霧立越

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第1回・霧立越シンポジウム・「霧立越を考える」


.僖優襯妊スカッション


と き  1995年5月14日
ところ  椎葉村開発センター


パネリスト
中瀬 高住氏(椎葉村長)
平嶋周次郎氏(宮崎日日新聞社社長)
長沼 武之氏(宮崎県物産振興協会事務局長)
工藤平次郎氏(南八代屋社長・馬見原在住)
椎葉サダ子氏(椎葉村尾八重)

コーディネーター
秋本  治(やまめの里)



霧立越のルートをひらく

秋本 「新緑の霧立越縦走」大変お疲れ様でございました。ほぼ予定通りいったわけですけど、途中雨に合うことになり、多少時間が遅れておりますが、ただいまから霧立越シンポジウムを開催いたします。
 昨日は、宮崎より70数名の方においでいただきまして前夜祭を行い、本日は、当日参加の方々とともに100名あまりでこの霧立越を縦走したわけでございますが、全員無事に踏破できまして、ありがとうございます。お疲れをいやしながら感動がさわやかなところで、今後あの霧立越をどのように活用していけるのかという意味でそれぞれにお話しをいただきたいと思います。
 まず椎葉の中瀬さん、今後、国見トンネルが開通することによりまして、椎葉と五ケ瀬を結ぶ地域づくりが大きく転換していくと考えられますが、椎葉側からみていかがでしょうか。

中瀬 今日は本当にごくろうさんです。扇山の山開きは5月の第2日曜日ということで、今年は本日の5月14日ということでございます。今日ご覧になったようにシャクナゲの開花の時期にあわせるということになってるわけであります。
 山岳愛好者のみなさん方がそうとう椎葉に来られたのは、昭和54年、宮崎国体の山岳競技がここと五ケ瀬、西米良を中心に行われた時でした。その時にルート化されたのがこの霧立コースです。本日は充分に満喫いただけたんではないかと思っております。だだ、少し雨にわざわいされまして、大変なことであったろうと思うわけですけども、無事下山をされましてお慶びを申し上げたいと思います。
 ところで、往時の霧立越の果たす役割は大きいものがございました。これから上流の尾前それから尾八重というところを全部越して、熊本の馬見原との駄賃付けをやっていたわけです。日帰りをするコースであったわけですから、一人で馬を2頭か3頭くらいつないで、朝の3時ころ家をでまして、行くわけです。やはり馬というのは馬力がありますが、夕方になると馬も疲れますから、なるだけ早く朝立ちして、夕暮には早く帰ってくる。ああいうような道ですから途中で落っこちたり、いろいろな障害にあうというようなことでも困りますので。 
 昔はよく狸から化かされたりというようなこともあったと聞いております。塩とかあるいは魚、ああいうものを馬に積んでくると、馬を狸が化かしてそれで全部取り上げてしまうとかですね。あるいはまた、そういうような馬を邪魔して谷底に馬を転がすというような障害もあったというようなこともいろいろ聞いております。今は道路がこのようにできてまさに隔世の感がいたしております。

少数精鋭の意気込みで守る
 ところで、お話がありましたように、国見のトンネルが間もなく開通します。1000mあまりある峠を越して五ケ瀬町に出ておった国見峠にトンネルの開通がやがて実現できるわけです。5月の19日に貫通式をやります。椎葉側が1700m、五ケ瀬側が1000m。2777mをドッキングするために貫通式をやる予定です。われわれは平成8年度、会計年度ですから平成9年の3月に完成をすると想定しておりましたところ、その後の経過ではなんとか平成8年の12月頃までには完成するということなんです。、来年のスキーシーズンに間に合うようでございます。
 私たち地方に住むものは、やはり陳情とかいろんな形で、地域の実状を訴えていくということが非常に必要なことと思うんですね。なぜトンネルが必要なのか。このトンネル工事に130億を投入するわけですからそれだけの説得のある訴えをしないといけない。130億を投入してどれだけの効果があるかということを、担当の方に充分に話をしなければいけない。非常に失礼な話だけども、中央の予算というものは、人口の多いところにやった方がより効率的だという考えはどこに行ってもあるわけですから。
 どうしても人間は生活のしやすい便利なところに流れていく。山村の過疎というのは、とめどがつかないのだと認識をすることもまた必要です。その上で、少数精鋭で、われわれはここに残る。ここで、山をあるいは地域を守ろう。古い伝統の椎葉を守る。そういうような者達だけでも残って、少数精鋭でやろうじゃないかという意気込みがないと守りきれない。そういう現代の状況のなかで、この椎葉と五ケ瀬をつなぐ国道265号線のバイパスである国見トンネルの有益性を訴えて、有効利用が必須であり、有効利用を図っていくんだということでアピールをしなければならないわけです。
 トンネルができることで、産業形態や文化形態、あるいは伝承されてきた民俗文化といったものが、いっそう付加価値の高いものになると一応認識するけれども、油断をすると、空気のトンネルを抜けるだけであとに何も残るものがないというようなことであれば大変ですから、それに対応するような村づくりなり、産業の振興なりをして村民のみなさん方と結束して村を守る政策を、この際充分に考えないといけないということなんです。
 県北フォレストピア構想というものが、五ケ瀬、高千穂、日之影の西臼杵3町と諸塚・椎葉の2村を入れた圏域で、県の方のご指導をいただいております。こういう恵まれた構想がすすんでるわけで、それをひとつの糧にしながら、独特な村づくりということをこれからも取り組んでいくわけで、なおさら認識を高めていかなくてはいけないということになってまいりました。今後いろいろなお話し合いをして住民の方と取り組んでいきたいと思っております。

秋本 どうもありがとうございました。トンネル開通によっての、椎葉村の地域作りのお話をうかがいました。少数精鋭でいくんだと。今日は霧立越にちなんで、椎葉村の方からは駄賃付けのお話をしていただきたいと思います。それから、椎葉から見ますと霧立越は馬見原口ということになりますが、この馬見原から明治生まれの84才の工藤さんにご夫婦でおいでいただいています。当時の様子を語っていただける方はもう本当に少なくなっています。まず工藤さんから駄賃付け時代のお話をお聞かせいただきたいと思います。

