霧立越

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第2回・霧立越シンポジウム・タイシャ流棒術350年と霧立越


ぁ‖茖撹堯.僖優襯妊好ッション  タイシャ流棒術と霧立越


とき 1995年10月22日 ところ 椎葉村開発センター



パネリスト
中馬章一氏  宮崎県商工労働部観光振興課長
藤山邦子   NHKみやざき文化センター講師
山北竹任氏  無形文化財タイ捨流宗家第十三代師範
              野中久義氏  宮崎県企業局管理部長
永松 敦氏  椎葉村民俗芸能博物館準備室学芸員

アドバイザー
渋谷 敦   熊本県文化財保護指導委員 錦町教育委員長

コーディネーター
秋本 治  やまめの里


紅葉の霧立越縦走
秋本 今日はお疲れ様でございました。5時間くらいかかったんでしょうか。印象に残りましたのはシロモジの黄色い紅葉とドウダンツツジの赤い紅葉です。みなさん無事に縦走できましてまことに有り難く存じます。5時間くらいを縦走しますと、ほぼ体力の限界かなと思われます。あと2時間歩きますと聞いたらもういやでしょ。体力の限界の半分までのエネルギーを使いますと精神状況が非常に良いそうでございまして、踏破した充実感と疲れで雑念を取り払ったところでさっそくパネルディスカッションに入らせていただきます。
 昨日渋谷先生にタイ捨流丸目蔵人のご講演をいただき、タイ捨流と丸目蔵人がおぼろげながらもわかってきた感じでございます。丸目は晩年人吉の球磨の錦町に隠居され、十三代目が今日まで伝承されています。素晴らしいことだと思います。タイ捨流は球磨から椎葉、五ケ瀬を通り、蘇陽町の馬見原まで来ました。秘伝書を「巻き物」と地元では呼んでいます。昨日拝観しました巻き物を懐に入れて武芸者が何度も霧立越を行き交ったと思いながら、今日歩いてきたところでございます。昨日の講演をお開きし、演武を拝見し、昨夜はまた炉端談義を行ない、さらにこれから深めていこうということでございます。
 おひと方づつ順に話していただくというのは、どうもワンパターンで面白くないんですが、最初だけは、タイ捨流が伝わってきた道を初めて歩かれた感想と霧立越の印象をおひと方づつお願いしたいと思います。最初に中馬先生おねがいします。

中馬 みなさんお疲れさまでした。昨日の前夜祭でたいへん勉強になったところで今日は霧立越を踏破いたしました。前回は雨模様だったということですが、今日は雨もなく順調に歩けました。紅葉の美しさが印象に残ります。
 今回は、宮崎在住の東北県人会の人たちもご参加になってます。その趣旨は、九州で美しい紅葉が見れる所はこの九州中央山地とりわけ霧立などのブナ林帯であるということであります。東北ではご存知のとおり裏磐梯とか八幡平、ユネスコの世界遺産条約に登録された白神山地といろんな山で見事な紅葉と冬景色が見れます。九州ではそのような世界は標高 1000mを越える高山にしかないわけです。実は私の家内が東北出身なもんですから、そのような話を聞かされております。
 歩いてみて、本当に非常に素晴らしかった。ただ残念だったのは、遠望するとところどころスギの人工林が見受けられて視界が中断される場面があるということです。やっぱり九州の脊梁の素晴らしい霧立越とこの紅葉。遠望も含めた一帯の素晴らしい効果を、今後とも私ども守り育てながら、いろんな人たちにこの喜びをお知らせできたらと思っております。

秋本 藤山さん、大変お疲れだと思いますけども。

藤山 みなさんお疲れさまでございます。何をかくそう私はまだ疲れていないみたいです。歩く前は、ああ今日は疲れるかもしれんなと思ったんですが、この開発センターに着いた時に結構元気があふれていたんです。と申しますのが、今日はこちらにいらっしゃいます 13代師範の山北先生の後をずーっと付いてきました。そこであることに気がついて先生に合わせて歩きました。それでと思いますが全く疲れていないんです。その先生の身体の元気、その奥義の部分といいますか異質の部分についてお話したいと思います。
 山登りに対して全く疲れない一番大事なことが、呼吸法ですね。それは先生の伝統と、それから、昨日話したあるものということなんです。それに気づいてすごく素敵で不思議だったんです。そのへんを話していきたいと思います。

秋本 今まで何度か霧立越をしまして、新記録が生まれました。山北先生がなんと3時間かからずに山小屋にたどり着かれました。これは今だかつてなかったことです。タイ捨流をおやりになることが、なんでそんなにエネルギーになるのかなと思いますが、山北先生ひとつご感想をお願いいたします。

山北 私は私の力をそれなりに出していただけなんです。それなりにというのは、山の地形に合わせてということでもあるし、峠がどこにあるか、どこが上り坂、どこが下り坂かという道筋に自分の気を合わせて歩いただけだということです。
 宇宙の道理の循環に従うことがタイ捨流の真髄です。万物といえども自然にしたがっている。地形を見ると、どれだけの吸い込みでどれだけ上がるか分かる。あそこの峠まではこぎゃんに行こうと一目見たら、スーッと吸い込んでファーと吐く。力のいれどころ、足のふんばり、足の向き。全身の動きに対して、登る時は大きく吸い込んで吐きだす時に一気に吐く。それを無意識に繰り返していったら絶対に疲れんとです。パパパーッと駈け登って、元の身体にもどる。
 剣道も、今が時期だ、今吸い込むというタイミング。負けて押される状態ではなくて、そこでせき止めて向こうが疲れた時にすってんころりんとやるわけです。その応用です。
 昨夜の晩餐の時にみなさんにも呪文をひとつお教えしましたが、「まかやまかやわらびの恩は忘れたか」「山まだら山まだら我が行くさきにおるならば大和の姫におうて語らん」と唱えながら気を合わせていくと、マムシも出らんとです。

