霧立越

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第10回・霧立越シンポジウム 西南戦役130年

「西郷さんの歩いた脊梁山地を探る」

─4月23日 椎葉村 浄行寺住職 尾前新了氏のお話しの記録

浄行寺本堂で

寺の建立
 この寺は、慶長6年、1601年にできました。この川向うにお寺があったのですが、寺騒動もありましたし、台風で寺が倒れて、それで自分の自宅に親父が持って帰ってこの仏壇を安置しておったのです。ところが、自宅がまた台風で倒れましてですね。そういうことで二回台風の災害を受けているのです。それで、仮本堂を造って安置をしようということでここに仮に造ったのです。が、なかなか門徒数も少ないしで、正式な本堂ができないままにおります。
 昭和29年の台風で本堂が倒れた時も、梁の間に本尊が挟まって残っていました。そうして助かっておるから、これを何とかして修復したいなあと思っておりましたけれども、これもひとつの歴史じゃと思いまして現在も修復をしておりません。いずれちゃんとしょうとは考えております。
 外の鐘は300年くらいの歴史あります。戦時中は、金物は出せ、鍋も出せ、ということでしたがある岩の中に隠し通したのです。これは椎葉には浄土真宗のお寺だけにしかありません。
 この浄行寺というお寺は、熊本市の浄行寺の末寺でした。昔、織田信長が西本願寺と戦争した時ですが、椎葉の那須弾正という侍が、熊本の浄行寺のお寺をものすごく信仰していたそうです。その信仰が認められて西本願寺の戦いで大阪に行った。戦争が終わって熊本へ帰ってきた時、寺はそのお礼に何か自分で好きなものはないかというたら、この仏像が一つだけ欲しいというて、弾正さんが仏像を持って帰って寺を造ったのがこの寺の始まりといわれています。
 丁度そのころは慶長4年から6年で、戦争の真っ最中ですからこの寺の開基は一目瞭然にわかるのです。その弾正という人は只の信仰家で、住職ではなかったのですが、それが仏像をかるうてきて、自分とこの掘っ立て小屋に安置し、それから自然と寺を造って現在に至るという経路を辿っているわけです。

初めて聞く西南戦役の情報
 西南戦役については、ここは西郷隆盛も通った路線です。私が子供のころ話を聞いたのが、西郷隆盛が通る前触れで詮索部隊が入ってきました。そういう人たちをですね、こっちの人たちが、闇討ちといいますか、隠れとってから、わーっと飛び出してきて切って捨てた、と。絶対逃がしたら危ないからというて完全に切り捨てて、そして誰にも分らないようにして、そこに縦穴の洞窟があるのですよ。その洞窟の中に全部かついでいって隠しおったのです。埋けたんじゃないのです。見えない所に持って行って隠しおったのです、切り殺して。それが千人を切って埋めた洞窟として千人塚といいます。
 ところが、今度は、私の現代の話です。私の親父が25年位前に急に倒れましてね、あわてて延岡の病院に連れて行って診察してもらったのですが、どこも悪いところはないといわれるのです。時間が来ると、この左の耳の後ろ、このあたりがですね、痛い、痛い、というて、もう転げまわるのですよ。汗流して転げまわるのです。その時は意識がないのですわ。それが一時間くらい経つと治まるのです。すると「皆んな何で俺を押さえとっとか」というて自分が痛がったこと、わるかったことを憶えていないのですよ。「俺はどこに来とっとじゃろうか」というて病院に居ることも分らんのですよ。そういうことが続きました。
 私の兄弟は6人ですが、姉が上に3人いまして、次が私で長男です。姉達と4人で、「もう親父は助からんかも知れん」ということで病院で親父の面倒見ておったら、一人の姉が「延岡に祈祷師がおって、よう当たるちゅうがそこに行って聞いてみろうか」というんですよ。「浄土真宗の坊主がそういうところに行って聞けるか」と、「そんなもん信じるんじゃったら医者の方をもっと信じらんと」、と言うと「病院を二軒も回って、医者が悪いところはない、分らんというじゃないね」というのですね。「あんたも人を疑わんと、私どんが言うことも聞いたらどうか」といわれたんで、私もまあそこまでいうて逆ろうても、もし親父が死にでもしたら「あんとき行っとけばねえ」と恨まれることになっても、と思って「よし、そんなら行こうか」というて行ったんです。

