霧立越

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第5回・霧立越シンポジウム 「森とくらしのあり方を探る」


とき 1997年5月17日  ところ 五ヶ瀬町民センター

第2部 基調講演 「ふるさとの森を思う」


講師 岩永恭三氏  熊本県上益城事務所所長



馬見原は、物流の拠点として栄えた町
私は、蘇陽町馬見原の出身でございまして、小さい時はこの田舎にどっぷりつかって過ごしました。本当に楽しい田舎でございました。今日は高校生の方がたくさん来ていらっしゃいますけど、今どういう生活をなさっていらっしゃるかなという事を思いながら、先生方の話を聞いておりました。私の出身地、隣町の蘇陽町は、キャッチフーレズが九州のヘソということで、この一帯は、九州のど真ん中でございます。
先ほど、オープニングセレモニーで山伏問答をおやりになりましたが、あれは、祇園神社に伝承されている臼太鼓踊りの一節です。その祇園神社の裏山は、祇園山です。祇園山というのは、ご存じのようにやまめの里に行く途中の、左手に見える山でございますが、先ほどから4億年の水をテーブルに準備してございますが、日本で最も古い部類に入る地層からなる地質学上有名な山です。この一帯は五ケ瀬川の水源地帯でございます。私の方は熊本県になりますが、宮崎県の尾根をおしやって五ケ瀬川の方に入るわけでございます。本当にここは、山ばかりなんですけれども、自然が豊かというか、変化に富んでいましてそういう中で育ちましたもので、小さい時の思い出を語らせていただきます。
 私は、今は熊本市内に住んでいますが父はこの田舎出身だったんです。家が貧乏だったものですから父は大阪に丁稚奉公に出まして、ある程度成功して熊本市内に帰ってきて商売をやっていました。そこで私は生まれまして戦争中にこっちの田舎に疎開したわけでございます。終戦前の6月か7月だったと思いますが、熊本から上がってくる途中、バスの中から沿線を見てますと市内では見られないような花が沿線にあるわけございます。ワァーきれいな所だなと思いながら馬見原というところに着きました。
 馬見原は、江戸時代末期頃は、すごい町だったんですよ。造り酒屋が13軒もあって、3階建ての土蔵作りの家が立ち並び、商家がそれに並んでいました。造り酒屋が13軒も立ち並ぶというのは、ちょっと今で考えられないわけですけど、当時馬見原は、物流の拠点として発展していたわけです。大分県の竹田とか宮崎県の椎葉村などはもちろん、諸塚とか、この山地一帯の交易の場所で、東に延岡、西に熊本、そして長崎までも椎茸とかお茶とかそういう山産物の流通があったのです。中には京都、大阪に出したり中国まで行ったりというような話もございます。
 そういうふうにして非常に栄えた町でございまして、今あの町がそのまま残っていれば、本当にすごい町だったというのが印象に残っています。今思うと満4才ぐらいだったんですけど、なんだか町が怖いっていう感じがしたんです。そのような土蔵の連なる栄華を極めた町でしたが、その町を一歩外へ出ると、先ほどからお話があるように、やまめの里が生まれた程のあの綺麗な五ケ瀬川の流れがありました。