秋本 最初からタイ捨流の秘伝をご開示いただいております。それでは野中先生お願いします。

野中 私も途中までは藤山さんと一緒だったんですが、途中で藤山さんにすっかり気をとられてしまったんじゃないかと思うんです。やっぱり疲れました(笑い)。
 素晴らしい霧立越でした。この行程全部の中でお世話をしてくださったスタッフのみなさん大変だったろうなと思います。登り口から終点まで 11kmにおよぶ熊笹がきれいに切ってあって非常に歩き易かった。これが、350年前を考えたらどうだったろうか。熊笹を掻き分け掻き分け登ったんじゃないかと思ったり、あるいは350年前にもああいう具合に地元の方がおられて整備がしてあったのか、大変なご労苦であったろうと思いながら歩きました。いつもその仕事にあって地域を守っておられる方に頭の下がる思いできたわけでございます。それと私もいろんなことに夢をもって35年間やってきましたが、ああいう道でひょっとして山北先生のようなタイ捨流と遭遇したら自分はどうしたろうかと(笑い)。本当に楽しくて登ってまいりました。またいろいろお話をしたいと思います。お疲れ様でした。

秋本 永松先生は風邪気味ということで霧立越はひかえていただいたんですが、昨日の秘伝書の展示からこの会場の準備とたいへんなご苦労をありがとうございます。民俗伝統芸能がご専門でいらっしゃいますので、研究者の立場からご意見を出していただきたいと思います。

永松 今日は失礼いたしました。私ここで椎葉の民俗芸能博物館の開館準備をしております。平成9年の3月オープンですからあと少しです。稗搗き節を始めとする芸能と民謡の旅も考えておりますので、駄賃付けの道でもあったこの霧立越をカメラとビデオと三脚をもって一人でゆっくり撮りたいと思っております。
 昨日から武芸の話になってますが、実はこの方面の研究については、武道家の方とか趣味の方たちが多くて、歴史学あるいは民俗学としてきっちりと位置づけられていないんです。私自身も日頃思うんですが、重要な点は、きちんとした学問的な研究がなされているかということなんです。秘伝書の模写があっても、美術史の分野では模写というのは目を向けない。それから歴史学の方は古文書がないと目を向けない。したがって文献がない。だからいろんな学問の分野があるんですが、本来やらんといけないことが、その谷間におそらくもっとたくさんあるはずなんです。したがって江戸時代から言われているんですが、その分類とか人となりとか作者は誰か、そういうことが何にもわかっていなかったということが実はある。武道に関してもそういうところがあります。
 現実に、華道とか茶道は芸能史という範疇に入るんです。武芸の芸も芸能の芸が含まれているので、芸能史の範疇に入ります。ところが芸能史の研究というと、関西の研究者がたくさんいらっしゃいますが、私は関西の人間だからよく分るんですけども、関西の人間というのは、苦労に合うとあまり興味を示さない。実はタイ捨流に関してもそういうことが言える。
 宮崎県立図書館の参考文献としては二つありました。その中で講談社の「日本武道大系」の第 10巻には歴史が書かれています。タイ捨流に関する歴史は分りますが、棒術が主になっているとは言えない。それで芸能史といったテーマで、つまり、こういった武道を文化史の中でどのように位置づけていったらいいのかという試みをしてみたいと思っています。
 それとともに、みなさん昨日見られました「棒術」についてですが、ここの鞍岡の祇園まつりだけ「棒術」があるんです。棒術が「棒踊り」となって演じられている芸能は、九州では鹿児島から福岡までありますので、そういったものを後でビデオで紹介しながらお話をすすめてまいりたいと思います。

秋本 ありがとうございます。タイ捨流をどのように文化史の中で位置づけるかの試みをということでありまして、実は何もわかっていないという大変なことが分ったということですが、是非研究を深めていただきたいと思います。次は、渋谷先生お願いします。

渋谷 失礼いたします。今日は霧立越を越えることができまして非常に嬉しゅうございました。人吉を中心にした相良藩と御地延岡、高鍋藩とはしょっちゅう行ったり来たりして、養子をやったり嫁さんをもらったりして来たわけです。ところが五ケ瀬町となりますと、歴史的にも縁遠い気がしておりました。ところが椎葉というのは長い間相良藩の統治地で、五ケ瀬町というのはかつて延岡内藤藩に属していたわけです。だから内藤藩と相良藩は、実は今日五ケ瀬町から登りました白岩山で繋がっていた。あそこが国境だったんですよね。だから白岩山を越えてからは椎葉村すなわち相良藩内を歩いてきたことになります。
 そうなりますと霧立越というのは両藩を連絡した重要な交通路であったと思うわけです。今から 100年前までは日本国中、県道もなかった。町道もなかった。この霧立越こそ当時国と国とを結ぶ一番重要なロ ードであった。
 それともうひとつ、さっき藤山さんが、ずっと山北先生の後を歩いてきてタイ捨流を会得して少しも疲れなかったと発言されました (笑い)。ちなみに疲れなかったのは当たり前ですよ。重い弁当は私が背負っていたんですから。それを私は言いたかった(笑い)。終わります。

右半開から左半開へ、待つことを捨てる自在の構え
秋本 ありがとうございました。タイ捨流とはなんぞやということで、本論に入っていきたいと思います。こちらで棒術はカタカナで「タイシャ」と書いたり、漢字で「大車」と書いたりしています。秘伝書には「大車」と書いてあります。それから山北先生のにはタイ捨流とあります。まずタイ捨流とはどういうことでしょうか。タイ捨流の意味をお話しいただきたいと思います。