ダム湖の霊か?
 そして行ったところで、受付で紙を渡され、住所と名前と歳を書くように言われたので親父の名前を書いて出して待ちました。しばらくして「尾前さんどうぞ」ちゅうから座敷に入っていきました。すると白装束でこういう格好をしていて、私の書いた紙を見ながら「この人は偉いお坊さんやなぁ」といきなり言うたんです。親父の名前は、坊主の名前を書いていたのではないのですよ。それなのに「素晴らしいおぼうさんですねえ」というのです。そして、「この坊さんに助けてもらいたいというものがおるのでこれを治おさにゃだめですわ」といわれるのです。そして「あんたわかるでしょうが」といわれる。「あんたも坊さんでしょうが、あんたは何でこれに気付かんかったの」といわれたのです。
 その時、私はそんな迷信俗信は、私としての宗教感からは、信じたりしゃべったりすることはよろしくないので黙っていると「じゃあ、今から私が祈祷しましょう」というてですね、仏様に向ってお経をあげ始めたのです。神様じゃなくて仏様です。
 で、私もじーっと膝まづいて目を瞑っておったらですね、いつの間にかダムが見えてきてですね、水面に島が見えてきたのです。道路の上に立ってダムを眺めているのです。何で俺はこんなところに来ているのかなあ、と。それが夢なのかわからんのです。まじないにかかっとるかも知れん、その島がはっきり見えているのです。
 すると、その人が「うー、寒い寒い寒い、あー、ひもじい、ひもじい、喉が乾く、喉が乾くう」というのですよ。「あー寒みい、真っ暗、真っ暗」というのですよ。そういう声を聞きながら、私は今度は島の上に立っとるんですよ。そして、その人がそれを言い止めて後ろを、ふっとふり向いた時に、はっと私も正気になりました。
 すると、いきなり「分りましたか」といわれるのです。私は「分った」といいました。「どんなにわかりましたか」というので「これはうちのダムじゃと思う」といいました。「その通り、水の中に皆んな浸かっとるよ」と、「暗いところに、深い穴の中に入っとる」と、「この人たちがお父さんを呼んどる、あなたならできますよね」といわれましたので「できます」といいました。もうそれ以上聞かんほうがいいと思ったのです。それ以上、向こうも聞かんし私も言いませんでした。「あっ、これはもう俺の手でないとまじない師じゃとても治らん」、そうピンときました。