変わっていくふるさとの自然
 今でも、私の家の屋敷や田んぼがありますが、その田んぼのところからヤマメなどの魚を釣ったり、小さい時から川で泳いだりして遊んでおりました。まあ、上流域で肥えたごを洗っていても3尺流れればきれいになるということで、泳ぎながらその川の水をすくって飲んでいたわけです。まあそういう川でございました。そういう川というのは、小さい時はそれだけしか意識しなかったわけですけど、蛍も、本当にたくさん乱舞していまして、その蛍もどうしてこんなにいるのかなというようなことでした。それが今になると、蛍もあまり見れないわけです。私も成長しまして、なにもかも分かるようになり、理屈がわかってきますと今では非常に残念な気持ちでおります。けれども、私もあと数年とちょっとしたら定年ですから、私はこの田舎に帰ってきて住みたいと思いますし、又そう言う自然を取り戻す仕事に携われればいいなというふうに考えている一人です。
 川のことを考えますと、たとえば魚が棲む川というのは、もちろん水量も必要なんですけれど、瀬がなければいけません。瀬というのをご存じだと思いますが、平瀬という、さらさらと流れる瀬と、滝のように落ちる瀬があって、そして淵という深い水の溜まるようなところが瀬になければいけない。川底にそういう変化がないと魚は棲めない訳です。それと同時に、川には水棲昆虫や、ミミズとか、青虫とかクモとかの生き餌がなければ魚は育たない。魚釣りに行きますときにそういう餌を持って行きますが、魚は水中の生物だけを食べて生きているんじゃなくて陸生の昆虫も餌にして生息している訳です。川端には、そういう昆虫を育てる草や大きな樹がなければいけない。だから、川というのは、陸生の餌がいっぱい取れるような、そういうバックを持っていないと魚は沸かないし、蛍が少なくなったということにもつながるわけです。もちろん水が汚くなったというのもです。
 蛍は、ニナという巻き貝の一種で、こちらではコヒナと言いますけど、それがいないと蛍は生息しないわけです。昔はコヒナがざるでとれるようにいました。実をいうとコヒナは茹でて食べていたんです。それは、農家の人達が川に大根とか野菜をもって行って洗ったり、大根などの悪い部分や葉っぱなんかをポンポン捨てるわけです。米のとぎ汁などが川にこぼれたりします。そういうのを餌にして、川ニナは増えていくわけなんです。それが、今日では、川に人が接しなくなったものですから、そういうのがなくなって、川ニナが少なくなって、蛍が少なくなったというのが実態だと思います。だから、きれいな川は、逆に白岩山から出てくる源流域の清水には蛍はいないはずです。時には見かけるかもしれませんけれど、そういう生態系があってこそ、蛍は育つのであって、人の生活に着いていたってこともいえると思います。
 私は、終戦後まもなくの頃は小学生でした。その頃この付近で自動車を見るといえば材木を搬出するトラックか乗合バスだったんです。それで、私たちは道で自転車なんかで遊んでいると、砂利敷きの道なので向こうから自動車がくるときはバーッとほこりをたてて来るわけです。私たちは、自動車が来たぞーといって土手に身を置いて、トラックが行き過ぎるのを待っておりました。普通のこの付近の道がそうだったわけです。
 それが、今では道路が舗装になり側溝ができて自動車が増えてガソリンスタンドができて、町家の下水が三面張りのコンクリートになりました。私の家の田んぼにも用水路が通っており、水が入ってきますけど、昔は米のとぎ汁とかいろいろ入っていたからすごく田んぼの栄養に良かったんです。非常に良かったんです。今はそれが三面張りの水路になり、排水がサーッとダイレクトに入ってくるものですから、稲の株には、ネッチリと油分や廃油などが付いてしまうわけなんです。そういうことで、今は、田んぼの水は五ヶ瀬川から直接ポンプアップして使っている状態なんです。
 昔は、道路の横にある側溝に小さなつぼがありまして、高校生の方がいらしゃるけど、おばあちゃんが腰巻き一つで用を足してですね。夕方になるといろいろ台所や風呂なんかの排水が入るものだから、ホヤホヤした物が湧くわけなんです。それを一緒にして水を汲んでバーッと舗装していない道に流しまして、そういうので水がゆったりゆったり流れて、微生物が働いてきれいにして川に流していたから、川の水も本当にきれいだったと思うんです。それが、残念ながら今の時代はコンクリートの側溝でスーッと川に流れ込んでしまいます。私は県職員でございますので、国、県とか、市町村が、川を三面張りにして、水害をなくそう、下流域やその地域の人達の財産とか生命を守ろうという事で、ずっと河川改修をやってきたわけなんです。ようやく今の時代になり、多自然工法、多くの自然工法とか近自然工法とかビオトープとか、えらいかっこいい名前を役所が言い始めまして、そんなことをやってますが、ちょっと私もまだ気にくわない所があります。このことは後の話で続けさせていただきます。