山北 タイ捨流のタイには、体、太、対、待の意味があります。始祖丸目石見守入道徹斎蔵人佐は「敵をせめるものではなく、己を律するもの」だと言っています。私は「待つことを捨てる」自在の構えだと思っています。どういう体でもマッチするから範囲が広い。最初、右半開から左半開へと軸足が動く。凄まじいことは、他に例のない逆足の構えが入っていることです。
 極意は、川にドボンと石を投げ込むと輪を描いて広くなっていく。あらゆる流派に対して負けない身のこなし、組合せができる。蔵人は非常に多芸な人で、手裏剣をやらす、居合をやらす。二十有余流に通じていた。槍、長刀、居合、手裏剣、剣法などあるわけです。流儀を会得するならば、似通った身のこなし、流れとなって範囲が広くなっていきます。直々に伝わってきたところと途中で流れが遅くなってきたところとあるし、弟子が別に流派を編み出していくこともある。時代の変遷に従って変わってくるわけです。そういうことでタイ捨流が「おおぐるま」と理解され大車流となって棒術と変わってきた。が、タイ捨流の流れであることは身体のさばきでありありと分る。ここの棒術も猿廻を汲んだ動きでタイ捨流の流れとすぐ分りました。
 タイ捨流の動作を知っているなら、どんな相手も少しも恐くない。真剣の実戦になった時に必ず勝つ。やっぱり凄かと思うのは、丸目蔵人は一度も負けたことはなかです。東の天下と西の天下を柳生と分け合っている。

一本だけ私がしてみましょう。
(演武)

秋本 ありがとうございました。実戦を交えながらタイ捨流の型をご披露いただきました。


渋谷 タイ捨流と大車流についてお話が出ていますが、例えば新陰流はもともとは愛洲移香の陰流です。陰流の新しい姿だから新陰流ですね。ところが時代が下がってきますと、真実の「真」を使った真陰流となり、時には神様の「神」を書いた神影流もあります。また陰流も時によって影流と書いたりします。時代によって人によって使い分けることがあるわけですからカタカナの「タイシャ」と、大きい車の「大車」とはやはり一連のものということを考えました。

秋本 ありがとうございました。タイ捨流から流派がわかれてタイシャ流になったのかもしれない。あるいはそのタイシャ流はそのままで棒術の方が変わってきて、[おおぐるま]と言葉を申し合わせて大車になったのかもしれない。

野中 吉川英治の「宮本武蔵」の中に武蔵と棒で試合をする夢想権之助という人が出てまいります。神道夢想流では棒術と云わないで、「杖術」と云います。これは真実かどうかわかりませんが、福岡の太宰府の近くの宝満山宝満宮竃門神社というのがございまして、そこが神道夢想流杖道発祥の地ということで、末社に夢想権之助神社というのございます。もともと夢想権之助は、香取神道流の流れを汲み、神道流の第何代かの使い手だったんですが、武蔵と試合をして、武蔵の二刀流の十字の構えにかかってどうにもならずに敗れた。そこでなんとかして武蔵の二刀流を破るにはということで、その宝満山に籠って、一生懸命新しい技を工夫したところ、「丸きをもって月を知れ」というご神託を受けたといわれます。そういうことで、四尺二寸の丸い何の変哲もない樫の棒を持って杖術を編み出し、武蔵と再び合いまみえ、ようやく引き分けたということになっておるんです。そういう具合に、棒術につきましても、東北から九州まで全国至るところに伝わってます。
 今、山北先生、渋谷先生もおっしゃいましたように、丸目蔵人は徳川家康と同じぐらいの時期におられたわけです。まだ戦国の色合が濃い時代です。鎧兜を着て戦場を駆け回っておった色合が濃いがゆえに、非常に実践的。刀はもちろんのこと、槍も使わないかん、長刀も使わないかん。槍や長刀が折れた時には、今度は棒としてそれをいかに活用して相手を制するかということにもなる。そこからタイシャ流棒術は生まれたんだろうと思うんです。そういう流派としては、東北には無辺流ですとか、長崎には竹生島流棒術が残っています。このタイ捨流を拝見し、みなさんの棒術の動きを見て、やはりこれは同じタイ捨流の剣術から出た棒術だと思いました。非常に貴重なものですから、さらに山北先生のご指導を仰ぎながら、ぜひ発展させていただきたいと思っております。

