洗濯に行った、あの結末どうなったんだと言うことでしたのでここでちょっと。
 必ず、おばあさんが洗濯に行くというのは昔話に出てくるんですね。それでただ、汚れた物を川に持って行って洗濯をする、そのことを言っておるんじゃないという仮説を致しました。そうやってみましたら万葉集に行き着きました。皆さんご承知の『春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山』という詩がございますね。万葉集に詩われるあの『ころもほすちょう』という『ころも』、白衣です。これが天の香具山にヒラヒラとたなびいている、その叙景詩だと言われてきたんですが、『天の香具山』はもちろん神の山です。そこに、汚れた洗濯物を干して風に揺れているのは何が詩になるんか、と、私不思議に思っておりましていろいろ調べてみましたら、実はあの『天の香具山』に詩われている『ころも』は巫女さんが着るシラギヌなんです。巫女は白い装束を着ますね。それを干す、そんな季節にもうなったんだなぁとという思いが詩に込められているということが分かってきました。
 そうしますと、おじいさんが山へ行って神の寄代(よりしろ)になる芝を刈って来る、おばあさんは巫女さんが着るあのシラギヌをお洗濯してきれいにして、そして春を迎える、お正月を迎える準備を整える、と。そういうことで昔話に出てくるおばあさんの洗濯は、フンドシを洗うわけでもなく、汚れたシャツを洗うわけでもなく、巫女のシラギヌを洗いに行っているんだなあ、と。そこから民俗学の山の神とか、あるいはお正月の神とか、そういう山の霊力っていうものに繋がっていくんだという風に思いました。

秋本 治
 ありがとうございました。人類はこれまでスピード、快適さ、合理性を追い求めてきたが果たして幸せになれたかということを検証し、今世紀に人類は生き残れるかというようなテーマから、逆のスローを、不快を、非合理的なことをやってみようと椎葉にやってきたとおっしゃいます。柳田国男100年の時空を越えて思いを馳せ、哲学的な綾部理論をいつか、またじっくり改めてお伺いできればと思います。それでは黒木さんお願いします。

黒木勝実
 5年前に病気をしたために、綾部先生のように流暢にまだ話せません。意識は先に行き言葉は後から追っかける、そうしたギャップがありまして、うまい具合に話せないのです。 それがちょっとしんどいですが、まあそれは病人と思って自分なりに承認しているところです。
 今回のイベントの旅を通じて、昨夜皆さんからのお声があり全快の「健康回復の宣言」をさせて頂きました。おかげで自信がつきまして一応お話を申し上げたいと思います。
 柳田国男が椎葉に来た7月13日ですが、これを村長が知ったのは実は直前の7月9日頃でした。県庁から電報がきて、「国の法制参事官の柳田国男という人が椎葉に入るから村長宜しく頼む」と。県庁の職員二人をつけてやるということを知りまして、初めて「これはえらいことだ」と。今まで国の職員はほとんど来たことがありませんので、そういう参事官とやらはどういう服装で来るか、いろんなことが分からんから、とにかく神門から来ればここしかないから笹の峠で待つことにした。そのことは、道中で説明したとおりです。
 然し、肝心の椎葉になぜ訪れたのかは依然不明です。そういう記録は一切ありません。ですから、椎葉に入ってきた動機は何かというのを検証することが今回の旅の大きなテーマであると考えてきました。
 それには、次の三人が答えています。その一人は柳田国男の愛弟子であります千葉徳爾先生。明治大学の教授であります。先生に直に聞いたら「椎葉の焼畑に自生する茶、山茶の生産が産業に結びつけることができないか」ということを検証するために椎葉に行ったと聞きました。
 二人目が「日本民俗学の源流」を著した牛島先生、熊本商科大学の教授ですが、先生は自分の教え子から「先生、僕は柳田国男を案内した中瀬淳村長のひ孫に当ります。」ということで、それからいろんな展開がありまして、ついに柳田国男の手紙を中瀬淳村長のご子息が持っていることが判明しました。そして、椎葉への手がかり掴める手紙が四通、葉書が五通とめぐり合いを果たすのです。この手紙と田山花袋に当てた絵葉書の発見により、椎葉における柳田の動静がはっきりしてきました。私もその頃民俗学会に入りぼちぼち勉強を始めることになります。牛島先生が椎葉に入った動機を3、4点述べています。一つは熊本の広瀬という弁護士から「日向の那須の話を聞き興味を抱く」。二つは、同じ熊本の人吉の鍋屋旅館で「この奥の方に那須一族の者が平家を追い詰めた後、子孫を残して去ったところがある」と聞き、更に都城の持永旅館で高岡宮崎県知事と泊り合わせる。そこで「椎葉の奇習」焼畑の話を聞き「すこぶる好奇心の念を動かし椎葉同行視察の約を結べり」(7月9日付け鹿児島実業新聞、高岡知事談話)。このときの出合いこそが柳田をして椎葉訪問を決断させた重要な契機となった。と結論付ける。以上が椎葉に来た動機だと解読いたしました。柳田の歩いた足跡も自分で確かめ、自ら納得の椎葉への旅の動機です。
 流石だと感心していましたら、次なる3人目の異説を唱える人が出てまいりました。「江口司」という熊本出身の民俗研究者で、柳田国男の研究については、先ず、九州では彼をおいて他にはないのではないかと私は思っています。今回の旅では、紋付に仙台平の袴を履き、刺子の白足袋姿の柳田国男に扮して演じるつもりでした。ところが、三角の海に好きな釣りに行って岩場転落するというアクシデントが待ち受けていました。残念至極でありました。
 江口さんの柳田国男椎葉への旅の動機は、「一言で言うならば、近世の旅人、橘南渓、古川古松軒がなしえなかった憧憬の椎葉踏破である。」と宣う。今から225年前に旅の作家といわれています橘南渓、それから古川古松軒という大変優れた旅作家がおりまして、いろんなすばらしい「西遊記」とか「西遊雑記」という文献を残しています。
 「僕は貝原益軒流に旅したい、それが無理ならせめて古川古松軒くらいの旅をしたい」と柳田は述べています。思いがけなくそのチャンスが訪れた訳です。九州出張命令が出たのです。福岡から入って熊本、鹿児島、宮崎、大分、広島、愛媛、高知の8県、そのうちの出張命令は、高知県、熊本県、鹿児島県の3県だけでした。現在であれば出張命令が出ていないところに出張することはご法度で処分ものです。よく融通が効いたものです。
 その橘南渓が椎葉とどういう関係かというと、225年前に全国を歩きますが、その中で椎葉村は憧れの地であり是非行ってみたい、思いだけでなく実際に行こうとして二人の作家は別々に、共にふもとの人吉側から回って試みています。当時、椎葉は相良藩の支配下にあり、人吉側から道は開けていたが、日向の方から入って来ることはできない状態でした。ところが、もうすぐ近くまで来て宿に泊って明日は椎葉に行くという時に、森部というところで宿の主人が、「もう、これから先は何人も行けません。命が危ないからここから是非引き返しなさい。」ということで泣き泣き椎葉への道を中断されている。柳田国男はそのことを「西遊記」を読んで知っているわけです。憧憬する二人の旅の作家が果たせなかった夢を自分はどうしても実行したい。それを公務出張に「僕の夢を実現するために宮崎県の椎葉に行く」とは書きません。そして、いろんな講演をしながら、ついに日向の神門から回って椎葉に入ってくるわけです。
 東京に戻った後で書いたものに「今度の旅は、九州南部を歩いて暮らした。其れは日向と肥後の国境で、非常な山の中だった。私の本意に適った所であった。」とあります。この文を見て直ぐに思い浮かべたのは、橘南渓の「西遊記」や古川古松軒の「西遊雑記」を読んでいる柳田国男の姿である。其処には椎葉が登場する。椎葉への道は、そうした延長線上に計画されたに違いない。これが江口の断言であります。私もこの説に与したい。初めからこの旅を計画してやって来たに違いない。また、別のところにこう書いています。「旅をするのには、旅行をするときの倍くらい事前のいろんな資料固め、情報収集が必要であり、路銀と同じくらい必要である。」と。
 以上、3名の動機説を述べましたが、椎葉への旅の動機は、果たしてどなたの意見に与されるのか?。以上問題提起とさせて頂きます。(拍手)