千人塚を供養
 それで、分ったもんだから県病院へ向って車で走ったんです。するとずーっと病院の玄関まで青信号です。全然赤信号に引っかからずに行きました。そして上がって病室に入ったら義兄夫婦が一生懸命に親父の足を押さえているのです。「痛い、痛い」というのを押さえているほうも汗だくですよ。そこで「どけどけ」というて私が痛いというところに手を当ててお経を上げました。そうすると二分もせん内に静かになってグーグーと親父が高鼾かいて寝てしもうたのです。そこで「よし分った、これはダムで死んだ何かがある。工事で死んだ人、飛び込んで死んだ人、転落して死んだ人、何だろうなあ」と思いながら女房と従兄弟を連れて家に帰りました。
 そうして、上椎葉ダムの中の島に行って供養することにしました。「寒い、寒い」と言ったからダムの底に沈んでいる霊じゃろうと。今度はその霊を助けることによって「ひもじい、ひもじい、熱いお茶が飲みたい、温かいものを食べたい」というたから、カセットコンロを持って、米も洗って、いろいろと段取りしてですね。2月ですから寒い。ダムの上ですから風も強いので竹を割って立てて、ゴザを巻いて風除けを造って、そこにカセットコンロに火をつけてご飯を炊いてですね。お猪口を60個持って行ってずーっと上げもんしてですね。それから60の湯のみを持って行って熱いお茶を全部についで上げました。
 そして、今度は大きな線香の束に火をつけてずーっと回って、それからローソクに火をつけてずーっと回ってきて、するともう最初に火をつけたものは消えているのですね。そのくらいに大掛かりに竹を切って立てて回ってですね。霊は、真ん中に集めて壷に納めて持って帰り、あとでゆっくり供養をしてやろうという考えでした。
 寒い中で、地べたにゴザを敷いて座り三部経を二時間かけて全部詠みあげました。従兄弟と女房達には「お前達は向うの岸に行っておれ」というて60メートルほど離れた岸の方に行かせて、そのときそこから撮らせた写真がこれです。そして、そこのダムの土を壷に入れて持ち帰ってお葬式をしてやりました。
 従兄弟が「これだけのことをしてやって、爺いやんな元気にならにゃおかしいわのう、電話してみようか」というたけど、朝、病院から9時に帰ってきて葬式して午後5時ころになっとったけ、5時頃は看護婦が交代時期で忙しい時間やから電話かけてもつっけんどんなんですよ。だけん「ちょっと待ちない、6時頃掛けてみろうや」というてお茶呑みながら6時になるのを待って病院に電話しました。そうすると姉が出て、「もしもし、親父はどうや」というと「あんな、新ちゃん、5時半頃に正気になったでえ」というのです。「正気になったってどういう意味や」というたら「おまやあ綾子か、なしここに来とっとか、おりゃどこにおるとか、何時病院にきたっか、どこが悪りいんか」と、全然分らんわけですよ。そういうふうに訊ねて完全に正気になった。丁度葬式が済んで、霊が安心して離れて正気になったものと思いました。
 この下の尾八重の集落80戸はダム建設で沈むから全部引き上げたのですよ、集落ごと。その人たちは、宮崎や熊本に財産買うて出て行ったとですよ。その時は、皆んな財産売っているのだから先祖だけは連れて行きますわね、墓ひきをして。
 その千人塚に近いところに家が在りました。その家は尾八重の集落で一番古い家でした。その家の人が出て行ってしまって誰もおらんもんですから、郵便集配の人がそこを借りて生活しておりました。その配達さんも熊本の方に引き上げて行かにぁいかんもんだから先祖供養をしてくださいと言うて来ました。
 そこで、私の親父が先祖供養で徳光さんの墓場に墓ひきに行く時、ろうそく、線香、鐘等を持って家族が案内する墓場に行く途中、ひょいとせどを見上げたら立派な墓が見えたそうです。それで、「おい、あの墓も椎葉では滅多に見らんような立派な墓じゃが、あれも供養せにゃいかんとじゃにゃあやあ」と言ったら「それは千人塚いうて昔、人を切って投げ込んだ穴の上に供養のために立てた墓石じゃけ、皆んなが切った墓石じゃけ俺は関係なかと」と徳光さんは言うたそうです。「いやあ、それは違うぞ、この墓石をなおしてやらにぁ駄目ぞ」と親父が言うたと言います。
 その言葉をちゃあんとそこで聞いとったのですねえ。じゃけん親父に「この人にたのまにゃあ駄目」と、どうもそれが原因ではないかと。誰も気が付かんと永久にダムの底になったままになってしまう。そこを親父が立ち止まってその墓をなおせというて指を差したのを先祖がよろこんで親父に引っかぶってきたのではないかと。
 それで私が、親父が眠ってばかりいる時に「親父、何か心当たりはなかろうか」というたら「椎葉徳光、椎葉徳光」と二言いいました。椎葉徳光というても親父の年代のことで先祖のことはなんや分らんとです。それでいろいろと考え居ったら、昔、椎葉徳光のところのせどには、こういう墓石があって千人塚があったと親父が言い居ったことを思い出したのです。それで、そのことだということがわかったのです。それで千人塚のダムの土を壷に入れて来てまだ祀っています。
 それから、千人塚以外の、自動車で飛び込んだり、自殺をしたりした人たちの霊は、「私は知らんよ、私が祀る者じゃないから。それぞれの連れの夢にでもいい、枕辺に立ってもいいからお前達の世話になっとる所へ行ってくれ、それぞれ帰って家族に報告しろ」と言うて聞かせた。すると何も言わんとに、熊本や宮崎から4人取りに来ました。「先祖をあずかってもらっているそうですが、こうこうして夢に見せてもらいました」というて来ました。それだから、ダムから持って帰った土を少しづつ分けて持って帰ってもらいました。そういう因縁のある千人切りの塚があります。ダムの水が引いた時、探せば見つかると思うのですがねえ。そこまで今は暇がないものですからそのままにしています。これがその時の写真です。ダムで供養しおる写真です。写真の男が従兄弟、女は女房です。