馬見原は駄賃付け街道宿場町
工藤 私、歳取っているばかりで、断片的なことばかりでもうしわけないのですが、まず、馬見原というのはどういうところであるかということですが、もともと中世期には人が住んでおらなかったということですね。馬見原は、五ケ瀬川を渡って鞍岡の萩原というのがございますが、その萩原に行く途中にあった集落と言われております。
 延岡の内藤藩の前じゃないでしょうか、宮崎には東西臼杵郡ともに畑は非常に多かったけれども、田はわずかしかなかったということで、米が手に入らんというようなことがあったようでございます。その当時馬見原に番所というのがございまして、いわゆる税関ですか、熊本の米とか農産物とかいうようなものをいろいろ集荷するために馬見原に番所を作って、結局そのお陰で馬見原は物流の拠点になったようなわけでございます。
 私は子供の小学校の頃まではよく覚えておりますが、駄賃付けさんが一人で馬を2頭か3頭ひっぱってきて、そしてだいたい夕方頃馬見原に着いていました。着いた頃には馬見原に後藤さんという木賃宿がございまして、そこに泊まっていました。馬屋もそこにあります。だいたい3、4人から4、5人が一緒に組んで来る。だから多い時には10頭以上の馬がいるわけです。
 私の本家は造り酒屋でございまして、翌日は酒や醤油も積んで帰るということでした。来た晩にヤツガイ(晩酌のこと)といってお酒をやりよりましたから、それを取りに来るわけです。そして翌日は、馬一頭に一駄といいましたが、醤油とか酒を、二斗樽を二本両側に乗せて帰ったようなわけでございます。
 その時代、私の方は分家の南八代屋。本家は本八代屋。そうして隣が元はその分家で新八代屋というのがございまして今でも残っております。それと鞍岡に寺司さんという家があってその人の兄さんがいます。そこは魚類の乾し物とか塩物とかを売っている。それで家の前は朝からずっと馬で埋まるようなことでした。私、学校に行くために蹴られんように用心して通った記憶を持っております。
 その当時馬見原に卸されたのは、梶皮とかお茶とか椎茸とか毛皮なんかもあったようです。そして馬見原から持って帰るのが、米と酒と醤油、それに塩・味噌。そういうのが日用品でございました。そういうことで馬見原と椎葉が近くなっていました。昔、小学校に高等科というのがあった時代がございます。普通はあんまり高等科のある小学校は少なかったものですが、馬見原には高等科がございました。それで椎葉から留学生のような感じで5、6人来ておられました。私の1年生頃のことで、寄宿舎を町の方で用意してございました。
 それと宮崎県側では、財木鉱山と廻渕鉱山とがあって、給料日には馬見原に夕方から遊びに行く。当時馬見原には、今でいう赤ちょうちんというか料理屋というか、飲食店が十数軒ございまして、夜は夕方からしゃんしゃんと三味線や太鼓が毎晩のようにありました。給料日なんかには特に多かったようです。
 結局、馬見原が栄えたのは、宮崎県の東西臼杵郡と高千穂のお陰でございまして、今日では道路の整備でだんだん取り残されてきたわけでございます。幸いこんどは265号 線のトンネルが出来ますんで、また様相が少し変わってまいります。他人の褌で相撲を取るというようなことではございませんけども、お陰で馬見原も今度またいろいろと利益があるんじゃないかという期待をもっておるわけでございます。

秋本 酒屋さんですから、酒というのも駄賃付けには非常に多かったと思うんですが、その時に酒というのは非常に馬に積みにくいと思うんですけども、そういう駄賃付けのための工夫というのがいろいろあったんではないでしょうか。

工藤 現在、いろいろ新築祝いとか結婚祝いというときに鏡割というようなことをやりますけども、あの樽というのはみんな口が上が大きいですね。それを馬に積みいいように細長く作ってました。わざわざ駄賃付け用に。今ではああいう樽は見当りません。

秋本 それはどれくらいの量が入る?

工藤 二斗です。醤油もそうでした。馬の背中に両方二斗づつ積む。で、他にちょっとした小物を真ん中に積むというような格好で。米でしたら一俵ずつ両脇に乗せていくというようなことでしょうか。その当時は自動車というのはほとんどありませんから、普通の農家の人が買物に来るのもほとんど牛をひっぱって来てました。帰りは牛の荷を積み替えてということでした。
 だんだん道がよくなって自動車が入るようになってから結局止まったようなわけでございます。最後まで残ったのが、高千穂から馬車で来よった芝原というところの人たちでした。それも私が三輪車を買った時点でやめて、それで最後になったと思います。椎葉の駄賃付けさんたちは、諸塚の七ツ山の駄賃付けさんと同じように道路ができてからあまり来なくなったんじゃないかな。

秋本 椎葉からその駄賃付けさんたちが途絶えたのはいつ頃でしょうか。

工藤 途絶えたのはいつ頃かな。私もあまり記憶がありませんが。戦争が始まったのが、昭和16年。その4、5年前じゃなかったでしょうか。

平嶋 昭和8年に百万円道路が抜けてますが。
  
秋本 昭和8年すぎても多少はまだ?

工藤 多少は続いてたんです。タバコの元売り様で越後屋というのがございまして、椎葉、諸塚へんにも持っていきよったです。ヤナギゴオリというのを荷役で担いで行って、それを覚えております。それがいつの間にか元売りというのがなくなって今のような専売になってしもうたわけですけども。

秋本 先程の村長さんの話で、狸が化かして届かなかったとかというお話もありました。そういう話を馬見原の方で聞かれたことはないですか。

工藤 狸ですか。

秋本 途中で化かされて届かなかったとか。中味が減っとったとか、酒が薄くなっていたとか。

工藤 ま、いろいろありますけどですね。あんまりこれを言うと、具合が悪いということもありますけど。(笑い)

秋本 時間が経ってますから。(笑い)

工藤 あれですな。樽が帰ってきたら、樽を一回水で洗って、それからたぎったお湯を中にまたいっぱい入れて消毒しよったです。それから酒を詰めて積みよったです。その時桶の輪が下がったようなところに穴がほげちょったような跡はありよったです。(笑い)
 今のようにはっきりした規格というものがありませんでしたから、酒の税金というのは作った時点での石数に対して年に四回払えば、それで税金は終わりですから。あとは濃い酒を造っておればある程度の水は入れられます(笑い)。今の酒はですな、入れた水まで税金取ります。(笑い)

秋本 なるほどね。

工藤 だから、造っただけの酒というのは一番濃いのはだいたい21度くらいありますわね。それを14、5度にするためにある程度の水を入れてかまわんですな。そのかわり今はそれにも税金がかかります。前は造醸税と言いましたかね。

秋本 ありがとうございました。また後ほどお願いいたします。椎葉サダ子さん、今日は一番最後にとっておきの駄賃付けの歌をうたっていただこうと思うんですが、その前に、駄賃付けにかかわる霧立越を通っていた当時のお話を、お聞きしたこととかいろいろ聞かせて下さい。