秋本 治
 はい、黒木さんには、柳田国男の椎葉入りの動機を3人のそれぞれの御説をご紹介いただきました。一つには、柳田国男の愛弟子である千葉徳爾先生の「椎葉の焼畑」を検証するのが目的とする説。二つには、熊本商科大学の牛島先生の説で、「広瀬弁護士から那須の話を聞き興味を抱いた」。人吉の旅館で「那須一族が平家を追い詰めた後、子孫を残して去ったところがある」と聞いた。更に都城の旅館で高岡宮崎県知事から「椎葉の奇習焼畑の話を聞いた」。こうしたことから「すこぶる好奇心の念を動かした」とする説。そして、三つには「旅作家の橘南渓、古川古松軒がなしえなかった憧憬の椎葉踏破」とする江口説。どの論拠も「さも有りなん」もっともでありそうですが、江口説が柳田国男の心理を深く読んでいるのではないかとのお話であったように思います。シンポジウムは、結論を出すことを目的にするものではありませんので、皆さんの胸のなかでそれぞれ思いを語っていただければと思います。
 それでは夕刊デイリの佐藤さんお願いします。佐藤さんは、目下紙面に『柳田国男100年』ということで連載を続けていただいております。

佐藤隆一  まず、参加して驚いたというか、びっくりしましたのはこの資料の完璧さ。こけだけの資料を集め、コピーし、折をつけ、それからパンチング穴を開け、それから番号がついてますね、これを分類し製本化する。こうした作業が一冊を作るまで、もう我々はほんとに相当な時間を要する、苦労するわけです。お金もかかるわけです。コピーするだけでも紙代からなんから。さらに表紙にもこういうタイトルをつけて頂いております。これを50人分くらい、全員分を作って頂いたという事の素晴らしさを、僕は最初にこれを手にした時にびっくりしました。ほんとにスタッフの皆さん方に感謝したいと思います。
 それから、私ははっきり言って先生でもありません。専門家でもありません。またお二方のように詳しくやってきたわけでもございませんが、あくまでも野次馬的な、社会的な記者として来ておりますので、そういう立場で今日は発言していくしかないんですが、今紹介して頂きましたように『柳田国男100年』というのを紙面で連載させて頂いております。
 この資料にハガキの載っているページがあると思うんですが、黒木さんが「柳田国男ゆかりサミット」の交流をもとに調べられて、牛島先生のご助言もあったということなんですが、群馬県の舘林市の田山花袋記念文学館に行かれて、このハガキを見つけられた。そのハガキを県の県史編纂室に持ち込まれたところ、これはすごいお手柄ですよ。黒木さん凄い事やりましたね。という風なことで宮崎県の民俗研究家の皆が感激して、それを県史の写真に、この表紙のうちの下の写真を掲載しているんです。『県史民俗編資料1』というのに下の写真が掲載されております。
 しかし、上の縦型の写真、宛名が書いてある表書きですね、この部分は全く公表されておりません。だから今日ここに参加されてこの資料を手にされた方だけがこれを目にされた。あるいは田山花袋文学館に行って拝見するしかない。それだけの資料価値がこれにはあるという事なんです。ですから、実を言いますと私も『県史民俗編資料1』に出ているこの下の写真というのを拝見して、その時記事に書かせて頂きまして、この上の表書きの部分は見ていなかったわけなんです。ですからこの下の写真に掲載されているのは、ずっと近く、熊本から鹿児島に入ってからの、それから宮崎県を出て行って広島県に行くまでの間の行程しか書いてないですが、表書きのほうにはその前の行程が、全部人吉までの行程が書いてあるんです。ですからこの部分まで全部把握してないと、まだ全体の、九州・四国旅行の明治41年の部分のことは把握できないということで、今日参加されていらっしゃる方はその部分まで全部見れるということなんですね。それだけの資料がこの中に黒木さんとスタッフの皆さんの努力の中で完成されているということを先ずご理解頂きたいと思うんです。
 私は、今回の旅行、全日程申し込みはしましたが全日程参加できるか非常に不安だったわけなんですが、参加した以上は途中で一回くらい記事を送信して載せなきゃならないだろうなという風なことを考えまして、その意味で資料を持ち込んでいたんですが、その中でご紹介させて頂きたいのは、これは返還する意味も含めて持って来たんですけど、『奇跡』という本があるんです。これは多分皆さんご覧になったのは初めてだと思うんですが、『黒木盛衛、没後50周年記念史、黒木盛衛没後50年祭準備委員会編』という、黒木盛衛さんはご存知のように勝実さんのお父さんで、柳田国男が来た時の桑弓野の郵便局長さんですね。その方のことを子供さんや親戚の方々がいわゆる家族史といいますか、没後50年経った時に勝実さんが中心になって作られたもので、親族一同の方々の盛衛さんに関する思い出だとか沢山綴られております。