質疑応答
某 供養されたところは、ダムのどのあたりになりますか。
尾前 「梅の木」というところで、一軒家のあるところのちょっと下流です。カーブのあるところから下りたところです。そこに千人塚があるということを当時は知らんで、そこで供養したんです。これから行って説明します。
秋本 千人までは切らなかったが何人も切ったから千人というのでしょうねえ。
尾前 そうです。たくさんと言う意味の千人ですねえ。
某 それで、先に入ってきた薩軍の斥候は殺されたわけですが、その後西郷さんが来た時の話はないのですか。
尾前 それは親父からは聞いとりました。「西郷隆盛はここを通っとるぞ」と。ですが、若い内に西郷隆盛なんていうたって関心がなかったですからもっと詳しく聞いとけばよかったと思うのです。
秋本 その時はどこを通ったのでしょうか。桑弓野を通って小崎に行ったとあるのですが、ここの尾前の村を通ったのでしょうか。
尾前 その頃は、桑弓野に行くのは、松木の下のダムに沈んだ路に出て、つり橋を渡らんと桑弓野に行く道はなかったのです。親父が言うには松木から尾八重に下りた、と言うていました。尾八重から川沿いに下って大きなつり橋を渡って下ると桑弓野に行くのです。その時、つり橋を渡らずに少し先の方に行くと投げ込んだ穴があるのです。西郷隆盛が来た時に、それが見つからんごとというて、いろいろと隠し細工をしたという話は聞いていました。だから先発隊も切ってそこに入れたかも知れんわな。西郷隆盛が通る時、もし、これがばれたなら村中全部打ち首ぞということで、そこを通らんように隠すことに非常に苦労したと言う話しは聞いておりました。
 つり橋は、松木から下りてきて途中に小学校があり、その小学校の横を下りてきたところに、両岸が切り立ってですね、そこの下の淵が子供のころ行ってみたことがありますが、とても深い淵で、もう全然底が見えないのですよ。そこに蔓橋があったです。
秋本 それは牛馬も通る橋ですか。
尾前 そうですね、まあ、やっとかっと1頭ずつを通したようですね。
尾前賢了 不土野の「こういち」が、橋の袂の木陰に座って西郷隆盛が涼んでおったという話しを聞いたことがあるといっていたですね。それがそのつり橋じゃないでしょうか。 某 あの、先発隊は無事だったのでしょうか。
尾前 最初通って錯乱したわけじゃなくて、通ってみてその情報がまた後方に伝達してくるまでは動かんで居ったんじゃないでしょうかね。安全が確かめられてからそこを通ったとじゃないでしょうかね。
秋本 斥候が先へ先へといって地元の人の案内を頼んだりして路を開けて、初めてそこを通らせたのでしょうね。だから、西郷は村田新八、池上四郎と他二千の兵を連れて行軍したとなっていますが、二千の兵が一団となって一緒に狭い路を並んで行くはずはないですよね。そのうちの百人とか、いくつもに分けて斥候として先にやったり、しんがりとして後ろの方を見張りさせたり、四方八方に人員を飛ばせながら行くのでしょうからですね。
 それから、薩軍はもともと士族の侍ですが、その斥候が村に入って来たのを片っ端から切り捨てることができたでしょうかという疑問もありますね。まあ、千人ではなく数人か数十人か分りませんが。
尾前 怪しいものが入ってきたら全部切って捨ておったのです。入って来た怪しいものは絶対村の外には出さなかったようです。だから薩軍の最初に偵察に来た者を切ったということでしょう。それが見つかったらえらいことになるからすべてを切ってそこに隠したということです。
秋本 うーん、村も昔はいろんな殺し合いがあったなどの歴史があるので不審者の進入に警戒して、そういうことをやったかも知れないですね。それで西郷が来るということが分って、これはえらいことになるということで必死で隠したということですね。
 それで、西郷退路ですが、西郷隆盛は霧立越を越えて松木に下り、ダム湖の中の本道に出て尾八重の学校の横を下って途中から蔓橋を渡って対岸に出、そこを下流に下りて桑弓野に行く、そこから小崎川沿いに上り、小崎峠を越えて江代に出たということですね。
尾前 桑弓野を通れば、それしか道はないです。それではこれから小崎まで案内しましょう。