椎葉 みなさんこんにちわ。この遠い椎葉においでくださいましてありがとうございます。昔はですね、私たちは知らないけども、椎葉から熊本県に向かう途中で、馬も疲れる人も疲れる時に歌われたのが駄賃付け節だそうです。私はまだ子供でわからなかったけども、そんなふうに聞いております。歌だけは昔の人から聞いて覚えております。

秋本 霧立に朝早く登ってきて、日帰りという話もでてますが、それから馬見原に泊まってまた帰ってくるというわけですね。

椎葉 そうらしいです。

秋本 で、どういうものを。

椎葉 椎葉からは、木炭とかなんか小豆みたいなものを持っていきよったんじゃないでしょうかね。そして、酒とかと交換して帰りよったです。

秋本 馬見原からは米・味噌・醤油・酒、椎葉からは椎茸・川海苔・毛皮・ミツマタ・コームキナバ(ムキタケのこと。ブナの風倒木に育ち、ブナからとれる茸の中で最高に美味といわれている。)ということのようですね。

椎葉 そういうことのようです。

秋本 先程工藤さんから昭和13年頃まであったんじゃないでしょうかということでしたけども。どうなんでしょうか、霧立越をもう通られなくなったのはいつごろ?

椎葉 さあ、いつごろになるでしょうか。

秋本 運送業というか、取次をやってらしたわけですね。椎葉さんところの村に何軒かそういう仕事をやられたお家があるわけですか。

椎葉 はい、あります。

秋本 何軒くらい。

椎葉 その人たちはみんな死んでしまって、もうおりませんです。

秋本 椎葉さんとこは、ちょうど下山口になるわけですかね。 椎葉 私はこの上椎葉のつぎの尾八重なんです。

秋本 西南戦役の時の話なんか聞かれておりませんですか。

椎葉 私はあんまり。

中瀬 尾八重の方のもう一つ向こうです。西南戦役は尾前ですから松木の一つ奥ですね。椎葉さんところは尾八重で、松木の方になります。

秋本 ありがとうございました。それでは平嶋さん、今日始めて登られたと思うんですけど、那須の大八郎宗久も通ったんだという伝説もございますし、それから駄賃付けの道として歴史の道として言い伝えられてきているこの霧立越。また自然が大変すばらしいわけです。この道をなんとか健康づくり、あるいは地域おこしに活用できないかという願いが私たちにあるわけですが、今日歩かれた霧立越に関してのご感想からお聞かせいたただきたいと思います。

このところ山深くして境目知れず
平嶋 実は昨日こちらに来るまでこのシンポジウムにでると分らなかったものですから、特に準備もなしに、今日あの道を通ったわけです。もともとこの計画にのっかりましたのは、宮崎の飲み屋で飲んでて誘われましてね。時の勢いというのは恐いもんで(笑い)、そりゃいいがということで参ったという次第なんです。
 しかし実は多少考えることもございました。と申しますのは、私の会社に、文化10年につくられた古い絵地図がございます。木版刷りのかなり大きな九州全図でございます。この全図を見ますと、九州という視覚の中にどういうふうに各藩がとらえられていたかが分る。九州なかでどういうふうに藩があって、それがどこの殿様で何石だということが書いてあるわけです。地形もおおむね正確な絵図なんです。特に河口といいますか海岸の近辺は、宮崎では青島・塩路といったような最近の地名まで詳しく書いてございます。たとえば、大淀川が高岡の上まで食い込んでいるというように、相当詳しくわかります。
 その地図に、面白いことに、真ん中のこの椎葉のあたりから米良のあたりに、ちょうどワラジのような形でくしゃくしゃと書いてあるんですね。そこは記載がないわけです。そこを変な緑色みたいなので塗ってあるんです。道だけ書いてある。そこに書いてある言葉がですね、「此トコロ山深クシテ境目シレズ」と書いてあります。
 結局、海岸端の地形というのはね、文化10年、約200年前には相当精密に掌握されて人々の頭の中にあった。しかし山の地形というのは簡単にはいかなかったようです。九州の尾根と一言でいいますが、尾根は普通の小さな尾根ではなくて、実は複雑なゲンコツの形をしたものがいくつも重なっているのが九州の尾根なんですね。そういう格好でなってるので、とうてい書けなかっただろうと私は思っているんです。ですからこの「境目知れず」という表現しかなかったと。昔の国では境目というのは非常に大事なことで、境目争いで村どうしが戦争になったりすることがあったんです。「境目知れず」というのは本当に驚きというか、あってはならないことなんですが、この「境目知れず」のところはどうなってんだろうという興味を私はかねがね抱いておりました。
 それともう一つは、最近のような状況になってきますと、日本の産業とか生活環境とかが相当まで行き詰まるといいますか、だいたい見えてきたというか、見えてきて未来性がなくなってきた。そうなってきますと、最後はそのゲンコツ形の「境目知れず」というのが、面白いということになってくるのではないか。その面白さが分ってくると知事も考えられて、フォレストピアにも反映してくるわけですね。そういうふうに分らないことがどんどん起こる、起こすことができるという、そういう可能性がある地区がやっぱり面白いだろうし、残るといえば九州のその真ん中のところじゃないだろうかと考えても良いと思っているわけです。
 そういうことがございましたんで、やっぱり「境目が知れない」ような状態なんだろうかが知りたかったというのが実はあったんです。で、行ってみましたらやっぱり、山の向こう側の方に、さらにまた、なんとか越え、なんとか越えというのがありまして、やはり複雑な急峻な尾根。言葉で言ってしまうような単純なものではなくて、本当に複雑な地形であることがよく分かったと思ったわけです。
 今ひとつ、この企画に参加しましたのにはもうひとつございまして、何年か前になくなられました、平田正一先生という宮崎大学の植物学の先生で名誉教授がおられました。平田先生は宮崎の山の植生の調査をずいぶん長い間戦前から戦後までされておられました。私、20年くらい前に企画に行き詰まりまして、どこか良い山に行ってなにか面白い記事がないものでしょうかとお聞きしましたら、ご自分が調べた山の中で面白いと思っているのは白岩山だというお話しをされたのが非常に強烈な印象だった。全山、実は石灰岩でできている。だから非常に植生が豊かなんだ。白岩山というのは一番面白いと言われたんですね。その時私も行こうかなと思ったんですが、20何年前といいますと、白岩山に登るのは本当に大変だなということがありまして、結局いけなかったんです。おかげさまで本当に思いがかなって良かったと思っています。
 今日登りまして、この地区がそんなに苦労しないで歩けるということが分りました。私の60歳過ぎましたこのからだで大丈夫だった。若い時分に山岳部におったんですが、今はまったく駄目なんですけども、そんなに苦労せずに、この峠といいますか峰といいますか、霧立越を歩けました。
 昔の道は峰の上を通った。ところが昭和の道は谷を通っているんで、かえって遠くなっているという話も思いおこしながら歩いたところです。それほどひどい道ではない道を通りながら、白岩山のミツバツツジとか、シャクナゲの植生とか、すごく魅力的な資源があると感じました。西南の役の西郷さんの逃走道路があの道だと聞いて、あんな道を通ってどうしてあの川に沿っていったのかわからんといつも思っていたんですが、さっきから聞いてみますと、駄賃道なんですね。だからそれほど違和感のない道を通ったんではないかという印象を受けました。それにしても、そんなに一日に何度も何度も馬が通ったような道であるならば、当時、どうして石畳とか舗装ということをやらなかったんだろうという疑問を持ちました。 
 と申しますのはネパールに行ったことがございまして、あのような山道を通ったことがございます。何日か回ったんですが、かなり深い山道もすみずみに至るまで石畳を敷きつめて舗装されている。で、今日参加しております中国からの留学生の蘭ちゃんに聞いてみますと、蘭ちゃんの中国でも、山道はだいたい石畳になっていると彼女が言います。それをせずにしてきたのは、日本人はあまりそういう基本的なことが得意じゃないのかなとか、それとも、地中が古生層といいますか、非常に地味が豊かでネパールとか中国とかに比べて豊かなものだから、それだけの基本的な社会投資ができなかったのかなとか、そんなことを思いながら歩いてきました。
 それと、酒の件についても、私たちの一行の一人が陶器のかけらを拾って、これは酒瓶のかけらじゃないかとか、あれは駄賃付けの途中で割れた瓶だとか(笑い)、いろんな空想をまじえて考えるところがまた非常に楽しい道なんですね。そんなことを考えながら、これから先どうなんだということなんですけども、大事なことは、まず、本当にあの道の持っている魅力、今現在ある植生の魅力、それから歩いた距離が2万歩とか3万歩という現有資源の大事さ、それに加えてアクセス状況の変化。それからもう一つ大事なことは、西郷戦争が馬見原との交流の時代の昔の道を通ったということ。それほど尾根というか峰の道というひとつの文化圏があったということですね。そこには民俗学の発生以前のいろんな興味がわいてくるわけです。
 また椎葉村は柳田國男という先生が来られて、昔の村長さんから資料を集めて民俗学を起こしたところです。その時この椎葉から馬見原に向かって調査研究をされた。この峰の道はそういう道でもあるんですね。そのようなゆかりがあるということが一番大事なことだと思うんです。地元の方々がここでまず自慢されるということが大事だと思います。自慢して大事にしていくというところから物事が発展していくんじゃないかと思うわけです。
 何年か前に宮崎大学の藤原先生とご一緒に椎葉秀行さんの焼畑のことで、この村でなんとか伝承してただけないかという話で来たことがあります。今では焼畑は非常に有名になっておりますけれども、その時は、失礼ですけど、村民の方は大事だということをあまり思っていらっしゃらなかった。やっぱり大変なことなんだという認識をもつことが大事じゃなかろうかと思うわけです。
 そこで村長さんのお話の中で過疎というお話がございましたけども、最近では下河辺淳先生なんかの説によりますと、「過疎」の「過」という字に、ニンベンの「佳」という字を書く。快適な場所が「佳疎」だと。発想を変えなくちゃいかんというわけです。人が少なくて空いてる電車の方が混んでる電車よりはいいということはわかっておるわけです。(笑い)ただし、ただ快適だと言ってるだけでは駄目なんで、どういうふうにしてそこを快適にするかということで、下河辺先生の説によると、いろんな情報をもってきて、うまく接続をする、たえず外部との交流をいろんな方法で作っていくことによって「過疎」が快適な「佳疎」になるというご意見なんですよ。