 私、これを今年の2月か3月にお借りしていましてそれを返すつもりで今日は持って来ておりました。それと、更にこれも姉妹品ということなんですが、『鎮魂のふ黒木コメ没後10年追悼記念史』、これは盛衛さんの奥様で勝実さんのお母さんです。お父さんだけの本を作ったんじゃやっぱり片手落ちだということで、今度はお母さんのを出しておられます。これもご家族の方々の母親に対する、またご親族の方々のコメさんに対する思いが掲載されておりまして、先ほどチトセさんが色んな意味を含めてお話されましたけれど、これを読んでいくとまたそういう思いにもかられる本でありました。どうも有難うございました。
 それと、私が椎葉、特に今綾部先生が住んでおられます、元村長宅に初めて行ったのは平成7年、今から13年程前なんですが、当時『文学散歩』というシリースを私やっておりまして、その中で柳田国男を取上げさせて頂きまして椎葉村に来たんですが、今日のお話の中にも出てきましたように丁度お留守の時でした。どなたも住んでいらっしゃらなくて、いわゆる荒れ放題と言っていいかどうか、ほんとに荒れておりまして草ボウボウでして、玄関の横に金属製の箱が置いてありまして、その中にちょっと見ただけでも分かるように民俗学の研究者の方が『○○大学△△研究室・・・』というような名刺が沢山入っておりました。皆さん相当の方があのお宅には以前から訪ねて来られていたということがその時点で分かったわけなんですが、中瀬淳村長がまた提督の長男というのはずっと皆さんの興味の的だったんです。
 平成3年に、黒木さんによって柳田国男の行程全部がこのハガキから分かって、だいぶ知れられてきたんですよね、その後ちょっと紹介させて頂いたんですが平成15・16年に椎葉に大災害がありまして、私がいたときにですね、それで15年の災害の時に私が高鍋の帰りに寄りましたのが、尾前の、今日見えられてる尾前賢了さん宅辺りが大災害だったんです。やっと賢了さん宅の先の奥に入りまして、恐る恐る行ってその帰りに中瀬邸に行きましたところ、今日みたいにきれいになってて、『えっ、どうしたんだろうなあ』と思ったら綾部先生がいらっしゃって、そこが綾部先生との初対面でした。そして綾部先生からご紹介を受けて、神社の御神木が倒れたと聞きまして、ほんとにもう神業ですね。お社にほんとは倒れ掛かるべき角度なのが、かすってもいなくて横に倒れていまして、それを記事にさせてもらったんです。
 その文学散歩というのを、これ自分が記事に書くために参考資料として持参していたものを、たまたまこういう場面がきましたのでちょっとご紹介させて頂きたいと思うんですけども、柳田国男は宮崎県に3回来ているのですが、その1回目が明治41年の今回の時なんです。その後に、「海南書記」を書くために途中で朝日新聞の記者として来たわけなんですが、一番最後に来た時に、こういうことを言っております。宮崎県を含めてこの九州の事も頭において言っていることだろうと思うんですが、『この神秘な意味の深い上代史を持ちながら、しだいに世間から遠ざかって忘れられるという、九州の端としても珍しい。書いた物を唯一の材料とするというのが一般論、学風からでもあったが、郷土に対して充分の親しみを持たぬからもあろうと思う。日向という国の一つの特色は、我が民俗の郷里、すなわち前の生活に少しばかりだが近いということであろうと思う。いたずらに中欧の文化に隷属して終わるべき土地柄ではないのである。』と。
 これは『たちかえり』という詩と共通するものを言っているんだろうと私は思います。同時にこの『たちかえり』の詩が共通するのは、今日も途中で話に出ましたように、吉川英治が「新平家物語」の中で、本来の平家物語は壇ノ浦の戦いで血と血を争う戦いで終わっているわけなんですが、「新平家物語」は、壇ノ浦で終わらずに理想郷をエピローグにもってこようとしている。実際にもってきているわけなんですが、そのエピローグは平家落人の村というところは、椎葉だけじゃなくって全国各地にあるんですけれども、彼は椎葉にもってきたわけなんですね。椎葉こそが日本中の理想郷だと、もう敵も見方もない、此処こそが日本人の本当の幸せのある場所なんだという。本をお読みになっていると思うんですけど、機会があったら「新平家物語」の最終章を読んで頂けたら、吉川英治が椎葉にどんな気持ちを描いたか、それから柳田国男が『たちかえりまた耳川の』という、もう一回住んでみたいなという気持ちを椎葉に抱いた気持ち、それが今日私達が参加した、皆さんがおっしゃった椎葉に対する気持ちと共通するものではなかったのかなという風に感じました。(拍手)