民俗芸能史にみる武道 永松 タイシャ流の字がどうであるか。棒術になってから「大車」になったのではないかとか、いろんなお話が出てますけれども、まず押さえないといけないのは、その流派の同じ形を果して残しているかどうかということです。まず大事なことは、この丸目蔵人佐の生きていた時代が戦国期であるということ。さらに近世初期いわゆる太平の世の中にまでわたるということです。流派をきっちりさせ、他流試合をしてはいけないとか、こういうことをしてはいけないという作法が形態化してくるのは、やはり太平の世になってからでないと出来にくいんです。戦国期に他流試合をしてはいけないと言いだしたら戦にならんわけです。ですから、戦国期にこういう流派や剣術剣士がたくさん出てくるということをまず押さえる。そして、ではそういう人たちがどういう活躍をしたのかということです。どういう人たちが剣術の師範になり、合戦の指導的役割を担っていったのかということが大事だと思うんです。
 この研究はほとんどされていませんが、私自身、南九州の文化・民俗を扱う上で、どうしても修験道を研究しないといけなくなってきたんです。きのうも山伏問答がありましたけども、その時に、じゃ山伏は何をして生活をしているんだということが大事になってくる。一方、戦国期までの生活の仕方と、太平の世の中になってからの生活の仕方が変わってくることが分っているわけです。というのは、戦国期に関しては幸い薩摩側に上井覚兼という宮崎城主になった人がいるんですが、地方では非常に珍しい戦国期の日記が残っておりまして、それをすべて紐解いてまいりますと、山伏が合戦に対して非常に重要な役割を果していることが分ってきたわけです。
 どういうことをやってるかというと、いろんな武将に遣いをやる。今日は皆さん霧立越を歩かれましたけど、そのような山道を知っている。抜け道を知っているという利点があります。それともう一つは、山伏の格好をしていると関所でもどこでも自由往来できるという特権があるんです。日本の場合はなぜか宗教者に関しては非常に甘い。ですから、どこでも自由往来ができる。それによってその地方の山の天候なり地形なりをつぶさに調べることができる。いわゆるスパイ活動ができるわけです。そうなってくると、どの方角からどういうふうに攻めていけば勝てるかと作戦を立てていく上で、山伏が大事な役割を演じていることが分ってきたんです。
 その後、今まではこの日記からしか分らなかったことに更に島津家の史料が加わります。実は東大の資料編纂所の島津家文書の目録を見ていましたら、昨日ご覧になった巻き物のように烏天狗のような絵がたくさんついている史料が、戦国期、文明年間とか天文年間、天正年間にわたってたくさん出てきました。全部島津の史料です。それによると、合戦の日取りを決めることから、方角を決めること、それから戦死者が出ますから死者の引導の作法、宗教者ですからお葬式もします、そういうことを全部山伏がやっていることがわかってきたんですね。当然剣術も出てくるわけです。
 もっと古い時代にさかのぼると、たとえば、平安末の源義経の話で、武蔵坊弁慶がいますが、七つ道具を持っているわけです。山伏というのは、山で木を切ったりしないといけないし、鉈も持たないといけない。六尺棒も持たないといけない。いろんな道具を持っているわけです。そういう道具を持って、芸能をやったり、剣道をやったり、武術をやったり、いろんなことをやってるんです。もともと棒術というのは、修験の中にあったものなんです。そういう道具を使った武道的なものが、中世になってきますと、天台宗の僧兵のように寺を持ち武装化を図っていきます。織田信長がいちばん嫌って片っ端から切り捨てていくんですけれども、そういった武装集団が出てくる。宗教者ですから、死んだ人を弔うという宗教的な面を当然もっています。それに戦うという実務面が加わってくる。だから、余計権威が出てくるわけですね。そこに加えて彼らは芸能もできる。いわゆる鬼の面を被って走ったり神楽をやってみたり念仏踊りをやってみたり、いろんなことができるわけです。棒を持ってますから、棒を持って踊ったりもするわけです。
 そうなってくると、僕がもう一つよくわからないのは、その棒術という武道から棒踊りに発展していくのか、棒踊りという踊りがもともとずっとあってそこに武道が作られて、何流という名前が後でつけられてくるのか、そのへんの前後関係はもう少し整理していかないと分らないと思っています。
 島津藩では合戦のためのこういう祈祷書が戦国期にたくさんつくられ、天下太平の世になり、寛文 5年1665年には祈祷書の再編をやりだす。関ケ原は1600年ですから、天下が安定してくる頃なんです。どういう祈祷書ができるかというと、がらっと内容を変えて、山の神祭りはこういうふうにするとか、何々はこういうふうに祀るとか、祭礼をもって権威付けすることしかなくなってくるんです。戦国期には合戦できる人数をいっぱい家臣に入れてるわけです。ところが戦国期が終わり太平になってくると合戦がないのに飯を食わせないといかん。はっきり深刻な事態で、そうしないとお互いに困るわけです。それで山の神がどうだとか、水の神がどうだとか、盆踊りをさせようとか、あるいはその流派をつくっていこうということが出てくるのは近世初期からになってからだろうと言えます。私、2年前に白水社から『狩猟民俗と修験道』という本で資料的にまとめています。その中に東大の資料なんかも写真で出していますのでまたご覧いただきたいと思います。

 ビデオにまいります。鞍岡の祇園祭り。これは鞍岡祇園神社の近くの青年による棒術です。次は宮崎県の南の方に行きまして、北郷町潮嶽神社で 2月11日に神楽があり、その前に中学生による棒術があります。続きまして都城市に近い三股町の棒踊りです。
 今度は鹿児島県の日吉町にまいりまして、セッペトベ。どういう意味かと言いますと精一杯跳べの意味です。神社境内と神田でもう一辺同じ踊りがあります。笹踊りと虚無僧踊りがあります。鹿児島県には虚無僧踊りが多いのです。どうして虚無僧と棒術とが関係するのかというのも問題になってくるわけですね。範囲が非常に広いですね。ですから小学生も多く後継者には困らないということでしょうね。民俗芸能が後継者不足で問題になってますけども、奉仕者という場合とレベルの違いがあり、必ずしもみんなが困っているわけではない。
 今度はちょっと珍しいもので福岡県にいきます。田川市の隣の田圃の町の筑豊で、川崎町というところに秋楽という芸能があるんです。これは 5月4日にやっておりまして、剣術があります。ここは何流ということはなく、清めの意味でやってます。この後に秋楽をやる。これが福岡県の豊前市の感応楽とか中野市の検地楽とか、大分県にかけては、楽という太鼓踊りがあります。宮崎では臼太鼓踊というのですが、これも川崎町などでいう楽の範囲に入ると言えるでしょう。
 最後に鞍岡です。昨日行いました山法師問答の本当の姿をご覧いただきたいと思います。白装束で簡素な形で踊ったということでした。ここではこの踊りを山法師踊りと言って後の問答を山伏問答と分けてます。
 椎葉の場合は問答を含めて山法師踊りと言います。椎葉の場合二カ所あるんです。小崎と不土野です。その問答をやってます。それは後、義経の東下りで安宅の関をぬける時の話になっています。祇園祭りの山伏問答は、謡曲系では安宅、歌舞伎では勧進帳と問答の内容は全く同じです。ですから主力は勧進帳なんですが、昨日見てますと、その部分が欠けている問答になっているようです。椎葉の不土野では、 11月3日の昼頃に山法師踊りを行います。
 芸能調査を長年やってきてますが、今年こちらに行くと残りの調査はできないで、そこで 10月9日は九州はオクンチが多いので大変なのです。来年の10月9日はかならずお邪魔いたします。
 この踊りは日本では椎葉と鞍岡しか残っていませんので、写真とかビデオで保存しておいていただきたい。問答については、棒踊りの一種としてトータルに考えて良いと思います。