 林業不振が森林の荒廃を招いた
 ちょっと暑くなりましたので上着をとらさせていただきます。そういうことで、川が、昔の川から今の川に五ヶ瀬川といえども変わってきたわけでございます。もう一つ、私は昭和15年生まれでございますが、昭和25、6年に朝鮮動乱というのが起きました。日本はそれまで、非常に貧乏でございまして、私は、恥ずかしいけれど小学校4年生のとき初めて父が熊本に行って氷砂糖を買ってきてくれて、生まれて初めて砂糖という物を口に入れましした。世の中にこんなにうまい物があるのだろうかと思ったものです。初めて甘い物に接したという時代です。そういう時代が朝鮮動乱の始まった頃でございます。それから、日本がすごく景気が良くなって、それ以後バンバン、バンバンこの付近の材木が高く売れるものですから、じゃんじゃん木が切られていったわけです。
 私の田舎の田んぼは、江戸時代にお金持ちが作った田んぼでした。家はあとを買ったんですけれども、五ヶ瀬川が雨で増水しても全然、大水が出ても田んぼには水が上がらなかったことを小学校の幼い頃記憶しているんです。田んぼは、宮崎県との県堺にありますが、宮崎県の方の田んぼには水が上がるわけですね。ちゃんと計算して田んぼは作ってあるんだな、と思ってましたら、なんと小学校6年生か中学生になった頃から、毎年田んぼに水が上がってくるわけなんです。雨が降るたびに。そうすると水が引く時に、バケツを持って田んぼの溝に行くと川魚がいっぱい捕れるんです。川の水は流れが速いものだから避難して田んぼの中に来ているわけです。バケツを持って魚を拾うのが楽しみだったんですけど、父や兄達は水害の後の砂出しで大変だったろうと思います。稲を起こす事もですね。そういうことを記憶しております。ちょうどその頃は、キジア台風とかジェーン台風とかいっておりましたが、アメリカの女性の名前を台風に付けていた頃です。そして高校に行き、大学に行き、県庁に入りました。私が県庁に入りまして30数年になりますけれど、15年か20年位前から田んぼには水が上がらなくなりました。それはなぜかというと上流域に植林が進んで木が大きくなり始めたからと思うのです。
 私が言いたいのは、杉、檜でも、今日はあえて全部嫌なことを言おうと思っているんですけど、今の流行りで、ブナ、ミズナラを植えて広葉樹の山を作れば水源かんようができると言いますけど、私は絶対そういうことじゃないと思います。私は杉、檜の山でもきちっと手入れをすれば、立派な水源かんようができると思います。今、林野庁の方で研究が始まっています。たぶん遠藤先生はご存じと思いますけど2001年をめどに、人工林をいかに水源かんようにするかという調査研究が始まってます。
 私は家が農林業で、父が製材所を持っていましたから、小学校のときから父の後ろに付いて、いろいろ覚えたり、手伝ったりしたわけです。だいたい植林というものは、1haに3000本植えるんです。1haというのは100m×100mですね。日本語に直すと3000坪、1町、2町言いますでしょう。不思議なことにちょっとコンマが違うだけで1haは1町なんですね。1町というのは3000坪。10反です。1反は300坪。皆さんは頭がいいから覚えてらっしゃるかもしれませんけど、こういうのは一生自分の頭に覚えておくと非常に参考になります。100m×100m、これが1町分。日本の言葉で10反の3000坪。そして杉の木は、1坪に1本ずつ植えると1町は3000坪だから1町に3000本となるのです。
 この付近は、すごく杉檜が成長する場所です。檜は少し遅いですけど。この付近の山で、昔教えてもらった事は、尾根松、中檜、麓(ふもと)杉と言うことです。尾根の一番高い所には松を植えなさい。中間には檜を植えなさい。麓(ふもと)には杉を植えなさいということです。だいたいそういうようなかたちで皆さん昔は山を造っていたんです。3000本植えました。それを35年までの間に最初の8年間位下刈りをする。遠藤先生がさっき話されたように、日本の木は2、3年はあんまり大きくなりませんけど、3年か4年になりますと1年に1m〜1.5m程大きくなっていきます。じゃんじゃん大きくなるわけです。
 しかし、それでも下刈りをしないと木は成長しません。だから、他の草にまかれて、それから雑木にまかれて、それがだいたい7、8年かかりまして、そしてあとは枝打ちとか間伐をしまして、35年とか40年生で木を切るわけです。その時は1ha当たり700〜800本になっているわけです。4分の1位になってしまうわけです。それがこの付近の普通の山の育て方になるんです。山を育てるというのは、林の床を林床といいますが、その林床にいつまでも薄日が差しかかるような枝打ちと間伐をしていくと、すごくいい木が育つわけです。節だらけの木でなくて、節が中に隠れてきれいな肌の木に育つ。よい材木にするには枝打ちもこまめにしないといい木は育ちません。そういうかたちでやるんです。
 毎年毎年、7、8年は下刈りしますけどだんだん大きくなりはじめて、下木を切らなくなります。そこには広葉樹の苗の様な物がたくさん生えてくるわけですよ。杉山といえども全部緑が覆っているわけじゃない。それが、杉ばっかり植えたままにしておくと、林床は真っ暗になりまして地肌むきだしなんです。木は全然大きくならない。これを線香木といいます。お線香の様な木を線香木と言いますけど、植林しても10年、15年と手入れしていかなければそういう山しか育たない。そういう山は水源かんようするはずがないんですよ。頭のてっぺんに三角形にちょこっと葉が付いている。おてんとうさんが林床に入らないから、枝も全部茶色になって、炭酸同化作用をしないので、折れてしまって木も大きくならないわけです。実を言うと、非常に今林業が不振でございます。だからそういう山が、あっちこっちに見られるわけです。私の山もそうなんですけどそういう時代にきています。