秋本 治
 柳田国男が宮崎県に3度来て、その最後に来た時に「日向という国の一つの特色は、我が民俗の郷里、すなわち前の生活に少しばかりだが近いということであろうと思う。いたずらに中央の文化に隷属して終わるべき土地柄ではないのである。」と言われたというご紹介がありました。まさしく宮崎のアイデンティティをおっしゃったわけですねえ。示唆に富んだお話をありがとうございました。
 それでは綾部さん、柳田国男について中瀬邸をお守りされながらいろんな情報を収集されたと思いますがお聞かせいただけますか。

綾部正哉
 平成13年に、今の中瀬邸に入らせて頂きまして3ヶ月後に、大変な人物が玄関前に立ちました。ご夫婦で私よりも年配だなぁと思われるお一組のご夫婦でした。気配に気付いて玄関に出まして、『どうぞお上がり下さい。お茶を用意していますよ』、と申し上げましたら、『上がらして頂いていいでいすか』、と。多分奥様のほうだと思いますがおっしゃられまして、『どうぞどうぞ』て言ったら、玄関に足をお掛けになる前に手を合わせられたんです。なんだろうと思ってみましたら、玄関の正面が、今日見て頂きました村長さんの遺影が飾られてありまして、私が飾ったんですが、それに向かって手を合わせられていらっしゃるんです。
 『あれ、この人何者だろう』と思いましたらツカツカツカツカと上がって行かれて、仏壇の前にピシャッと正座されて、『先生、お久しゅうございます。』と。えっーと私思いました。そしてお祈りが終わりまして、『失礼ですがどなた様ですか』、とお聞きしましたら、次のような話でした。
 「実は、私、かまだひさこと申します。現在、成城大学の名誉教授でございますが、
柳田国男に50年仕えた秘書でございます。」
 『故郷70年』が最後の出版物ですが、あれを聞き書きをなさったひさこ先生なんです。そうして、「塾生にして下さい」と私におっしゃるんですね。とんでもないと私思いましたが、二番目の私の塾生になって頂きました、恐れ多くも。それから、私と先生とのやり取りが始まったんです。
 「柳田が生前こんな風に私に言ってました。『かまだ君、一度椎葉に行ってみたまえ、中瀬淳村長の家を訪ねてみたまえ』と、ところが70を過ぎる今日までついにその機会を得ませんでした。今日それが実現できてとても嬉しいんです。」と。そうおっしゃってくださいました。お茶をお出し、お菓子を召し上がって頂きながら、生前の柳田先生に関するその秘書からの直のお話を、どの文献にもない話を私聞いたんです。これは、いつか私はまとめなきゃいかんぞと。しかし、しっかりした物にしないといい加減なことでは大変なことですから、ジーッとまだ今温めて、今日もまだお話できません。申し訳ございません。
 それから、今日参加された方の母君シゲさんですね、中瀬村長さんの5人の娘さんのお一人。そのシゲさんが104歳で鬼籍にお入りになるんですが、実はお亡くなりになる前に、上椎葉の老人ホームにお入りになっていらっしゃいました。そしてもう足も随分弱られた折に3度、私の家、つまり自分の生まれた生家にお参りにいらっしゃいました。玄関を上がってズルような形で、歩けずにズリながら仏壇の前に額づかれて、何かブツブツブツブツ淳村長とお話になっているんですね。何を言ってらっしゃるんだろうと思って聞き耳立てるんですがよく聞き取れないんです。
 お参りが終わりましたので『おばぁちゃんどうぞ』てお茶を差し上げて、聞いてはいけないかなぁと思って、実は聞いたんです。「おばぁちゃん、柳田先生のことなんですけれど」て切り出しました。そしたらそれまでジーッと、もう体も随分小さくなられまして下を向いてらっしゃったのが、シュッと背筋が伸んだんですね。「何じゃろかい」と。「あのー、実はですね、柳田先生はこのお宅には泊まられたんですか、泊まられなかったんですか」て、とても確信をつく質問をズバッと私やったんです。そしたらニコーっと笑いまして「柳田先生は、この部屋に入られたんですよ」と。コザの間です。床の間の付いていたあそこにお入りになった、と。
「いや、泊まられたんですか」と、念を押しました。そしたらニヤニヤ笑いながら「まっ、泊まったことにしときましょう」、とおっしゃったのが、どういう意味なのか、私はそれ以上確かめることは出来ませんでした。
 それで、去年の3月、中瀬泝(のぼる)艦長の奥様、三島に居るマサコさまにお会いに行った時にも、「マサコさん、聞きにくいことなんですけれども、淳お父さんから柳田国男先生について何かお話をお聞きになっていましたか」と聞いたら、「色々聞いてますよ」とおっしゃいました。とっても上品な奥様ですから99歳でも明晰でした。「どんなお話をお聞きになりましたか」て、まぁ、私も意地が悪い、探るような質問をしたんですが、色々その時もお話を頂きました。
 それで今日、黒木勝実さんが田山花袋に宛てたおハガキ、それから考えると椎葉での日程はこうであり、宿泊所はここであり、また柳田国男先生の椎葉入りの本来の目的とか、あるいは決断の裏にあった思いとか、そんなことをお話頂いたんですが、まぁそれに肉付けするようなお話をマサコ先生からも私聞いて来ました。いずれ文章化したいと思っています。
 最後に、柳田先生の昭和16年の小論文に『涕泣史談』という論文があります。非常に薄っぺらなやつです。もう絶版です。全集の中にしか残っていません。『ていきゅう』の『てい』はさんずいに弟と書きます。『きゅう』はさんずいの泣くという字です。どちらも『泣く』という意味です。それを歴史的に考察するという『涕泣史談』。この中で歴史というものを我々が遡って考えたり、先を予想したりするんだけれども、100年単位というのは、あまりにも長いということをお書きになってらっしゃいます。せいぜい50年じゃなかろうかと。
 何故なら50年前だったらまだ存命中の方が沢山いらっしゃるからいろんな証拠を集めることが出来る、というようなことを最初にお書きになった後に、その日本人と泣くということの意味、意義、これについての論文なんですが、あの民俗学者、国語学者でもある柳田先生にしては驚くようなことを書いてらっしゃいます。何を書いてらっしゃるかというと、我々人間は、言葉が最高のコミュニケーションの道具であるという風に思い込みすぎてはいないか、と。言葉に表せない深い思いは、泣く事でしか表現できないじゃないですか。
 例えば、私は教育の世界に38年身を置きましたから現在の子供達の登校拒否、或いは非行をする子供達と沢山私も接してきました。まず、親や先生は、こんな子供に何て言うかというと「どうしたの」と先ず聞きますね。その次に「何か理由があるんじゃないの、お友達関係なの、それとも先生に対する不満なの」、「学校が嫌になった理由は」、「ひょっとしたらお父さんやお母さんに不満があるんじゃないの」、と。子供は最初、黙ってジーッと下を向いています。たたみ掛けるように我々大人や教師は子供達に言葉を浴びせます。「早よ言え、今言え、すぐ言え、言わにゃ分からんじゃねーか」、と。そのうち、涙が出てきます。「泣くな、泣いてどうする」、「泣いとっちゃ分からん、しっかり言葉で言え」、と我々は言います。でも、彼らは、子供達は、自分の深い思いを言葉という記号に置き換える力はまだまだ無いんですね。だから、涙という、或いは黙り込むという表現、これでしか表せないのに、我々は性急して、急いで「早よ言え、今言え、すぐ言え、何で言わんか、言わにゃわからんじゃないか」、と言って攻めます。
 実は、言葉に頼りすぎるという風に指摘なさってますし、或いは「泣く」ということは心のカタルシスと書いています。つまりカタルシスというのは下痢です。内臓に異常があって下痢をするとサッパリします。お腹が調子よくなりますね。涙は、心の汚れを洗い流してくれるんだと。ですから、泣け、泣け、泣け、とおっしゃってくれているんですが、これも、私は遠い昔、日本の祖先の中には『泣き女』という役目を持った人達がいらっしゃいました。お葬式の時に泣く女の方がいた。泣き声が大きい程立派なお葬式だったという評価です。未だに、韓国や中国では、わざわざ泣き女を雇ってきて、お金持ちは沢山の泣き女で泣いてもらう習慣が残っております。やはり、我々は、あまりにも言葉、それに頼りすぎて、言葉がすべてであると思い込んでいたことに対する一つの柳田先生からの警鐘かなという風に思います。(拍手)