山北 山伏について一言挟みますと、丸目蔵人の墓前で自刃したといわれる伝林坊頼慶という山伏がタイ捨流の棒術ですよ。

渋谷 伝林坊頼慶は中国から来た武術家で佐賀にも滞留していたことがあります。丸目蔵人が没して七年後の寛永 12、3年ころに亡くなっています。

永松 今の山伏問答の最後に、黒部山や羽黒山の話が出てきます。羽黒山が出てくるのは、義経が東北平泉まで行きますが、そこを支配しているのが羽黒山なんです。いわゆる東北三山は月山、湯殿山、羽黒山ですから、その羽黒山の山伏だということが重要視されたんではないかと思います。

秋本 タイシャ流棒術の肥雲働山は、修験者、山伏の本拠地だったということですね。一能院友定という人物は調査していくと出てきそうでしょうか。

永松 出てくると思います。特に武術には未発見のものがまだありますし、各藩の武術経路と供述書については研究者がほとんど扱わないというか扱えないんです。それを実際に取り上げたのは僕が初めてでして。人吉市の図書館にもかなり島津家の古文書が入ってますから、とにかく丹念に見ていく作業が必要だと思います。

キツエン一刀の心
秋本 気の遠くなるような作業だと思いますが、ルーツが知りたいということがありますね。それと、戦国時代には作法もお構いなしだけれど、時代が安定してくると作法化していろんな流派に分かれてくる。その中に秘伝書や巻き物があって、誰にも見せてはいけない、だれにも教えてはいけないという戒律ができていくんですね。技術を磨いた人が一番最高であるはずなんで、ちょっと見ただけで奥義が盗まれるといけないというものなんでしょうか。見てはいけない非常に深刻なものになって神格化されていくということでしょうか。先生も最初に、秘伝書を伝授された時にどう思われたのかお聞きしたいのですが。

山北 私が免許皆伝を受けたのは、昭和 38年、父が死ぬる前の年です。「竹任おまえは何もかんも知っとるで、もう言うことなかで」といって親父が死んだんですわ。槍、長刀、居合、剣法など手裏剣まであるタイ捨流の武道全般から、算盤、刻限、天気予報、地震に関する観測まで巻き物といっしょに何もかんも譲って。「この大納言家宝は、目がトバシデルぞイッパシルぞ」と伝えられてきた巻き物です。「トバシデルぞ」は目がつぶるということで、絶対に見ることはできぬ。
 ところが私の代になって、「そういうことがあるものか」、「何の目がイッパシルもんか」と開けてみました。ひらかなかカタカナか日本語か梵語か分からん犬の銭みたいな字と人形の絵。誰が見てもわからん。ちんぷんかん(笑い)。でも私の場合は「型」として自然に分かってくる。親父から習ったんではない。親父も親父から習ったんではない。見取り稽古で覚えていくんです。
 どちらか一方すなわち打太刀を覚えておくと、相手すなわち仕太刀は分かります。打太刀、仕太刀が自ずから分っていく。それが見取り稽古です。
 私は仕太刀の方が好きでした。仕太刀は難しかです。身体を動かさんば。動きも速くないといかん。動きを速くするためには構えをもう少し低くもっていく。姿勢を低くもっていくということは次の動作に移る準備です。弟子に指導する時は、私の動きに付いて行けるか、行ききらんかということをやります。私が気を入れるわけです。ちょっとゆるみがあってスキができた時に、ハッと突きを入れます。その瞬間に相手がどういう気を持って私に付いてくるか。その真髄が難しい。

秋本 お父さんは小田夕可。先代第 12代師範になられるんですね。

山北 私の父の小田夕可が熊本県無形文化財に人間指定されたのが昭和 37年9月です。その後、親父が39年の11月に亡くなって、人間指定が解除になったんで、タイ捨流を絶やしてはいかんということで、渋谷先生のご尽力で平成6年の10月に錦町の無形文化財となったんです。昭和42年に巻き物の調査があった時に家中の巻き物をまとめたら数十巻ありました。

藤山 昨日、皆さんもご覧になった本邦初公開の秘伝書がございました。その中に梵語であるとか、隠語がたくさん隠されていると聞いたんですが、肝腎なことは、結局は書物の中には残されないで口述で受け継がれてきたんでしょうか。たとえば、いちばん肝腎要の部分を後継者の方に書物ではない、それこそ目で感じ口で教えつがれていかれたのでしょうか。

山北 口伝って書いてあります。身でもって自分が対応しながら覚えていくことです。

藤山 その隠語になっている部分ですよね。昨日書き記してきたんですが、オンマダライ、ジンヤテンとか書いてあるんですけど、実際の梵語とは多少ズレがありますね。ことばの音とズレがありますよね。これは何かを隠すために語呂合わせにしたとかあるんでしょうか。だとすれば、その真意はなぜに隠されたのか、その隠語になっている部分は一体何があるのかを、もしよろしかったら教えてくださると、すごく感動するんですけど。

山北 そこが極意です。(笑い)

藤山 先生、もう一つよろしいでしょうか。タイ捨流棒術は、 350年の歴史がございますけれども、350年をたどっていくと、その頃の宗教、密教とタイシャ流の関係は切っても切れないような気がするんです。その頃の宗教は、一般の人たちに受け継がれていた仏教とは違って、ある種特殊な階級の人たちだけが奥義として伝授されたのが密教だと聞いてたんですがどうなんでしょう。