森林組合の組織強化を
 私は、なぜ今ここまで話をしたかというと、後の話に続きますけど、「我が故郷の森を思う」というのは、私ははっきり申しまして、私が学校に行けたのは、ここの私の家の山を売ってお金を作ってもらって、熊本の高校と東京の大学に行かせたもらったのは、山のおかげなんです。家は兄弟6人おりますけど、叔母にいうと1人は熊本ですけど、後5人共東京に出してもらったのは、全部この杉檜山の木のおかげで大学まで行かせていただきました。しかし今は、こっちの方に山を持っていても山があまり売れないし大変なんです。
 森というのはどういうものかといいますと、私達の頭の中では、森と言葉ではいいにくいんです。山林なんです。極端に言えばそういう山で学校に出してもらっているという事です。こちらで生活する人たちは、昔お金持ちという人たちは、江戸時代からずっと商家は別として、金持ちは、田んぼをいっぱい持っているか、山林をいっぱい持っているかということでした。「あの人は山持ちさんだからお金をもっておらすけんなぁ」というのがこの付近のお金持ちの基準だったんです。山を広く持っているか、田んぼを広く持っているかがお金持ちでした。、畑は持っていてもたいしたことはなかったですね。田んぼか杉、檜山をもっている人がお金持ちだったんです。
 それが残念ながら、ご存じのようにウルグアイラウンドというのがございまして、合意に基づいて世界的に輸入が自由になったわけです。これにより世界の産地間競争で大変なことになっているんです。だんだんだんだん農業とか林業が今本当に疲弊している。農業とか林業で生活していこうと思うなら、よっぽど大面積を持たないとやっていけないし大面積もまた難しいとこがあるんです。過疎ですし高齢化だし担い手不足、働く人がいなくなっている訳です。
 だから、もうだんだんとこの五ケ瀬町とか蘇陽町という所では、そういう環境になって一人欠け二人欠けということで、来てみたら赤ちゃんの声も聞けない。少しオーバーに言えば小学生の声も聞こえない。逆に大阪とか、東京に私達が今出張していけば、都心に若い人が集まって気持ちが悪くなるくらい若い人ばっかりなんです。都心に若い人ばっかり集中して田舎はだんだんそういうふうになっています。それが現実なんです。そういうのが今の林業なんです。
 もうひとつ私が言いたいのは、森はどうなっていくかということなんです。私は今、熊本県事務所長という立場ですが、8課あるわけで林務課、耕地課、農業普及課とか税務、福祉とかいろいろありますけど、林務をもっているわけです。そこで森林組合というのがありますけれど、今の時代に働き手がいなくなったものですから、山の手入れができないわけです。山を持っていても、個人では搬出施設もできない。森林組合がしっかりとしないとだめなんです。例えば国とか県とか、補助金をもって、地元の方達にいろいろな助成制度を造って元気づけようとしても、請け皿が個人の場合は、個人には補助金が出せないわけです。だから森林組合という請け皿がしっかりしないと国も県も政策も、補助金も出せない。そういうことで、今、私の地域の森林組合の合併を組合長さんたちに説得をしているんです。その中で、それでもうまくいったとしても、山に対するお金はそれだけなんです。

水源涵養の森をつくる
 私は個人的に、夢か幻かわかりませんけど一生懸命思っているのは、都市の水はどこからくるのでしょうか、と私は言いたいんです。熊本市は80万ぐらいの人口ですけどこれは全部地下水なんです。市民が飲んでいる水は、私が住んでいる嘉島、御船、益城あの一帯も地下水なんです。嘉島なんていう町は、水道が各家々に引いてないんです。地下水を掘ればいい。下水もないんです。それぐらい水に恵まれすぎているんです。しかし、嘉島町は山は全然持たない。この水どこからくるんでしょう、と言うのが、この蘇陽町、清和村、矢部町、阿蘇とかこちらの五ヶ瀬町など九州山地からくる訳なんです。そういう地下水が緑川、白川、とかになって流れ、それがまた地下水になって、吹き出しててそれを飲んでいるのが都市住民なんです。山を大事にしませんと先ほど言いましたように、水源かんようをきちっとするような山にしないと、都市の人が水に困る訳なんです。
 日本人は、戦後洗濯機ができるまでは、一日一人100リットル水を使用していたといいます。今、水洗トイレまでになったら、だいたい300、400リットル、入浴を入れたら500リットル位使うようになっているということです。文明が進むにつれて、一人の人間が使う水の量が4倍にもなっているんですね。そういうかたちで、一方では都市に人口が集中して、山には水ができる。山が荒廃するといっぺんに雨がザーっと川を流れてそれで終わり。水源かんようをするような山を育てなければならない。そういう山を育てないといけないんです。
 しかし、先ほども申しましたように、本当に戦後は山の景気が非常に良かったものですから、杉檜山がじゃんじゃん増えて、お杉畑と言うくらい杉山ばかりできたわけです。そして、今はこの付近でも4割位がちょっとした自然林で半分以上は人工林ではないかと思います。だからそこへんで、しっかり人工林を、水源かんようできるような山に育てていかないといけないというのが、私がいつも仕事の上で、こういう時に訴えているわけです。そして杉や檜を上手に育てれば、日本の杉とか檜とかは、ケヤキまで入れて、世界一と言ってもいいくらい素晴らしい良質の材木が生産できるのです。こういうものは、もう植えてあるんです。これを立派に育て、本当に市民のための地下水や日本国土の財産にしていかなければいけない。これが山の役割だろうと思います。
 それが、先ほど申しましたように山村が疲弊してきまして、それを助けてくれるのは、都市の方々ではないか。都市の方々が助けてくれるといういい方は、都市の自分自身の口を、助けるんだということに返ってくるわけなんです。そのことを私は強く言いたい。 というのは、私は緑の羽の上益城の首長でありますけど、田舎に行くほど緑の羽はよく売れ、市内に行くほど無関心なんですよ。だから私はちょっと頭にくるけど、都市の人が本当にがんばって緑の羽を買ってくれると、それなどが還元されていくわけなんです。
 まだ言いたいのは、私はかって県の景観整備課長をしていた時、緑化宝くじというのがありました。皆さんもご存じですよね。あれは都市緑化の建設省サイドの宝くじなんです。私は林野庁から森林宝くじくらい出してもいいのじゃないかと思うんです。本当に宝くじで得たお金が山に返っていくような事ができないかなというのが本音です。役所の人間がこのような話をするといけないんですけど、そういうことを考えるくらい、これからの日本の国土保全のなかで、山を大事にしていかないと日本人全部がダメになるよということを言いたいのでございます。