秋本 どうもありがとうございました。たしかに霧立越というのは貴重な財産だと思います。そしてやはり地元の人がこれを自慢できるということが大事だと思います。それでは長沼さんひとつご感想をお願いします。

山登りはブーム、アシの整備を
長沼 私も山が大好きなんです。高校に入りました時にちょうど平嶋社長が一年先輩で山岳部で一緒だったんですけども、それ以来ずっと山のとりこになっております。今歩いているのが全国の富士山なんです。たとえば薩摩富士であるとか蝦夷富士であるとか。それが今300あるといわれております。 宮崎でも、夷守岳を生駒富士というふうに命名して、パンフレットなどに書き込んだりしていたんです。そういうふうに私、山が大好きなんです。
 全国で一番でっかい新ハイキングクラブというのがあります。2万5000人の会員を持っているんです。年間にいくつものグループをつくり登山をするんです。この中の一グループが、実は今年の10月17日に宮崎県の国見岳と大崩山と傾山を歩くんです。したがってコースの設定から民宿だとか交通機関を確保してくれというのが、昨年の秋に来たんです。今年の10月にあるというのに1年前に計画をするんですね。
 私も入っているんですけれど、年齢的には中高年の方が多いんです。ふと振り返ってみると、日本100名山の30くらい済んだなということになりますと、非常に加速度がつきます。それで100名山やってしまおうということになる。早い人は3年くらいで歩くんです。そうして一つの目標が済んでしまいますと次は何しようかとなる。そうなってきますと200名山、300名山になってくるんですね。その300名山に国見岳が入っているんです。それで国見岳に登りたいとなったわけです。28人来られるんですが、実は私、この国見岳に登ったことがないんです。それで、どこからどう登るかということを詰めまして、椎葉の方々にもお願いしたりなんかしておりましたんです。民宿だとかあるいはマイクロバスがどこまで入るかとかですね。終わりましたら次に大崩に登るもんですから、祝子川まで行かないといけないから、果たしてそこまでいけるかどうかとか、いろんなコースを考えておるんです。
 こんなふうに山登りが、現在、ブームになっておるんです。ところがこの宮崎では意外と目立たない。宮崎だと車で動いているもんですから、山に入ればわかるんでしょうけども目立たない。都会ですとほとんど電車に乗りますから、山男のスタイルが東京駅だとか新宿駅だとかで目立ちに目立つんですね。したがいまして、そういった方々を、いかにこちらの九州山地に引きつけるかということをいつも考えるんですね。
 今回歩きまして、実に素敵なハイキングコースですね。いま平嶋さんもおっしゃいましたようにアップダウンが少ないし、しかも五ケ瀬側からはリフトであがれる。ほとんどが平坦なコースですね。ただ問題になりますのが、下りてきた時のアシがどうなるのかということ。これは何もここに限ったことじゃないんです。アルプスとかそういったところだったら、こっちから登ってむこうに行ったって、向こうにちゃんとバス路線がある。ところが九州は大部分それがないんですね。たとえば霧島もそうなんです。えびの高原からあがって縦走して高千穂河原に行くのに、車が待ってるかというと待っていない。ですから先に車をまわしておかんといかん。そしてタクシーで帰ってくるとか、下りてから誰かタクシーでえびの高原までマイクロを取りに帰ってとかいうことをやっているんです。そういうことがひとつの難点ではないかと思います。そういったアシがうまく行くようになりますとこれは素晴らしいコースだと思うんです。