山北 タイ捨流は、二刀を使いよる。二刀の巻き物があります。宮本武蔵は左に小刀を持って右に長刀。タイ捨流の場合は、右が短剣で左が長刀。たとえば、右手と左手に筆を持って書いた場合、同じ字画で同じ名前が書けるかというと絶対書けない。どういう達人でも、書道の何十段である人でも絶対書けない。二刀といえども一刀の心に到達するんでないと駄目です。そういう心に到達するには、一つは投げ剣にある。投げ剣でパッとやり、受けるときに持ち替えて長刀で切る。心と仏教は一致しなければならない。生きる法則。それをキツエン一刀の心といいます。
 丸目蔵人は晩年は入道して藤原長恵という坊さんになり、活人剣をつかようになります。活人剣は活かす剣です。敵を倒す剣ではなく活かす剣です。タイ捨流を永遠に残すためには、人を殺す、人を活かす、双方の点で心と仏教は一致しなければならない。

藤山 そこからちょっとお話が変わっていくんですけれども、心の部分を形にしたのがこの棒術であれば、先ほどの棒踊りは弔いの一つの儀式だったんじゃないかなという気もしたんですけど、どうだったんでしょうか。

山北 棒術の中に山伏が出てくるのは、伝林坊の系統を汲んで養成して修験者となり、これを全国に広めたということです。たとえば、参勤交替の周りを固める任に修験者があたることもあったんです。

永松 今のことでおそらく一般の方々がわかりにくいのは、山伏と修験者の関係だと思うんです。これはまったく同一と考えていただいて結構です。だから、山伏だと思ってください。いま言われたいわゆる真言ですね。何とかソワカだとか、それから陀羅尼というのもあるんですが、真言というのは、サンスクリット語でマントラといって、これが密教です。修験道が密教も採り入れるし、日本の山の神も信仰するしで、日本人の信仰を全部包み込んだような形で動きます。
 それともう一つは、山伏がいっぱいおると困るから、国はちゃんと真言宗か天台宗かどちらかに入れということにしたわけです。だから、「まこと本山の山伏なれば」というのは、山伏は本山派と当山派と二つあるわけです。本山派が天台宗系で、比叡山を中心とする山伏。それから、当山派は真言系で、中心は京都の醍醐寺三宝院を中心とする派です。この二つに分れます。ですから当然のことながら、その真言とか陀羅尼はいくらでも入ってくる。昨日も、マムシ除けの呪文で「ワラビの恩だった」とか、ここの人間は最後にアビランケンソワカというのを必ずつけるということです。

山北 巻き物の中に六根清浄の経が書かれていました。

永松 六根清浄というのは、人間を作っている根源は六つだ、それが清らかだということです。山伏というと、ほんとの山伏と、大峰講みたいに、商店街のおっちゃんでもその時だけ入峯して一緒に行くという人がいます。その時だけの修行ですね。山に登るときに、「六根」と言ったら、下から「清浄」とつられて歩いて行くようになってるんです。だから、専属の宗教者と、もう一つは一般の庶民がいるんです。我々みたいな一般民衆は、一時的に宗教者にもなれるというように山伏の場合ややこしいことがあります。だから、盆踊りとか棒術を教える人が一人おったら、その他諸々は一般民衆で良いというところがあります。そういうことも考えていかないと分らない。

山北 天地宇宙、六根清浄。戦いに臨むにあたって般若波羅蜜多心経も唱えます。生涯に必要なことは自然の法則にしたがって会得されます。そういう霊行の中で、人間は行いをしているんです。地鎮祭の三方荒神。勝負や旅の刻限。空を見、自分の手を見る気象など、自然の法則にしたがって生きなさいよということなんです。落雷鳴動の時の除けの呪文は「うんらいくぜんこんご、ばくしゅうだいう、ねんびかんのんりき、おおじとくしゅようさん」です。
 真剣勝負をする時は、破軍乃繰様といって、この方向にいると絶対に敗れんという刻限を追って方角をずーっとずらしていきます。敗れる方向と勝つ方向が太陽を背にして陰陽の刻限で動くんです。ある物体を斬るとしても、力の応用の度合によって刃筋が通っていく。相手とのかみ合わせ、意気投合は陰陽とつながります。
 相手の呼吸を利用し相手の力を応用する。向こうが 100の力を出したらそれを自然に受けとめて倍にして出す。力でいえば遠心力というか加速をつけて上乗せする。力としては凄かです。

渋谷 今のお話、補足というわけじゃありませんけど、二つ。一つは、秘伝書の中にいろいろ隠したのがあるんじゃないかということですが、タイ捨流の秘伝書の中に、「口伝あり」口で伝えるとあります。タイ捨流の「十手」というのは、「口伝あり、内実は「投げ剣」である」と。それは実際、免許皆伝してもらった人にしか教えられない。巻き物を見たってわからんという部分がありますのでご理解いただきたいと思います。
 それからもう一つ、いま山北先生からいろいろご説明がございましたが、多分にタイ捨流は、密教と結びついております。それに対して新陰流は禅宗ですね。沢庵和尚が出てきたりして「剣禅一致」なんて申します。禅宗との結び付きが新陰流の特長だと思います。そういう違いがあるんです。