九州中央山地国定公園指定への取り組み
 演題が「ふるさとの山を想う」ということで、おもしろくない話になったかもしれません。私は、県庁に38年に入りまして、観光振興課という所でいろいろな仕事をしてきたんです。その中での思い出は、また胸を張って自慢したい事は、県庁には、土木の技術で入りました。そして観光振興課の施設係というところで育てられ、一番先に阿蘇山上とか草千里とか仙酔峡とか、そういう国立公園に道路を作ったり駐車場を作ったり、そういう仕事をさせられました。
 そういう時に、昭和40年に人吉市の市長さんから九州の脊粱山地を国定公園にしたい、というお話があったわけです。球磨川というのはご存じと思いますけど、そこの球磨郡の方々が一生懸命になって、国定公園の運動をされました。宮崎県の白髪岳のあの一帯から市房山、先ほどお話がありました白鳥山とおっしゃいましたけど、御池一帯。御池というのは椎葉村と境になりますね。それから鳥帽子岳とかです。
 九州で一番高い山は屋久島の宮之浦岳ですね。九州本土では久住山。次は祖母山ですね。そして、熊本県と宮崎県の境で一番高い山は1739mの国見岳というんですね。その裏側は椎葉村。国見岳といっても、国見岳からずっと北へ上がってくると、三方山から1684mの向坂山です。やまめの里の上の方のスキー場が向坂山ですね。そういう流れがあったわけです。そこを国定公園にするということで、私は昭和41年から57年にかけて、70回位この山に入っております。先ほど先生方の話の中で自然公園という話がでてきましたけど、自然公園というのは国立公園、国定公園、それから都道府県立自然公園と3つの名前がございます。自然公園法という法律があって国立公園の場合は環境庁長官が指定する。国定公園の場合は国立公園に準ずる所で、これは地元の知事の申し出によって環境庁長官が指定するということで、県が全部区域から調査から計画から作って、環境庁にあげて国定公園にしていただくわけです。
 そういうことで、昭和45年だったと思いますが、宮崎県に働きかけまして調査が進んだところで、両方から協議会を作りまして、がんばって10数年かかって国定公園にしたところでございます。実を言うと、私は、昭和39年に、内大臣から国見岳に登って椎葉の尾前に下り、耳川の方の椎葉に下りて田舎に帰ってきたことがあります。その時に、こっちの山もすごかったけど、こんな山があるのかということで、それがなんとなくきっかけだったんです。それで一生懸命頑張って、飽きることなく、21年の生活の中で10数年かかりまして、九州中央山地国定公園の指定にこぎつけたわけなんです。
 本当は、九州脊梁山地国定公園にしたかったんですけど、私があまり頭が良くないものですから、仮に九州中央山地と言っていたらそのまま九州中央山地になってしまいまして、今は九州脊梁が良かったんじゃないかなというのが今の気持ちです。それが九州中央山地になってしまったものだから、ちょっと反省しているところでございます。
 この山というのは何も特徴がないんですよ。他の山のように湖があったり、火山があったりするわけじゃないんです。本当の自然林、天然林なんです。これを残さなくてはいけないと。そうしますとこれは、自然環境保全地区じゃないかという話もあったんですけど、いやそうじゃない、ということで国定公園にしていただいたんです。まだまだ、本当に足を踏み入れたら素晴らしい所があります。国見岳なんかは、登った所の西北斜面なんかは九州一のシャクナゲの大群落地でもありますし、素晴らしい所であります。秋田とか岩手に行けば、海岸端までミズナラとかブナが見られますけど、九州でブナが見られるのはこの一帯と祖母山くらいしかないわけなんです。貴重な場所なんです。そういうことで皆さんが一生懸命になってこうやって今、保護保全に努力しております。
 そういうことで私は水源かんようということを、先ほど申し上げましたけれど、それよりもやっぱりこういう大事なところを残して、九州の宝とすることが、もっと大事じゃないかと考えるわけです。私は、今日も実を言うと、秋本さんのお仕事の、日常のライフワークで、秋本さんからお話があった時、2つ返事でこの講演は引き受けたわけでございます。本当にそういうことが、その価値のわかる人がよそものであってはいけない。地元の人がそういうのをわかるほど、守られていくと思います。このことを、私は声を大にして言いたいと思うのであります。