ダム湖の瓢箪島
(尾八重付近で)
尾前 この付近は、ダムの湖面が広いでしょ。この中に田んぼがあったり住宅があったりしたとこだから広いのです。ここを本村(ほんむら)というてまとまった集落でした。このすぐ下に小学校がありました。ここは横野というてこの下にも点々と住宅がありました。あのカーブミラーの真下あたりに蔓橋があったのですよ。
某 すると結構長かったのですね。
尾前 いやいや、今は湖面でずーっと長く見えますけど、もともとは谷底にありますから。あそこに見える船が私の船で、学校跡地ですよ。学校にあったせんだんの木に舟を繋いでおったのですよ。そこが本道で少し下ると蔓橋でした。
某 すると西郷さんは、松木から尾八重へ下りて、この下の道を通って蔓橋を渡ったのですね。
尾前 そうです。昔は、ここから役場のある桑弓野まで3キロの道でしたか、ダムができてから周りを回るため4キロ遠くなりました。丁度この真下に小学校がありました。このカーブから歩いて下りる道がありました。この下あたりまでが本道で蔓橋からその先は兎道しかなかったのですよ。その兎道の先が千人塚です。誰も通らんようなところですね。本道は蔓橋を渡って向う岸を下っているのです。
某 千人塚は、西南戦争以前からもあったのでしょうか。
尾前 そうです。そこに、行き倒れや縁のない人達を埋けおったのですね。
某 学校への通学はどうされていたのですか。
尾前 昔の道はダム湖の底で直線が多くて近かったのですよ。私は、尾前の今の家から桑弓野の中学校まで3年間無欠席で通いました。冬は暗いうちに出ないと学校に間に合わんから、松明を燈してですね、懐中電灯がない時代ですから、3里ありました。歩いて往復するのです。途中に赤い鳥居がありましたですね、あのあたりで夜が明けるので松明の燃えさしを岩屋のなかに入れておいて、帰りにはまたあのあたりで暗くなるので岩屋の中から松明を取り出して火をつけて帰るのです。
 車を止めてください。この下が千人塚です。

(下る)