秋本 タイ捨流の奥の深さがだんだん分ってきて、分ってくるにしたがって、複雑で難しくなってきたんですが。最後に一言ずつお話しいただきたいと思います。

巻物を懐に武芸者が歩いた霧立越に

地方軸の系譜を見る。
藤山 昨日、今日の二日間で感動として一番残っているのは、山越えで食べたお米がすごくおいしかったということです。単純なことなんですが、山で食べるおにぎりがなぜこんなに美味しいんだろう。普段そんなに食べないんですけども、おにぎりをかなり食べました。やはり実感が伴わないと人には伝えられないと思います。ですからあの山にお入りになった方は、おにぎりが美味しい、空気が美味しいと、本当に感動したことを自分が感じた本当の言葉でどんどん伝えていく必要があると思います。それともうひとつは、山がとにかく美しいということ。どんな美術館に行くよりもこの山に入って自分の審美眼に置き換えてみてほしい。それともうひとつ、山はやっぱり冷たいです。山は冷たい。表情はあるんですけども、山は威張ってると思うんです。人間がどんなにがんばっても山には勝てないと思いました。

秋本 山北先生、最後に丸目蔵人が後世に伝えようとするものを感じておられるんじゃないかと思うんですが。

山北 これからも先もタイ捨流の交流が改めてつながりをもつことをお願いして、非常に素晴らしか「おおぐるま大車」になっていただきたい。大車というのは、大きな方円の器に従って流派ができていくということです。

野中 シンポジウムの題名はタイシャ流 350年と霧立越。とはいえ皆さん方にタイシャ流やんなさいとか宗教もやんなさいということではありません。このエコ・ツーリズムに参加された皆さん方それぞれが心の中に、自分にないものへの怖れをもっておいでと思います。ぜひそれを自分の生涯かけて具体的な目標を決めながらおやりになったら楽しいんじゃないかと思います。私もいろんなケースを週刊誌の目録みたいにあちこち単純にぱらぱらやってみましたが、手裏剣をやっててよかったなあと思っています。と申しますのは、手裏剣をやる人は少ないから簡単にナンバーワンになれる。(笑い)ですから、毎月300km歩くとか、あるいは宮崎県の渓谷を跋渉するとか。皆さんそれぞれナンバーワンを目指して力いっぱい目標を持っていただきたいと思います。

永松 霧立越ということで、椎葉と五ケ瀬鞍岡間の国見峠を越える 265号線が、平成8年の夏に国見 トンネルで結ばれます。トンネルと山越えの国道と霧立越。鞍岡と椎葉がこうして結ばれると、それで交流を図ってみたいと思います。
 タイ捨流剣術はとうてい私の及ぶところではございませんので、こういう棒術とか棒踊りとかの玄関口になっていただきたいと思います。今日みなさんにご覧いただいた各地の棒術や棒踊りをよんでイベントをするとか、資料収集ですね。うちは芸能の方をやりますから、棒術関係の方は鞍岡の方でやっていただくとか。同じフォレストピア事業団ですけども、五ケ瀬の三ケ所にいまつくっております荒踊りの館がもうすぐできます。荒踊りの館に頑張っていただいて、鞍岡には棒術関係があって、そしてトンネルをぬけると民俗芸能に関する館があるというようなルートをつくっていきたいなと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

渋谷 霧立越に参加させていただいて本当に嬉しゅうございます。今日は五ケ瀬から椎葉にかけて越えたわけですが、来年は逆に椎葉から五ケ瀬にかけて越えたらと思います。ぜひまた呼んで下さい。なお、今日は3時間で越えたそうですが、次回はタイ捨流の山伏になったつもりで2時間で越えましょう(拍手)。なお、道を作ったり草を払ったり、随分陰のご苦労があったと思います。ご苦労様でした。焼酎もうまかったし、ご馳走も美味しゅうございました。ありがとうございました。