秋本 治
 ふーん、綾部さんのお話を伺っていると、まだまだ「柳田国男秘話」がありそうですね。文章化されるということですので、これ以上聞くのはやめて後の文章化に期待したいと思います。大変ご示唆に富んだお話ありがとうございました。
さて、それではここで会場からも頂戴したいと思います。

会場
 焼畑についてお訪ねします。私は佐賀県の佐賀平野のど真ん中に生まれ育ったんですが、山地はせいぜい千メートルくらいしかないんですけど、焼畑が地形とか気候条件とかで、どういう所にできるか、そういう条件についてお訪ねしたいんですけれど。

黒木勝実
 まぁ、やみくもに何処でもとはいえませんが、実は、椎葉村の焼畑というのは地名でもあります。宅地と田畑、それ以外は椎葉では山林のことを焼き畑という地目で表していました。何故そういうことを断言できるかというと、僕は税務課に10年程おりました。採用されてからずっと。それで、地目を見ると非常に焼畑が多い。山林と同じ扱いですが地目は焼畑です。昭和41年に、僕の時代に、村の職権で全部地目を変換しました。ほんとは個人でしなくちゃいけません、地目変更の登記は。一筆が何千円もするのが一銭もいらんで職権で全部してしまいました。その焼畑は、地形が普通は日当てのいい方向に向いた土地は、あまりいい焼畑とは言えない、ということで北向きの方が好まれる。ですけれども、そういう土地を持たない人もいますから、どういう所でも土地を持った人は焼畑に利用しておったということであります。

秋本 治
 ふーん、椎葉では山林のことを「焼畑」の地目であらわしていたということで、昭和41年に地目変換されたんですね。五ヶ瀬でも、特にこの大字鞍岡地区は、地籍調査が全く今でも手付かずのところです。それで字図を見ますと適当に線を引いて「焼畑」とか「原野」が残っていますねえ。現実とかけ離れています。そういう経緯があったのですね。あと他にありませんか。

会場
 先ほどから、柳田国男が何の目的で椎葉に入って来たか、いろいろと一説、二説、三説とありました。私個人的には黒木勝実氏の説に賛成でございますけれど、これはあくまでも決め付けないで、ロマンとして残しておきたいと、残して頂きたいという風にお願い致したいと思いますがいかがでしょうか。

黒木勝実
 申し上げましたように、ほんとは自分としては一定の『これではなかったか』という意見を言いたい。ところがまだまだそれには言い尽くせません。第三案について、江口説で言うと、彼は、もうほんとに少年時代だけでなくて柳田のありとあらゆる文献を見て、この人は何で来たのか、という意味が一層見えてくるわけです。多くの書物の中で、柳田国男はもの凄く、部類の読書家でありました。その柳田が、自分が憧れる作家の二人、後でもう一人おりますが、その作家の夢が果たせなかった椎葉にどうしても行ってみたい。そういう本を読んでいる柳田が宝物としている本があったと。私はまだまだ到達していません。貴方の意見でよろしいと思います。