瓢箪島と千人塚
尾前 ここは水位が下がったら島が出てくるのです。50メートルくらい瓢箪のような形で出てきます。湖面のあの黄色いものがあるところ、その先まで島になるのです。あの黄色いもののあるところが写真にあった供養した場所です。田んぼが続いとったのですね。千人塚はこの島の上流で、すぐそこの迫になるところの水の中付近です。ずーっとこれから下のほうへ50メートルほど下りたところが川でしたからね。
 ひょっとして、私が供養した時のように、あの黄色いものが見えるところまで島を歩いて行ける状態の時だったら、塚が出とったかも知れないけれども、その時までは、ここが千人塚ということは知らんで供養したとですよ。
 私が祈祷師のところに行って、ここの島が見えたというのは、あそこの道に電柱がありますですね。あそこの道に立ってここを見とったのです。あれから立ってここをこう見ているところがまぶたに入ったのです。「ははあ、ここだな」というのがピンとわかってですね、それでここで供養したのです。
秋本 なるほどですねえ。不思議ですねえ。それで向うの岸が蔓橋から下った椎葉往還ですね。
尾前 そうです。それで、正面の左側にちょっと引っ込んだ所があるでしょ。あそこは、尾八重のダムに沈んだ集落の人たちが、馬の種付けをしたり、馬の爪を切ったりする場所だったですね。馬が頼りですからね。こちらと向う岸を比較してみるとこちらは入り込みが深いですが、あちらの対岸は入り込みがないでしょう。だから、下の川沿いの本道はずーっと一直線でした。
 ここが、田んぼで、この下に家があって、そこで親父が墓引きに行くときに、上を向いて墓を見て「あの石を直さんか」というたのはこのあたりですね。だから千人塚はこのあたりのへっこんだところに間違いないですね。
秋本 それで、西郷さんたちは、尾八重の学校の横を下って途中から蔓橋を渡って向うのの直線の本道を下流に下りて桑弓野に行ったのですね。
尾前賢了 向うの直線の道を通ったかは、はっきりは分らんですね。不土野越の可能性もある。
秋本 不土野越は、まだここより上流ですね。小崎には不土野からでも行けるんですか。
尾前 行けるんです。さっきの赤い鳥居があったですね。あの下から谷川を遡っていけば小崎に出れます。
秋本 それでは、蔓橋を渡って下へ降りたか、または上って不土野を経由したかは分らんということになりますか。
尾前 それは分りません。昔だったら不土野を通った方が近いからですね。桑弓野を通れば三角形の底辺を下りてまた上ることになります。道は狭いけれども早く小崎に行くのはここからだと不土野の方が近いです。桑弓野を通ったかどうかで変わってくるでしょう。