中馬 私どもの観光振興課では残念ながら、古美術とか武道とかいった研究がまだ充分でございませんで、お話が充分出来なかったんですが、今日うかがっていて非常に面白かったのは、 10年20年あるいは30年前だったらこういった素敵な企画をやろうとしてもとても出来なかっただろうということです。
 この霧立越が、今回はタイ捨流というテーマですけども、そのほかに霧立駄賃つけの道であり、那須大八郎宗久が通過した道であり、西郷隆盛率いる薩軍が行軍した道であるということ。今日私たちが歩いた道は、単に景色がきれいだというだけでなく、そういった歴史なり来歴があるからこうやってシンポジウムが成立している。
 やっぱりこれはここ 20年30年と私どもを取り巻く状況の変化でもあり、国民生活なり価値観なりライフスタイルの貴重な変化であると思います。次の世代へのキーワードということで考えた時に、25年くらい前に「地方の時代」と言って考えていたことが今まさに実感となっている。それは何かというと、いろんな地域が自信をもって地域づくりに取り組んでいるということです。あるいはそれをやっていかないことにはとても地域が発展しないということで、大分の一村一品、あるいは五ケ瀬のスキー場、綾の町づくり、椎葉の伝承、そういったことをやってきた。そういう地方の時代というのがあります。
 その次に出てきたのが、「国際化、高齢化、情報化」というキーワードです。これをまさに私ども実感として感じるわけですが、国際化ということになると、たとえばザルツブルグの音楽祭に多勢の日本人が押しかけるとか、ホノルルマラソンに1万人からの日本人が行くというようなことで国際化が非常に進んできた。あるいは来年 (1996年)、国際連合の専門機関会議が宮崎で開催されるというようなこともあります。
 高齢化の問題ですと、私ども今日 11kmを歩きましたが、最後まで健脚で一番元気が良かったのは私どもよりはるかに高齢の方達でした。これからは、これまで社会人として過ごした時期とそれ以後の時期とがほぼ同じくらいになるわけでして、それをどうしていくかという課題を考える時代になってきたということです。あるいは情報化ということになると、今インターネットとかいろんな課題が出てきてますが、20年くらい前に言われた「地方の時代」がこういった実感を伴って現実化してきたと考えております。
 次に観光の面での次の時代のキーワードは何かということを申し上げたい。ひとつは、国は物づくり大国からゆとり・観光立国になろうとしていること。もう一つは、農山漁村でゆとりのあるリゾート、グリーンツーリズムということが言われています。三番目の課題は、やはり出会いと感動を求めてということではないかと思います。
 だから今後の観光は、物づくり大国からゆとり・観光立国に行く。その中心になるのは、大型リゾートもございますけれども、最終的には農山漁村でゆとりある時をいかに過ごすかという意味で、魅力ある自らの地域の観光をどう育てていくかということが重要だと思います。そして、やっぱり一度きりの人生です。出会いと感動をどう創出していくかだと言えます。
 私、今でも覚えているんですけども、財団法人村と森の会というシンポジウムが高千穂でありました時に、国鉄総裁だった高木文雄さんや下河辺淳さんたちが来られてまして、「過疎問題をはじめとして、やっぱり農山村の人が苦しんでいる。しかし、よその観光地にはないような感動を生むことができる。たとえば山葡萄をジャムにするとか、あるいはこれをお菓子にするとか、そういったことで都会の方たちに素晴らしいものを提供できる。そういう山村づくり。村づくりをしていきたい」とおっしゃったことを今でも覚えています。
 そこで私たちは何を求めていくのかということですが、人との出会い、あるいは未知との出会い。本物との出会い。その中で感動をいかに生み出していくかということであろうと思うわけです。ですから今日のお話の中でも、私たちはタイシャ流あるいは霧立越に何を求めたかというと、結局、絶対よそにないもの、ここしかないもの、全世界探してもここにしかない話。しかもそれが連綿として 350年残っている。それを皆さんやっぱり聞きたかったと思っています。 これから先、いろんな地域づくりがあると思いますが、私どもはやっぱり故郷も含めてしっかりした生活のために、他所にないものをつくりたいと思います。これは私ども観光立県としての宮崎の方向でもあるし地域が生き抜くための哲学ではないかと思うわけです。
 ちなみに五ケ瀬町は、グリーンツーリズムのモデル市町村であり、国でも「農山漁村滞在型の余暇活動のための基盤整備の促進に関する法律」という長ったらしいですが、このような法律も作りながら、農山地域が豊かに自信をもって生業をやっていただく。そういう生産の姿に都会の人たちにも入っていただく。その中でそれぞれの農山村地域を守っていくということが今ようやく緒についたところであろうと思います。そういうことで今日の霧立越、大変興味をもち、また勉強させていただきました。ありがとうございました。

秋本 ありがとうございました。霧立越を歩いてちょうど疲れて頭の雑念を取り払ったところにシンポジウムということで、なかなか話がはずみ、楽しい時間が過ごせました。それぞれの素晴らしいご意見をいただきまして、ありがとうございました。タイシャ流の棒術がいかに大事なものであるか分り、今後もっともっと深めていくことになると思います。永松さんがいらっしゃいますから、今度は永松さんにお願いしまして、五ケ瀬と椎葉が一体となって民俗芸能を通じたいろんな町づくりができたらなと思っております。私どものグループは無謀なことばかりしておりまして、霧立越も行政はまだ調査しないでやったら危ないぞというところをすぐやっちゃった。パネラーの先生方にはいつもぶっつけ本番で、失礼も多かったことをご勘弁下さいますようにお願い申し上げます。本日はみなさん方のご支援によりまして無事第 2回の霧立越シンポジウムが終了いたしましたことを厚く御礼申し上げます。

矢野 長時間にわたり真剣にパネルディスカッションをしていただきましてありがとうございました。私ども棒術を伝承するものとしまして、今日と昨日のお話から、これは凄いことだという感じが一層しております。これからは肝に銘じて長く続くように頑張っていきたいと思います。みなさん方には昨日からたいへん長時間にわたって私どもの霧立越シンポジウムにご参加頂きましてありがとうございました。霧立越に伝わる話はまだたくさんあります。今後こういう機会にいろんな角度から霧立越と私たちの生活をどういうふうに密着させていくかというところまで考えていきたいと思っております。たいへん長い間本当にありがとうございました(拍手)。

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第13回霧立越シンポジウム
九州脊梁山地文化圏
平成22年10月24日〜25日


第12回霧立越シンポジウム
『柳田国男100年の旅』
平成20年7月19日〜21日




第11回霧立越シンポジウム
『自然体験とインタープリテーション』
平成20年5月10日(土)〜11日(日



第10回霧立越シンポジウム
西南戦役130年
平成19年4月21日〜23日



第9回・霧立越シンポジウム
過疎山村の町村合併を考える
2002年11月22日



第8回 霧立越シンポジウム
幻の滝を考える
2002年7月20日〜21日
 


第7回 霧立越シンポジウム
キリタチヤマザクラを語る
2000年4月30日
 


第6回 霧立越シンポジウム
日本上流文化圏会議
1997年11月2日
 


第5回 霧立越シンポジウム
森とくらしのあり方を探る
1997年5月17日
 


第4回 霧立越シンポジウム
霧立山地と自然
1996年11月8日
 


第3回 霧立越シンポジウム
霧立山地の植物
1996年5月11日
 


第2回 霧立越シンポジウム
タイシャ流棒術350年と霧立越
1995年10月2 1日
 


第1回 霧立越シンポジウム
「霧立越を語る」
1995年5月14日
 


森シンポジウム
―地域の光の創造と発信―
1992年10月25日

五ヶ瀬ハイランドスキー場
パネリスト
竹内宏氏(長銀総合研究所理事長)
後藤春彦氏(三重大学助教授)
藤井経三郎氏(リブ・アソシェーツ代表)
車 香澄氏(福岡大学教授)
長沼武之氏(宮崎県観光振興課長)
秋本 治 (やまめの里代表)
コーディネーター
鈴木輝隆氏(落ち穂拾いの会)



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2009.03.10〜