ブナの森、霧立ロマン
   霧立越という名前が実にロマンチックで、今日も実は霧立ち。本当に霧がうまくでてきたですね。それにミツバツツジ、それからシャクナゲ。今日は巨樹の専門家もお見えだったんです。ブナというのは東北とか北海道あたりでは低地なんですが、それが九州に入りまして高山になって、大隅半島の高隈山、これが南限になっているわけです。今日お聞きしますとですね、幹周り5mくらいのがある。
 東京に、巨樹をずっと追っ掛けていらっしゃる平岡先生という方がいらして、落雷であるとか火災だとか、あるいはいろんなことで巨樹がどんどんなくなっていく、それを保護しようということをされておられる。この方が椎葉に非常に関心をお持ちになっていらっしゃいまして、何回も椎葉にお見えになっているんです。実は5月の6日に、巨樹を守るということで1時間30分くらいのラジオ番組があるという連絡を受けましたんで、今回のこの霧立越のお話をさせていただきました。
 このスケジュールとかをファックスで送りましたら、詳しい事情・ルートを教えてくれということですぐ電話を下さいました。その番組で、ブナ林のお話をずーっとおやりになっていたんですが、その中で実は、宮崎県とおっしゃらないで、どうしても九州とくくってしまう。やっぱり東京から見ると九州なんですね。それで、五ケ瀬も、村とおっしゃいました(笑い)。五ケ瀬町ではなくて五ケ瀬村ですね。五ケ瀬村から椎葉村までブナ林を歩く催しがある。楽しいことですねというお話をされた。その先生も用事がなければ飛んで来たいとおっしゃっておられました。もう素晴らしい先生なんです。
 いま平嶋さんもおっしゃったように、今回非常に五ケ瀬や椎葉の方々にご尽力いただきました。昨夜のオリエンテーリングでは、77名様が泊まっている。椎葉の方を入れますと現在おそらく100人以上お見えになっていると思います。この方々すべて満喫されたと思うんです。満喫されたことを是非、口コミで、もうすごかったよと、シャクナゲがすごかった。ミツバツツジがすごかった。ブナがすごかった。もうちょっと来週、再来週になったらまた広がってる。そういうことをじゃんじゃん言ってほしいと思う。自慢することばっかりだと思うんですが、やっぱり自慢していただくということが一番です。本当に素晴らしいコースで、これから先も私、いろんな所で自慢していきたいと思っております。
 問題は、下りた時の交通機関ですね。今日も終わった方がひょっとすると、五ケ瀬まで行かれてそれからまた宮崎までお帰りになられる方がいらっしゃるかもしれません。これが普段に、そういうアシがありますとさらにお薦めもできるわけです。それから、歩いている時もそうだったんですが、温泉があるといいなぁという感じですね。今度来られる28人の方も、見立の「かもしかの森」というケビンに泊まっていただきまして、傾山に登っていただいた後、見立の英国館だとか、戸川の石垣村をごらんいただき、日之影の温泉に行って汗を流していただく。そして日向からフェリーで帰っていただく3泊4日のコースを予定しておるわけです。
 私、本当に成功させようと思っているんです。そうしますとリーダーの方が毎年同じコースをつくっていくんですね。交通からなにから、3泊4日で九州にきますと11万円くらいです。今回、尾前の民宿にお世話になりますが、25人くらい一緒に泊まることができません。したがって近くの民宿に分宿をお願いしたんですが、食事だけは一ヶ所でとるということで、尾前の民宿の方には、10月なんですが、非常に張り切っていただいてるところなんです。そんなふうに、登山ということが都会の方ではブームになっておるんです。この方々をこちらの方に案内をするということはいいことじゃないかと思っております。
 それから私、あちこち歩いているんです。東海道とか中仙道とか江戸からスタートした街道をずーっと歩くんです。先程、石畳というお話がございましたけども、中仙道が非常に石畳が多いんです。やはり駄賃付けということできれいに保存してございます。ここの霧立越の場合は、山、尾根ですからおそらくそれはできなかったと思うんですけども、ぜひこの霧立越という街道を、これから先も本当に歴史とロマンのある道だということをアピールしていかなければいけないと考えております。
 それから今回おいでになった方、山のお好きな方が大半だと思うんですが、お好きな方もそうでない方も、山に対するだけじゃなくて、人との出会いも、いろんな出会いが今日あったと思うんです。初めての方との出会いとか、あるいはこの木は何ていう木だろうかとか、この花は何ていう花なんだろうかとか、出会いということがたくさんあったと思うんです。
 ちょっと出会いということでお話しをさせてもらいますと、実は椎葉村に栂尾というところがございます。本日、NHKの第2テレビで、40分間栂尾の神楽が放映されておりますけども、この方々が栂尾ルネッサンス103ということでまちおこしされているんです。で、椎葉の方からご連絡がございまして、その103という郵便番号を持っているところと交流をしたいんだけど、どこか知りませんかということだったんです。私ちょっと東京に住んでおったんですが、103台は日本橋なんですね。日本橋は日本の道路の起点なんです。そこに誰か知ってる人いないかなと思いましたら、たまたま農林水産省の方が104にいまして、その方に連絡をとりましたら、12、3人、住友林業のお偉いさんとか、文化振興室長さんとか、かなりの方が実はいらっしゃいましてですね。こういう方々との出会いを大切にしながらやっていただくということになってきているんです。本当に山に登った関係でたくさんの方に出会います。
 私は3年ほど前に秋本さんがされた「地域の光の創造と発信」というシンポジウムでも言ったんですけども、宮崎県に住んでおりながら青森県の岩木町のふるさと大使をやっておるんです。青森県の岩木町に岩木山ってあります。これは津軽富士なんです。富士山の中ではダントツに有名なんですけど、その縁であそこが大好きになりました。町長さんから「うちの大使になりませんか」というお誘いがあって、ふたつ返事でお引き受けしたんです。そういうこともあって、毎月のようにいろんな情報が来るんです。宮崎県の市町村より詳しくなるくらいいろんな情報がくるんですね。ですから、いろんなとこで岩木町のお話しするんですけど、そういう方を是非ひとつおつくりになるといいと思うんです。たとえば今回東京から来られますそういう方々が、宮崎県の椎葉村はすごかった、宮崎県の五ケ瀬町はすごかったと各地で話していただけるわけです。そういうフアンをぜひおつくりになられたら素晴らしいんじゃないかと思います。