綾部正哉
 私も、どれだと決め付けるというのは、まあ早計だろうと思うんですが、今三つ出ていますよね。私は四つ目があるような気がしてならないんですよ。これもロマンなんですけれども。というのは、確かに読書家であった。そして、旅行作家の果たせなかった夢をどうしても自分が果したいという思いもあった。農政学者としての立場の思いもあった。なんとか経世済民を九州地区でやるにはどうしたらいいだろうという思いもあった。
 しかし、私は長らく教師をしておりまして、人間の発達という事から考えますと、柳田国男先生の成育歴を抜きにしては考えられないと、私はそういう思いがあるんです。ご承知のように非常に恵まれないご幼少時代を過ごされています。ご自信も体が弱いお坊ちゃんでした。ある文献にはわんぱく坊主と書いてらっしゃるけれども、とてもそうじゃないと思えるような病弱なお体で、そして養子に行かれ、あるいは長男のお兄さんのところに、茨城県の布川に行き、いろいろな、彼のそういう現体験ですね、
 そして、農民の貧しさ、その貧しさゆえに子供を殺したというあの山のお話。それを考えます時に、現代の世界から取り残されたような椎葉、誰も行っていないようなところの椎葉、あの旅行好きの作家さえも行けなかった椎葉、しかし、そこに人が住んでいる。一体どんな暮らしなんだろう、きっと貧しい暮らしなんだろうか、私が小さい頃思ったような、あるいは感じたような貧しさの中に暮らしている人々がいるんだろうか。なんか、そんなものも四つ目の理由の中にあったのじゃなかろうか、と。
 そしてその思いが、実は、先生の作家として考えるとき思うことがあります。私は「人間における串」とよく言うんですが、あの団子の串です。団子3兄弟が大変流行りました。あの時、三つの団子を長男、次男、三男と歌っていました。その時、私はこの歌はけしからんと言って批判しました。周りの人が「なんで団子のことでそんなにはらかいて(怒って)いるの」と言うから、「肝心なことがこの歌には歌われていない」って言ったら、何ですかと言うから「串が出てこない」と言ったんですね、歌詞の中に。串がなけりゃ串団子じゃないんだ、と。人間にも串が刺さっているんだ、と。そして、その串は人によって一本一本色合いも違えば、太さも、硬さも、大きさも、強さも違う。そしてその串は生まれ落ちる前から、お母さんの体内に宿った時からずーっと作られていき、生涯を通じてその人なりの串というのが形作っていく、そんなもんだと思う。
 だから、三つ子の魂百までなんてことわざも日本にはございます。幼児期の教育がいかに大事かということが、今大きく叫ばれています。幼児期どころじゃない、「胎教の影響は凄いよ」ということを産婦人科の先生方はおっしゃっています。そうしますと、どう考えても柳田先生の生い立ち抜きには考えられない、というような気がして、そこと椎葉とを私は四つ目の理由で秘かに結び付けようとしています。

佐藤隆一
 あの、ロマンという言葉が今でておりますが、今日なんかそれにピッタリの素晴らしい話といいますか、私、今日車の中でシゲさんの三男の甲斐三男さんの隣にずっと座らせて頂きまして、色んな話をお聞きするチャンスに恵まれました。隣同士ですから私一人で聞いてたようなわけで、非常に勿体ないからご披露させて頂きたいと思うんですが、シゲさんは5人おられる中の4番目だったですよね。その下にスエさんていらっしゃいました。シゲさんもスエさんも師範学校を出られて学校の先生になられるんですけれど、シゲさんはその後ずっと今日伺った不土野を中心として、椎葉村各地をご主人と共に移られながら先生を続けられるんですが、スエさんは上京されまして声楽家の道を志されるんですね、それで宮崎県で初めての女性ソプラノ声楽家として蝶々婦人だとかオペラの歌手として活動されている。
 そこまでは知っていたんです。今日お伺いした中でそういった芸術活動の中で、吉川英治との出会いがあったんだよということを聞いたんですよ。あーそうなんですか。そこまではまだ驚かなかったんですが、吉川英治からスエさんはプロポーズされたんだ、と。結局スエさんはお医者さんの奥様になられるわけなんですけれど。まぁ吉川英治がまだ有名な小説家になられる前のお話だったらしくて、それを包み隠しなくおばさんからお聞きになった三男さんが、おそらく、もしかしたら他人に対してまた、すぐに公表したがる我々みたいなものに対してですね、お話頂いたというのは、もういいかなぁという風に三男さんにしても今日思われたのかなと思いながらお聞きしたわけなんですけれども、これは凄いですね。今となっては吉川英治もいませんし、スエさんもいらっしゃいませんし、すごいロマンだなぁと僕は思うんですけれど、これはまた新しい話が出てきたなぁと思ったしだいです。