植物は歴史の証人
 話をちょっと、飛ばしますけど、阿蘇というのは僕は熊本県側ですから言いますけど、この付近の草原原野を含めて話をしますと、今日、遠藤先生の話に出ました阿蘇の草原は、大分県、熊本県、宮崎県を含めて、昔は6万ヘクタール位あったらしいんですね。今は4万5千と言われています。
 草原で牛1頭養うには、先ほど言いました1ヘクタールなんです。草原、普通の自然に生えた草は、100m×100mで牛は一頭養える。そういうふうになっています。草地改良すれば別ですよ。そういうことで阿蘇は、皆さんご存じの通り昔から放牧が盛んに行われておりました。
 グリーンピア南阿蘇から北向き山というのがありますけど、あの付近は原生林です。あそこが国指定の天然記念物の原始林になってます。人間の手が入ってない富士山麓のあおきがはらと同じなんです。本当は阿蘇の草原は人間が全然手を入れていないなら、あおきがはらと同じ樹海だったし、北向き山のような自然林だったんです。それを2000年以上も昔から、野焼き、放牧、採草をしてきました。採草っていうのは、刈りぼしきり唄というのが隣の高千穂にあります。こうした火入れ、採草、放牧という、人間が牧畜を営むために草原を造りだして維持してきているから草原なんです。
 阿蘇家の歴史は、天皇家ともつながっているわけですが、阿蘇家2000年の歴史の古文書にこのことが残されているんです。その中で10年20年30年と歳月を重ねると少しづづ変化が起きる。これはいわゆる植物の植生の遷移といいますけど、始めは地球が月の様に何もないところから、苔とか、蘚苔類が生えてきて、それからだんだん草が生えて、木が生えて、そうして大きな大木になるんですけど、その中で人間が草原に止めているのは、阿蘇の半自然なんです。そういう、半自然の中には素晴らしいものがあるわけなんです。
 今から20万年位前、地球は氷河期だったんです。氷河期と言っても平均気温が今より4度位しか寒くなかったといわれますけれど、中国大陸から朝鮮半島を隔てて、今は日本海がありますけど、日本は大陸とつながっていたわけです。氷河期だから非常に寒いのでだんだん植物は南の方に下ってきて、九州にたどりついたわけです。そうして地殻変動とか氷河期が回数を重ねながら日本海に隔てられました。今でも中国大陸と朝鮮半島の植物が阿蘇に生き続けているのがたくさんあるんですよ。だんだん、だんだん地球全体が暖かくなっても阿蘇の草原は標高が1000m位なものですから冷涼な気候で、ヒゴタイとか、ヤツシロソウとか、キスミレとか、日本には阿蘇にしかないという植物があります。ちょっと変化したものとしては、ハナシノブとかもあります。
 本当に植物は歴史の証でありまして、そういうのが草地改良で大根畑になりまして、草原が全部人工草地に変わっていってしまって、自然そのものの貴重な物がなくなるわけです。そういう仕事を観光振興課の中で一生懸命してきました。今の役人は官々接待とか、空出張とかいわれますけど、実はこの会場の中に家内もおりますけど、あんたは仕事が趣味ね、趣味が仕事ねと、だいぶ怒られたこともあります。私は、高校生の皆さんに申し上げたいんですけど、仕事も自分のものに逢えばこんなに楽しい人生はないし、自分の体重がどれだけ減ったって、食べることを忘れても仕事ができるということだけは、公務員でもしているってことを理解してほしいんです。北海道から本州、そして九州がございますけど、私はやっぱり九州ってことを考えていただきたいと思います。
 今から20年位前にヨーロッパに研修で24日間行かせてもらい、6カ国を回ってまいりました。その時、本当に九州は素晴らしいな、日本は素晴らしいなと思ったんですね。今日、遠藤先生の話の中にたくさん出てきましたけど、日本というところくらい、素晴らしい緑に恵まれた国はないわけです。これはなぜかというと、日本は温帯で、春夏秋冬がある上に梅雨がある。台風がある。梅雨も台風も災害を起こしますけど本当に植物繁茂には理想的なことなんです。特に九州はですね。おまけに日本列島は北から南に長い陸続きの国で、北海道から沖縄まであるわけですから、植物もたくさん見られます。
 ただ、ヨーロッパと日本の違いは、じゃがいもを植えている畑においても芝生がヨーロッパはどうしてこんなにきれいだろうかと思ったら、向こうはあまり雨が降らないし寒いものだから雑草という植物をあまり育ててくれないわけです。日本は芝を植えたら1週間もしないうちに雑草がいっぱい生えてくるわけです。そのくらい日本は植物繁茂の素晴らしい国なんです。だから梅雨があり、台風がありというのは本当に一方では大変なんですが、そういう国土に私たちは、生まれ育って生活できるというのを大切にしないといけない。特に九州の中でもこの一帯は、そういうものに恵まれた所だと思います。