秋本 ありがとうございました。霧立越の名前が非常にロマンチックだということで、下山後のアシの問題、それから温泉があるといいなというようなことですが、会場のみなさんから今日歩かれた感想などもお聞きしたいと思います。たとえばここから扇山までどれくらいあるだろうかとか、そういう不安をもちながら歩かれたと思うんですが、あの道を今後整備していくには、どういった点に注意し、あるいはどういったものが必要なのか。そういったことなどをお話してもらえたらと思います。のちほどお聞かせいただきたいと思います。
 今回のシンポジウムは第一回目ということで、ある課題・テーマに沿って議論を深めていくというよりも、むしろまずは広めることを目的としております。今日は実はパネラーのみなさんもぶっつけで何の打ち合せもなくて、無報酬でしていただいてまして(笑い)、たいへん恐縮しているところなんです。来年からはもう少しつっこんだ計画や企画ができていけるんじゃないかと思っているところです。
 たとえば、霧立山地には、約485種類の植生があるといわれています。これは昭和28年 ころの調査なんですが、その時にあったのが今なくなっているのがあるかもしれないし、あるいは調査した時にもれているのがまだあるかもしれない。だからこういう植生についてももっと深めていけたらもっとおもしろいんじゃないかと思いますし、あるいは九州山地の民俗芸能へのもう少しつっこんだアプローチができるのではないかと思うんです。
 またこの霧立山地一帯の大きな特色なんですが、今日歩いたブナ林帯。このブナ林が人間の生活といかに深くかかわってきたものであるかという「森の恵み」という視点を今この世紀にとらえなおしていきたいと考えるわけです。だいたい九州にブナ林があるとは誰も思っていないですね。九州は照葉樹林帯なんだといわれてきました。ところが、このブナ林帯は縄文の昔からこの九州に存在していたわけで、さきほどの平嶋社長さんの「境目知れず」ではないけれど、陽があたらなかったというか、あいまいとしていた。認識の深まりがなかった。やはり生活の基盤は縄文時代の昔からブナ林にあったんだと私は思うんです。照葉樹林帯とくくってしまったら、なにか違うなという気がするんですね。そういったことを考えるためにも、今後の取り組みをどうやったらいいのかということを含めて、パネラーの先生方から一言ずつお聞かせいただきたいと思います。

「佳疎」の村づくり
中瀬 この霧立と国見との関連で昔から言われているように、古きを尋ねて新しきを知るということがまずあります。霧立越のあの駄賃付け道がすなわち人馬の道、西郷さんの道につながっている。そして今国見トンネルの車に繋がってくるという現実ができたと思っております。椎葉、あるいは五ケ瀬のみならず、今日おいでの馬見原を含む広い圏域に非常に価値が深まる事でありますので、今後さらにいろいろの対応をしていきたい。
 今、宮日の社長さんからありがたいお言葉をいただいたわけですけども、「佳疎」というのはなかなかいいもんですね。これ私も使わせていただきたい。過疎は本当にいかんのかということがあると思うんです。ある方が「適疎」ということを言われたけど、数としての適疎とはいうものの、どうもしっくりこない。適当に疎らというのはどういうことか。木が三本あるのが二本でいいのか、森が林になっていいのか、林がそれぞれ木になっていいのかという、「まばら」というのはどうもそこへんまで発展をする可能性がある。平島社長がおっしゃったように、この「佳疎」ということであれば我々はこれに向かってやっていけるだろうと非常に心強く感じたわけです。
 まずやっぱり、道路が非常に大事です。昔は、この駄賃付けとはいっても、当時賃金収入のない時はこれが一番の現金収入です。今は、いわゆる公共事業。建設業という公共事業で現金収入を得て、それで高校に進学させるとか、人材教育をやっていくわけです。現実にやっぱりそういう現金収入がないと生活も子育てもできないんです。木材も、椎茸も牛も、なにも駄目だ。園芸も駄目だ。そんならあがってくるのは何があるかということになれば、これは約束手形で子供を学校にやるわけにはいかない、現金なわけですから。そういう意味では当時、この駄賃付けによって現金を求めたという生活設計をしたのは、先人の非常な大きい生活の糧であったんです。
 ちなみに、椎葉からは中高等学校とか大学あたりには限られたものしか行かんわけです。椎葉村のなかでも2、3人くらいしか村外の旧制の中学校、中等学校、大学に行けない。教育の機会均等でありながら、大正から昭和の始め頃までそういうようなことでした。今のような交通のネットワークがなくて、いっぱい山を登ったとこで、これから上にあがっていくともう何もない。どんどん皆無になっていくと言っていいくらいなわけです。ですから田圃を耕して、あるいは焼畑をやって、自分の主食、食べるものを奔走してつくりだすという生活をしておったわけですから、自分の子供に教育ということがほとんどできなかったという現状です。だからこの駄賃付けというのは我々の生活あるいは椎葉村の開発をする上で、大きな歴史的事実だと思っております。
 昭和8年にいわゆる百万円道路ができた頃の、昔からの装いをしておる家が、だいたい8軒から9軒でしたね。ほとんど手を加えずに保存している屋敷が、今の鶴富屋敷と、あとは前の村長の家です。このふたつが残っている。あとは火災でやられたり、あるいは生活改善とかもろもろのことで、家を改装しておりますから、そのあたりを勘定にいれて昔の生活ぶりのわかる屋敷がだいたい10軒くらいです。
 先程、椎葉に来るともっと静かで、もっとひなびたところだろうと思ってたけど、来てみるとどうも町のような形態があって、イメージが違っていたということをおっしゃられましたが、まさにその通りだと思います。今1300戸4000人近くの人が住んでおります。その人たちが、この急な山々の斜面を平たくすれば面積的には四国の香川県に匹敵するともいわれる範囲に住んでいるんです。
 そこで道路と文化・経済・産業というものをあわせてみてみると、道路が良くなっていく反面、悪くすると、引っ越し道路になってきたり、あるいはまたいろいろな椎葉村の伝統技術が一散をする、流れていくという可能性もなきにしもあらずなんです。我々はそういうことを先取りをしなければいかんということで、椎葉村の伝統の文化、あるいは現に活用されている有形・無形のものを確保せないかんということで、使命感を持っているところです。今年から椎葉の民俗博物館を創っています。今年は建物、来年は内部でして、今学芸員数人を福岡から招聘しまして、その任に当たってもらっています。
 平成8年度には資料を収拾しまして、平成9年の4月にはオープンをしたい。これは国見のトンネルができた相乗効果といえます。当然、この椎葉の恵まれた文化、独特なものを守っていきたいという発想ですから、ぜひ期待をしておいて下さい。古いものは残し、新しいものは挑戦するという、ふたつの姿勢を持って村民ともども立ち向かっていきたいと思いますから、どうぞひとつこの会もご支援をお願いしたいと思っております。
 それから、これは一つの例ですけども、大河内というところに九州大学の演習林があるんです。そこで、5年ほど前に座ってなにげなく地中を見ていたら、ビール瓶がでてきたんです。大正年代のビールです。我々の先人はここで文化的な生活をしていたんだなということを感じましたんです。というのは大河内には大河内鉱山という金鉱山がありまして、いろいろ調べて聞いてみると、ここで大相撲の興行もやったわけです。大正らしいです。そうなると重役あたりは東京とか大阪とかから来て、住宅でビールを飲みよったらしいです。そうなると大相撲あたりを持ってきて、村人もそれにあやかってビールを飲んでいたということであれば、椎葉の者は稗と粟ばっかりとか言われてもいたんですけど、そういうような文化的な生活をしておったということで、我々の誇りにできる。
 だから、椎葉平家まつりで「平氏の残党800年」とやった方がいいとやったわけです。源氏の追討といっても、平家の鶴富姫 と源氏の大八郎もドッキングをしたわけだから、伝説に近いとしても、我々はそういう史実としての裏付け、歴史の事実をもっていきたいですね。我々の先代の人はそれだけの苦労をしなががらも、やっぱりある程度の文化的な生活をある時代にはやっていたんだということ。椎葉の者は充分な生活をしてきているんだということ。だから、「過疎」っていわれていても、我々は「佳疎」にしていきたいと思う。そういうことで今後のご指導もまたよろしくお願いしたいと思います。