秋本 治
 やあ、次々とロマンの秘話が時空を越えて飛び出してきて実に楽しいですねえ。もっと会場からも発言頂きましょうか。

会場
 先ほども、秋本さんから出ていましたように、まだこの『柳田国男の100年の旅』に関連しての行きたいところもある、と。私なんかも参加したいところがある。まあそういうプランニングも、最初から南郷でもちょっと出ておりましたけれど、やはりこういう広域的な中で、南郷と椎葉と椎葉中心だと思いますけども、五ヶ瀬と。こういうツアーでいいと思いますけれど、是非また来年ぐらいに、早いうちに101年をお願いしたいと思います。
 それから、私ちょっと熊野古道に行って来ました。といいますのも実は凄く行きたかったから行ったんですが、世界遺産というような非常に大きく、まあ言うならば、やはりプロジェクトがきちっとしたものがあったわけですね。誰かがおっしゃっていました。猟師の人たちしか今のところ回る人がないかもしれない、と。議会とか政治をやっているとか、お世話をする皆さん達が、やはりこういうことをやっていることを知ってですね、そして柳田国男がこの椎葉を見ようとした時と現在、そして100年後を見ようと、もうこの100年のうちに人類が、地球環境はどうだったとか、いっぺんに何でも変わっているんですね。人の心までもというようなところです。ですから、是非このチャンスを活かして続けて頂きたい、と。そういう時に、私は熊野古道を見て、やはり手を繋いで世界遺産、それも文化も自然も歴史も踏まえてみんなやってきたんですね。そういうようなプロジェクトのところには人が集まる。みんながそこを中心に知ろうとする。まあそういうことになるんだろうと思いますから是非、そのような形で備えていただければと思います。

秋本 治
 ありがとうございます。柳田国男から100年、先ほどからお話されているように、スピードの追求、快適さの追求、合理的さの追求の行く先はどうなっているだろうかということですね。現在の過疎、高齢化の状態、その延長でシュミレートしてみると、100年後は、山村の集落はもう殆どなくなっていると思われます。まさに、今は、語り継がれたものをしっかり記録し、将来に伝えていくという作業、「村たたみの美学」みたいな心境で取り組んでいる部分もあると思うのですね。貴重なご提言ありがとうございます。是非来年も続けたいと思いますのでよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
 それでは、時間もかなり遅くなりましたので、最後の締めに一言ずつ頂戴したいと思います。どなたからでも結構です。

綾部正哉
 椎葉のことをいろいろ調査頂いたり、実際にこちらにお出で頂いて、もうたくさん本を書いて頂いている飯田辰彦さんという方がいらっしゃいます。もう多分4冊目くらいですかね。最初のが『山人のふ今も』というタイトルの本で、この一番最後に私と同じ思いの文が締めくくりにございます。それを最後にご紹介して私は終わりたいと思います。
「私が考えるのは、今後この焼畑を積極的に復活させることにより、山の再生と同時に村民の暮らしの向上、ひいては村のイメージアップにまで繋げることだ。山に投下する補助金を焼畑耕作者に手厚く振り分けることはもちろんだが、焼畑からの生産物を地元の旅館、民宿、食堂で使うよう奨励し、それら施設にも何らかの補助金または奨励金を付与しなければならない。」と。これはまぁまぁたいした事ないです。最後なんですね。「800年かけて九州の尾根で培った知恵と行動力」、私は800年とは思ってないんですが、それ以上だと思っているんですが。「今ほど求められる時代はない。「山人のふ」を今こそ大声で歌ってもらいたいものである。椎葉が選ぶ未来は間違いなく惑星の未来に繋がっている。椎葉とはそんな山里である。」で締めくくってあります。私も未来に繋がる、まぁ今100年後はないかもしれないという秋本さんのお話だったんですが、あるように、存在しているように、やっぱり今生きている我々が、それを実現させる力を発揮する時ではないのかなとそんな思いで一杯でございます。

秋本 治
すばらしい締めでございました。ありがとうございます。次お願いします。

黒木勝実
 99年前に柳田国男は『遠野物語』を出しました。綾部先生の話ではありませんが、串、いわゆるこの『遠野物語』の心棒としては何か、というと。僕の一言で言うとその中に出てきます『山地人、山民をして平地人を戦慄せしめよ』という一言です。もっと自信持ってやろうということ。それから、我が椎葉村において『後狩詞記』の心棒、中心の一言は僕の考えではこの一言だと思います。「山におれば、過去までも今にというものであろうか、思うに古今は直立する一本の棒ではなくて、山人にこれを寝かせたようなものである」。ということは古今は、現在しかなくて、あとはもう手の届かない過ぎ去ったこと、そういう風に思いがちですが実はそうではない、これを山のほうに寝かせたようなものが現在の姿である、と。けだし名言だと思います。だから過去と言う過ぎ去った昔、山地に行けば手で触ってみることができる。そういうようなことを言っているわけです。まさしく今、椎葉もそういう状況で、しかしこれから益々頑張ります、期待に応えるように。今回の旅、更に将来を考えろという風な意見が沢山ありました。皆さんの思いと僕達の思いも何処かで接点がないといけないかなあと思っております。だから情報を可能な限り繋がるような工夫を凝らしていきたいと考えています。よろしくお願いします。(拍手)