自然保護論のはき違い
 私は景観整備課長時代に熊本県緑の3倍増計画という緑化の仕事を手伝いました。植物は時期を選べば、投げやっていても根づくように恵まれているわけです。だから自然治癒というか、人間が破壊しても自然に戻ることが早い。そういうことを九州に住むからには、九州のありがたさを、是非、皆さん多くの方に伝えてほしいと思います。私は本当にいい所に住んでいるんだなといつも感激しています。とりとめのないことを言っているんですけど、なぜ私がこういうことを言うかと申しますと、今の自然保護は皆かっこいいことをいうわけなんですね。
 かつて私が景観整備課長時代に、ある課長補佐が課に転勤してきまして、私はこんなに素晴らしい国に生きて幸せですということだったんですけど、1週間もしないうちに市町村の方が来ると、自然保護のことを得々とおしゃべりなさるわけです。黙って話を聞いていたら、私は物心が付いてから蚊もノミもハエもゴキブリも殺した事がありません。私は非常に生き物は大事ですから、山に行く時もいかに、草を踏みつけないで歩くかということに苦心してます。というようなかっこいいことをいうわけです。
 お客さんが帰ってから私が怒ったんですよ。「余所から来た人にそういう話はしないで、恥ずかしかぁ」と言ったら「なんでですか。生き物を大事にする事は大切じゃなかですか。」というわけです。「貴方は卑怯者だぞ」と言ったら「なんでですか」という。「貴方はご飯を食べるか」「はい、食べます」。「肉を食べるか」「はい、食べます」。「魚は食べるか」「もちろん食べます」。「卑怯者ね、人に殺させて自分は食べるとか」。私はそう言ったんですけどね。「それは極論です」。と言うんですよ。「極論て何ね」。と言ったら、「それは生きていくための必要最小限の事じゃなかですか」。と言ったので「いや、俺はゴキブリでも何でも殺さんといかんと思うがね」。と言って、私言ったんですよ。「じゃ、風邪ひくや」「もちろん風邪はひきます」。「下痢するや」「はい、もちろんします」。「薬飲むや」「はい飲みます」。「はぁすごいね、体の中の生き物全部殺してるじゃないか」。と言ったことがあります。
 本当に自然保護の中にもカッコつける人がいるんですよ。ある高校の先生。あえて言います。私が知っている人ですけど、校長先生がかんかんになって私に話してくれたんですよ。その先生は若い夫婦で、子供さんが5、6才でアウトドア志向だそうです。学校まで歩いて10分位だそうです。校長先生は毎朝官舎から自転車で行っているわけです。その先生の官舎の庭が草ボウボウで、土日になるとランドクルーザーで、ブゥワーと出て行かれるし、学校も通学の行き帰りがランドクルーザーだそうです。「おい、あなたも土日、外ばっかり出ていかんで庭の草取りぐらいせんや」と言ったら「私は自然保護論者だから、庭の草はそのままにしておきます」といったと。「でも、蚊とか出てきたら子供にもいかん」と校長先生が叱ったそうです。そしたらむっとむくれていたということです。
 自然保護論者とかいろいろカッコいいことを言いますけど、私が言いたいのは、しっかり勉強していって欲しいのは、高校生の皆さん、緑もたくさんいろんな種類があるということです。この天然林の原生林の緑、高い所にあるのは、これはアフリカのライオンとかトラとかキリンと同じで野性の緑だと思います。それからこの付近にある緑は、杉とか檜とかクヌギというのはこれは家畜の緑だと思います。そして私たちの身近な所にある木はですね、これはペットの緑、犬とか猫の緑だろうと思います。緑もいろいろ効用があるんだということを考えてください。これは私の物差しで話していますから、自分でそしゃくして考えて欲しいなと思います。
 先ほど、安楽先生が五家荘とおっしゃいましたけど、五家荘というところは泉村という役場があるわけです。私が緑の三倍増計画を、町村に説明に行った時、その町の課長さんが二人出てきて、私が説明し始めたら「あー岩永さんもう緑はいらんですばい、うちの五家荘は緑公害です」とおっしゃるわけです。「緑と戦って緑を少なくする事を努力しています。緑の三倍増なんて言わないでくでさい」と言って課長さん二人で私にくってかかった訳です。
 困ったなと思った時、ぱっと頭に浮かんだのがその言葉なんです。「役場はしぶい庭作りをしなはっとりますな、そこの上の小学校もえらい庭作りをしなはっとりますな、今日で何回も五家荘の民宿に泊まったばってん、五家荘の民宿は、シャクナゲ植えたりして、皆えらい庭作りしとりなるばってん、両課長さんの家はみんなコンクリート舗装なんかして、駐車場しか作っておらんですばいな」というたらなんか奇異な顔をされました。
 緑にもいろいろあって、自分の好きな緑は身近に植えたいでしょう。家の中にも緑を飾るでしょう、という話をしたわけです。いろんな緑もあるけど、やぶへびとかやぶからぼうとかありますけど、これも緑なんですね。だから、その付近も自然保護をしっかり考えて、人間が地球上に生きているから自然保護があるわけであって、人間が全部死んでしまったら自然保護なんて全部なくなるわけです。人間のためにやるのが自然保護なんですよ。このへんのボタンのかけ違いをしないでほしい。もし、そこまで否定するなら自分から自殺してほしいなと思うわけです。
 極論を言いましたけど、極端に言えばそういうことです。森の話をしようと思いましたけど、違う方にいってしまいました。ようは、私たちが生きていく上で本当に緑を考える場合、人間の生活にとっての都会の緑、身近かな緑、そして山の緑、そして市民が日本国が繁栄していく、豊かな生活をしていくために、森が、健康な森が生き続けない限り、日本のこの素晴らしい繁栄、それから豊かな生活、そして本当にきれいな自然が、生きていかないんだということを強調して申し上げたいと思います。