平嶋 ちょっとひとつ、私じゃなくて、下河辺先生の話ですが、先生はわりとマルチといいますか、デュアルな考え方をする人で、「過疎」を「佳疎」に、高齢を「光齢」にしようと、過疎化や高齢化に悩んでいる地域を励ましてくれている方なんです。今日は高齢者の方が多いようですけど、高齢者というのを「光る齢の者」だと言うんですね。その通りだと思うんです。たしかに過去にどうだということから始まるとしても、今からどうかということがさらに大事なんです。
 ごく最近ですけども、私の方の会社で宮日ブランチ会というのを組織したんです。ブランチ会って何だといいますと、金融機関とか生命保険の会社とかビール会社とか、いろんな会社の単身赴任的な人たちが宮崎にたくさんいるんですね。その人たち宮崎は初めてなんですが、非常に宮崎が好きになって帰るんです。こちらに単身赴任している間に宮崎フアンになって帰るんです。これを利用しない法はないなと私、思ったんです。宮崎のフアンとして、転勤した先で宮崎の大使になっていただけるといいなということで、実は去年の4月からそういう会を企画しまして、去年は九州会と称して旅行をやりまして、高千穂の神楽にまいりました。
 今年は秋に椎葉に来ていただくことになっているんです。そういうふうに、フアンを作っていく、しかも椎葉に来るだけのフアンを全国につくっていくのはとてもいいのではないかと思います。そうしますと、あの方たちの年齢がだいたい50歳くらいですから、家族はもちろん職場での口コミもうまくいくのではないかと期待をするわけです。そういう方たちには、お父さんが単身赴任していた九州の宮崎の椎葉に行った、五ケ瀬の秋本さんとこに行ったという印象がいいのではないかと思うんです。

秋本 ありがとうございました。ある人に言わせますと、都市には文化がない。山にこそあるんだと。そういうことがあるようです。村長さんはいろいろ精力的に素晴らしい椎葉つくりをされておられるわけですが、工藤社長さん、何10年ぶりかに椎葉にみえられたと思うんですけども、椎葉のこの町を見られての印象を、何かつよく思われたことがありますか。

工藤 20年ほど前に、諸塚の塚原からあがってきたことがございます。その時からこの町には商店街というものがあって、思ったよりも活気があると思っておりました。今日は20年ぶりに来てみて、やはり街路になっているという感じがいたしました。家内もさっき言ってましたけど、椎葉に来る前は椎葉は淋しい、ひなびた感じだったんです。ところが、実際に来てみまして、馬見原よりもっと栄えているような感じです。

秋本 ありがとうございました。長沼さんお願いします。

長沼 実は一昨日いただいた本の中に、「昔々亭安曇野紀行」という本なんですけども、松竹映画のプロデューサーされてる方が脱サラされまして今度は旅館を作られたんですね。ちょうど5年なんですけども、ものすごく成功してるんです。この方の本の一番最後のところに、映画創りの中での失敗談といいますか、老若男女、とにかく全部を相手にした映画は全部失敗した。やはり何かターゲットを絞った方がいいと言ってるんです。ホテルが成功したのはやっぱりターゲットを絞ったという感じのようなんです。
 で、霧立越を歩く会といった時に、あれもやりたいこれもやりたいとなると、何か焦点がぼけてしまわないかということがあります。だから、今回は歴史をたどる会とか、その都度絞ってもいいのかなという感じがします。例えばあそこのスキー場には9万人が入っているんですね。9万人の方々を少しこっちの方に歩かせることはできないものかとかね。あの人たちをちょっとこっちに動かしてみようというくらいのことでもいいんじゃないかと思うんです。歴史がちょっと苦手だから今回はパスということがあってもいいわけで、いろんな視点の企画が出た方がいいかもしれない、とそんな感じもしますね。

中瀬 今のことなんですが、2、3日前の報道で、高千穂が全入れ込み客が109万いくらとありました。五ケ瀬が10万ですから、120万。少なくとも4割くらいは足を運んでもらえば、50万までになるわけです。椎葉の場合は今だいたい1年間の入り込みが15万くらいですから、トンネルの相乗効果というのがうまく出て来てなんとか50万までならないだろうかと思うわけです。やはりここに何もないと、現在もその傾向があるんですが、一過性になって、かえってゴミを捨てて帰るだけとなってしまう。そうなると耳川の上流としてのイメージを失うことにもなってしまいます。ですから一過性に終わらない価値ある村づくりを国見トンネルの開通とあわせて整備していきたい。そして入れ込み数を増やしていきたいと心するわけです。
 そういうようなことですから、やっぱりわれわれも知恵をださないといけない。「知識は持ってるけど、知恵が足りない」ということが言われておりますが、今度は本気でもっと知恵を出さないといけない。観光、あるいは交流、もろもろのもの。それを大事にするという知識はみなさん持ってますけども、しかしそれでは知識をどのように知恵に結びつけていくかということになるとまだまだだ。そのことがこれからの村づくりの基本だろうと思うわけです。これはいずれにしても秋本さんたちとの結びつきがないとなかなか難しいもんで、その点については先覚者としてよろしくお願いしたいというところです。