佐藤隆一
 新しい提案が、新しい会を発足しそうな、産声があがりそうな、そんな感じがしました。私は、2つのことだけを簡単にお話させて頂きたいと思います。
 一つは、九州の地図を頭の中に描いて頂いて、鹿児島本線の方はあと4年もすると、鹿児島中央から大阪まで新幹線で4時間で結ばれるという時代を迎えております。一方、宮崎県側の日豊本線側というのは極端に言いますと大正13年に国鉄が開通しまして、やがて85年近くになろうとしているんですけれども、戦後ほとんど列車の線路が上がらない状況になっておりまして、また宮崎県は南北に長い県なんですけど、県北の北側の方は空港までも非常に遠いと。また、高速道路のインターチェンジまでが大分の米良という所で延岡から1時間半、熊本県の松橋までも約2時間、宮崎県の西都市までで1時間半、延岡からですが、椎葉からまた乗ろうとすると随分掛かると思うんですが、そういうことで宮崎県の北部は陸の孤島だということを数十年間言って参りまして、東九州自動車道の建設を急げという風なアピールをしていまして、宮崎―延岡間が平成26年度には開通するという段取りになってるわけなんですが、延岡から大分までも同じ頃に開通するということで、やっと高速道路時代が宮崎県北に来るかなという風なこと。そういう高速を求めていくということを一方ではやっているわけなんです。
 逆に言いますと、日本の文化が失われたものがこの宮崎県北には沢山残っている。昨日、椎葉の博物館を見学しましたが、あそこでずっと見ていたら春夏秋冬の儀礼といいますか、あれは、昔はおそらく全国にあったものだろうと思うんです。それが残されているのが、この椎葉がやっているということで椎葉に残っている。宮崎県北に残っている。そういう残された日本の心というのは、日本のこの地にしかないんだな、と。残された物はこの地にしかないんだな、という、一方にはそういう思いもこの宝の地域だなというのがあるわけなんですね。
 それで、柳田国男がその白銀時代の狩が今まさにこの地域で行われているのであるという風に書いた、明治42年に序文に書いた物が100年経っているんですね。今、同じようにこの地域には残っているんだなという風な、残された価値というか、日本にとって大事なものがここにあるんだなという事を改めて認識するいい機会だったという風な気がします。
もう一つは、この100年の旅の意義なんですけれども、非常に有意義だったと。また次に繋がる新しい芽生えが出てきたということが大きな価値だったと思うんです。これは冗談談半分と聞いて貰いたいのですが、10年後、20年後この中に何人生き残っているかなということもあるんですね。昨日もバスの中でほんとにいっぱい説明してもらいまして、黒木勝実さんがいらっしゃらなかったら誰が説明してくれるんだろうな、と。ほんとに思ったんですよ。あのバスの中ではですね。勝実さんは行政の中心にいらっしゃったこともあっていろんなことを沢山知っていらっしゃる。その当時言えなかったことでも、今はかなり言えることもあると思います。そういうことをかいつまんで話して頂きましたし、ほんとに椎葉に対する知識が今回増えました。
 やっぱり、昔のことを少しでも、昔のことを知ってらっしゃる世代の方がいらっしゃる時に、いろんな企画をどんどんどんどんやっていかないと、語り継ぐことも出来なくなるといいますか、知らないということはですね。だからほんとに今回私達は聞くことが出来ましたし、私ほとんどテープに入れたつもりなんですけど、これを起こすのは至難の業なんですけれども、非常に貴重な体験を皆様と一緒にさせて頂いたということを感謝したいと思います。有難うございました。(拍手)

秋本 治
 ありがとうございました。もうパネリストの皆さんのすばらしい締めで私の締めは必要ないように思います。今回のシンポジウムで非常に私どもとご参加の皆様方が一つの思いで繋がっている、と。先ほど、綾部先生の串の話がでましたけれど、まさに柳田国男を串としてみなさんが繋がっているというような雰囲気でございました。
 それから少し残念だなぁと思ったのは、最初この企画の話を持って回った時に非常に共鳴をしてくださる方と、全く感動のない方がいらっしゃいました。特に若い方はほとんど知らない、と。だからいかに柳田国男が100年で風化されてきたのかということをつくづく感じました。これはなんとか記録しなければならないと思ったしだいです。
 最初にお話がありましたように、日本の失われた物、こういうものをやっぱり蘇らせてきちんと見つめるということは、日本にとって非常に大事じゃないかなというような気が致します。更にそういったところを発信していけたらなあという風に思っております。
 ご参加の皆様には、ほんとに遠い所からも私どものつたない企画の中にご参加頂きまして感謝しております。まぁ、料金が高いよとかいろんな苦言も頂いたわけなんですけれども、当初は行政とか、いろんな所からもご支援を頂けるものという風にタカをくくっておりましたんですが、全くそういうものがございませんでしたから、皆さん方から頂いた費用だけしかございませんから、スタッフも手弁当であったり、というような状況下で、このようにして皆さんに支えて頂いたので嬉しく思っております。
 ほんとに3泊4日という長い間のシンポジウムでございましたけれども、このようにしてご参加頂きまして誠に有難うございました。またパネリストの先生方、大変有意義ないいお話を頂きましてこのシンポジウムを締めくくって頂きました。ちょうど柳田国男の100年目に生まれ合わせた私達の役割が果たせたかなと言う風に思っております。本当に有難うございました。これでおわりといたします。(拍手)
[完]

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第13回霧立越シンポジウム
九州脊梁山地文化圏
平成22年10月24日〜25日


第12回霧立越シンポジウム
『柳田国男100年の旅』
平成20年7月19日〜21日




第11回霧立越シンポジウム
『自然体験とインタープリテーション』
平成20年5月10日(土)〜11日(日



第10回霧立越シンポジウム
西南戦役130年
平成19年4月21日〜23日



第9回・霧立越シンポジウム
過疎山村の町村合併を考える
2002年11月22日



第8回 霧立越シンポジウム
幻の滝を考える
2002年7月20日〜21日
 


第7回 霧立越シンポジウム
キリタチヤマザクラを語る
2000年4月30日
 


第6回 霧立越シンポジウム
日本上流文化圏会議
1997年11月2日
 


第5回 霧立越シンポジウム
森とくらしのあり方を探る
1997年5月17日
 


第4回 霧立越シンポジウム
霧立山地と自然
1996年11月8日
 


第3回 霧立越シンポジウム
霧立山地の植物
1996年5月11日
 


第2回 霧立越シンポジウム
タイシャ流棒術350年と霧立越
1995年10月2 1日
 


第1回 霧立越シンポジウム
「霧立越を語る」
1995年5月14日
 


森シンポジウム
―地域の光の創造と発信―
1992年10月25日

五ヶ瀬ハイランドスキー場
パネリスト
竹内宏氏(長銀総合研究所理事長)
後藤春彦氏(三重大学助教授)
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車 香澄氏(福岡大学教授)
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秋本 治 (やまめの里代表)
コーディネーター
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2009.03.10〜