※筆者注
 西南戦役130年で、西郷退路伝説を椎葉の各地で聞いたところ、「西郷さんが来たという話しは聞いたことがない」などと椎葉では、西郷情報が極端に少ないことに疑問を感じていた。その原因を、このたびのシンポジウムで、尾前新了氏が始めて解き明かしてくれたのである。
 椎葉村史にも「相次ぐ事件の発生」として「慶長六年(16.01)家康から椎葉山三人衆へ鷹巣山の官吏朱印状交付によって端を発した山内のもめごとから、元和ニ年(1616)の向山襲撃事件、三年後の那須主膳の幕府への訴え、椎葉山鎮圧、続いて那須勘右衛門等95人の集団逃亡。幕藩体制に入って相良藩の椎葉山支配となり、享保年間の杣山願いに係る黒木六郎左衛門兄弟処刑等々、村民をふるい上がらせる事件も相次いで起こった。平穏であるべき隠れ里でも波瀾の歴史をたどった」などと記されている。
 こうした歴史背景から、隠れ里を護るため、不審者の侵入には特に警戒し、薩軍の侵入時にも不審者として最初は切り捨てたであろうことは想像に難くない。薩軍千人切りは、かん口令を敷き、西郷情報も直接携わった者以外の人たちには伝えなかったに違いないと思われるのである。しかしながら、薩軍は武術にも長た士族集団である。簡単に山地の民の手にかかるだろうか。こうした疑問に、蔓橋が新たなイメージを鮮烈に沸きあがらせたのである。
 今はダムの湖底となっている蔓橋について、佐々友房は「硝雲弾雨一斑」に次のように書いている。「椎葉ニ抵リ釣橋ヲ渡ル、巨葛数百條ヲ以テ橋腹ヲ纒イ之ヲ樹上ニ約ス、長サ數百弓廣サ二尺ニ過キス、峡下幾百仭水石相觸奔盪ノ聲轟然雷ヲ成シ一瞥人ノ毛骨ヲ〆寒慄ナラシム、行テ中央ニ至ル搖撼殊ニ甚シ愈徐ニスレハ愈動人々匍匐して過ク。」と。
 橋の長サ數百弓という1弓の長さの単位は不明であるが、とても長い蔓橋であったのだろう。鬱蒼とした森の中で、四国のあの祖谷の蔓橋を髣髴とさせるような、そしてもっと長い大規模の蔓橋があったということは、地形が険しくてこの橋の上流下流にも他に橋ができないからこの橋一本に大きな投資をしていたのであろう。
 浄行寺住職の尾前さんは、「蔓橋からその先は兎道しかなかったのですよ。その兎道の先が千人塚です。誰も通らんようなところですね。本道は蔓橋を渡って向う岸を下っているのです。」と述べている。
 不審者がおっかなびっくりで揺れる蔓橋を這いつくばって渡り始めた時、村人が飛び出して来たらどのような士族や勇者といえども、簡単に切り捨てられるであろう。そして、蔓橋の横から入る兎道の奥には切り捨てて放り込んだという千人塚がある。蔓橋は外部からの侵入者に対して、隠れ里の砦のような役割を果たしていたのではないかと想像は膨らむのである。

 鞍岡波帰の盆踊り唱に以下のような「口説き」がある。笠部を越えてきた不審者が鞍岡の各地を通って椎葉の小崎の庄屋に討ち入りをしたという唱である。昔は、追剥もいたであろうし、このような討ち入りもあったであろう。住民は蔓橋をたてとして治安にあたっていたのではないかと思われるのである。


■ 小崎押し入り口説き
野を越え、山越え、笠部を越えて
  風も静かな、この鞍岡の
さても、恐ろし、押し入りばなし
  高橋通りて、丁字に泊まる
見れば、3人、侍仕度
  二十、四〜五のが、かしらと見ゆる
丁字、立つときゃ、6日の朝よ
  駄賃草切り、会うごと立ちて
馬を、のけねば、切るぞというて
  牛をのけねば、切るぞというて
たんだ、急いで、舟郷谷よ
  またも急いで、本屋敷について
またも、急いで、仲塔村よ
  急ぐ峠に、小崎の村よ
見れば、構える、庄屋の庭に
  紙を広げて、銭干しなさる
小崎、村にと、押し入りしたが
  銭かと思えば、葛粉でござる
銭が、なければ、ともきり丸と
  名前ついたる、刀を奪い
小崎、村をば、立ち帰りたが
  帰り道には、財木村の
金の、山にと、いう所にて
  オサモ押さえて、髪切り落とし
騒ぎ、たてるな、あと追い来るな
  この火消ゆるまで、出ることならぬ
ひゃくめ(百匁)、ろうそく、二本もたてて
  越えたところは、板木の村よ
急ぎ、隠れる、牛落しの岩や
  御上言葉に、手捕て出せと
強(こわ)手、新手の、村人たちに
  手強く向う、悪人なれど
己が、悪事の、報いがために
  腹の虫起きて、相果てたるが
調べ、受くるは、榧の木谷で
  与一墓とて、今あるなれど
  悪い事など、なしてはならぬ

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九州脊梁山地文化圏
平成22年10月24日〜25日


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第1回 霧立越シンポジウム
「霧立越を語る」
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