案内標示等の工夫で親しみを
秋本 時間も迫ってまいりまして、もっと時間がほしい。もっといろんな話をお聞したいんですけども、残念ながら今回は時間がありません。会場のみなさんからこれだけはということがございましたら。はい、どうぞ。

フロア 私、宮崎の方からきました。実を言いますと昭和29年から31年までこの椎葉にお世話になりました。私の父が尾八重におりまして、その時に小学校の6年から中学校の2年まで松木のそばにおりました。学校がちょうど松木のそばでダムに沈む前の年に赴任したんですね。3年ほど前に扇山の山開きがあると聞いた時に、登り口が松木だということで、なつかしくて3年ほど前からこの扇山に登ることになったんです。それとあわせて白岩山もおととしの山開きから、山の好きな友達と二人で雨の中を強行登山をしたりということで、今回もまたお世話になって、今日の縦走に参加させていただくことになりました。
 私はよく個人で登るんですけど、せっかく縦走の感覚できました時に、あとどのくらいかということがとても大事なんです。頂上まであとどのくらいあるか、距離がどのくらいか、時間的にはどうかということ。山の険しさとか難易度、それと時間も初級者とか中級、熟練者によってだいぶ違うと思うんです。そういう場合に、今から何分くらいで頂上に着くとか、頂上まで何キロと標示があるとずいぶん助かります。ボランティアの方々がされていらっしゃると思うんですが、それがよくある山もあるんです。今回の場合通ってて、霧立越のコースという案内だけだったものですから。もっとも道を間違わずにすみましたけど。はじめてのコースだと思うんですが、縦走をこれからやっていこうと思いましたら、山仲間、山岳部のボランティアの方々にもお願いしたりしながら、距離とだいたいどれくらい時間がかかるとかいう標示があったらいいなと思います。
 例えば山小屋から扇山まで会話で聞いてると、「あとどのくらい登ればいいっちゃろか」という感じなんですね。その時に、向坂山から白岩山まで2300m、白岩山から山小屋まで6500m、扇山分岐の山小屋から扇山まで1000m、あと松木まで3000mというように縦走のポイントに距離と時間をいれて、その裏側の方にも、反対側から登った時の距離と時間というように両面に書いてもらうと大変うれしいんです。高速道路もそんなふうになっているんですね。人吉側からと小倉側からの二本立てになっている。
 これからがスタートであれば、そういうのを入れていただきますと、初めての方でも、ああ、あとどのくらいだな。自分たちは初心者だから、これに少しプラス時間だなという感じで歩けるので疲れ方がぜんぜん違うと思うんです。目的地までの目安がたつんです。危険箇所ありとか、そういうことももちろん入れていただくといいと思うんです。
 それから今日は、すごくミツバツツジやシャクナゲがとてもきれいでした。白いすずらんみたいのがありますね。あれに似た花があって、あれは何だろうかとか、たぶんカイドウも咲いていたと思うんですが、初めて来られた方にはわからないかもしれない。ですから、パンフレットなんかにもめずらしい花の名前を入れていただくと興味がいっそう湧くんではないでしょうか。大きくて目立つ花も、小さな野草なんかも、山野草の名前が分かっていくだけでも、山への親しみが湧くと思うんです。ちょっとでしゃばった考えですみませんけども、よろしくお願いします。

秋本 大変貴重なご意見をありがとうございました。もう時間が迫りましたが、パネラーの先生方でこれだけはもう一つということがございませんでしょうか。

平嶋 今のことで、思い付きでもうしわけございません。霧立越の名前をと言われましたが、ここのコースでいうと、かえってどこでもここでもなになに銀座とかなになにアルプスとかが多いんですが、むしろ霧立越という歴史的な名前があるんですから、「ロマンチック街道3万歩」とか、「珠玉の何歩」とかそういう提供の仕方もあるんではないかと思いますね。

秋本 たいへん貴重なご意見をありがとうございました。それではここで最後に駄賃付けの歌を椎葉サダ子さんお願いしたいと思います。

椎葉 では、駄賃付け歌います。

1.おどま13から駄賃付けなろうたよ  ハイハイ
  馬のたずなで日を送るよ  ハー シッカリ シッカリ
2.朝もはよから峠にのぼりよ ハイハイ
  お日の出を待つ入りを待つよ ハー シッカリ シッカリ
3.馬よ暗いゾ 足場はよいかよ ハイハイ
  鈴の音おとに追いてこいよ ハー シッカリ シッカリ


黒木椎葉村助役 椎葉には四季の歌がありまして、中でもサダ子さんは「秋節」が得意なのですが、春に秋の歌を歌うと山の神が3尺飛び上がって驚くといわれています(笑い)。今日は春節をご紹介します。

椎葉
1.春は花咲く 木かやも芽立つ
  たたぬ名も立つ 立てられる
  ほい
2.春になれば 鴬どりも
  やぶを見たくて 身をふける

フロア 椎葉さん、稗つき節正調をできないでしょうか。(拍手)

椎葉 みなさんで囃子お願いします。(拍手)

黒木 よいさのさっさと。

椎葉 1.庭の山椒の木 鳴る鈴かけて
  鈴の鳴る時や出ておじゃれ
  アラ こらいさのさっさ 三斗五升何かい搗いてかえせ
2.鈴の鳴る時や何というて出ましょ
  駒に水くり中というて出ましょ
  アラ ねずみさえ五斗搗く 三斗五升何かい搗いてかえせ
3.なんぼ搗いてもこの稗やむけぬ
  どこのお蔵の下積みか
  アラ こって牛や 四斗搗く 三斗五升何かい搗いてかえせ
(拍手)

秋本 たいへん素晴らしい歌をありがとうございました。アンコールまで出て。それでは以上を持ちまして終わらせていただきますが、パネラーの先生方本当に貴重なご意見をありがとうございました。これを参考にしまして、毎回こういった催しを続けてまいりたいと思います。
 さきほど長沼先生からもご指摘がありましたように、ターゲットを絞ってもっと深くつっこんだものにもっていけたらと思います。そのために本日の先生方のご意見たいへん参考になりまして、これからより充実した霧立越の会が活動できると嬉しく思っております。
 これはもしかしたら大変な第1回目。この第1回目というのが素晴らしい、あれがあったからこうなったんだという、記念すべき会になるのではないかという期待が持たれます。お疲れのところ時間を少し越えたんですが、ほどよい頃だと思います。これでお開きにさせていただきます。本当にみなさんありがとうございました。



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2009.03.10〜