豊かな自然が未来永劫に守られていくために
 私は、観光振興課に21年勤めたなかで、観光とはなんぞや、レクレーションとはなんぞやということをしっかり考えました。観光は阿蘇山頂でもどこでも同じですが、この間の5月の連休もそうなんですけど阿蘇山頂からいわゆる、南関インターまで、高速道路が43km数珠つなぎということで、行楽地は福岡付近から、熊本市内からいっぱい阿蘇の方に押しかけてくるんです。来る人達は交通渋滞や交通事故を引き起こすわけです。地元の農家の人達は耕運機も出せない。買い物にも行けない。観光客というのは、草千里とか大観峰とかあっちこっち行ってはトイレに行ってウンチもおしっこもして帰るし、ゴミや空き缶をバンバン投げ捨てて帰るわけです。地元にとっては観光なんていうのは、一銭にもならない、と思うでしょう。しかし、私は本当に真剣に観光というものを考えた場合には、観光は産業だというふうに考えなければならないと思います。
 観光は定義づければ、日常の生活から出て旅をする事です。レクレーションとの違いは、日常の生活圏のなかですることがレクレーションです。観光は旅が伴うわけですけど、心身のリフレッシュと、明日への活力と自分の知的欲求を満たすために観光はするのです。地元の受け皿にとっては、泊まってもらうか、食べてもらうか、飲んでもらうか、お土産を買ってもらって何らかの経済的波及がないなら、観光開発なんて考えてはいけないと思うわけです。都会のごみ捨て場にしてもらったら困るわけです。このことを私は市町村の方々にも県庁の職員にずっーともう10年も20年も言い続けてきました。
 ここに展望台を作りたい、ここに遊歩道を作りたい、ここにベンチを作りたいと言うんですよ。だから、何の為に作るとね、都市民を喜ばせるためね、と言うんですよ。そうしたらあなたたちは後でゴミ拾いするとね。町のお金でトイレの汲み取りするわけだろう、と私は言うわけですよ。観光っていうのはそこへんをしっかり考えなければならないということです。それと同時に、こんな故郷に東京からも大阪からも熊本からも今日は延岡からも来てもらっているということは、やっぱりこういうところだからこそ、人がたくさん来てくれることで、地元にとってとても嬉しいことなんですよ。この訪れてくれるということ。お国自慢をしたいということ。それを私は壊すのではなくて、磨いて保全する事だろうと思います。私も何年か先には故郷に帰ってきます。そして私はそういうようなものを、顕在化して本当にこれは先祖から受け継いだ大事なものだとして護っていきたい。
 アメリカのインディアンの部族が言ったそうですね。この自然は子孫からの預かり物だと。これは先祖からもらった物ではなくて子孫からの預かり物だという気持ちがあると思います。そういうことでこの地に住みついても、この宝物は、絶対傷つけてはいけないし、そういう気持ちで利用させてもらわないといけないということを言いたいのです。
 私はそういう気持ちでこの五ヶ瀬から、この一帯の九州のへそと言われる地域が、未来永劫に豊かな自然が、ずっと守られて、そしてこの中で豊かな生活ができるような、そういうしかけをしていかないといけないと思います。これが私が今日一番言いたかったことでございます。
 そのためには楽しんで来ていただくような仕掛けとか、お迎えを作らないといけないと思っております。 非常にとりとめのない話になりましたが、今日は皆さん県外からもお出いただきまして、地元の方もお話聞いていただきまして、どこに視点を持っていけば良かったかなと思いましたが以上述べまして終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。(拍手)

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第13回霧立越シンポジウム
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第12回霧立越シンポジウム
『柳田国男100年の旅』
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第11回霧立越シンポジウム
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第9回・霧立越シンポジウム
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第6回 霧立越シンポジウム
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第3回 霧立越シンポジウム
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第2回 霧立越シンポジウム
タイシャ流棒術350年と霧立越
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第1回 霧立越シンポジウム
「霧立越を語る」
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森シンポジウム
―地域の光の創造と発信―
1992年10月25日

五ヶ瀬ハイランドスキー場
パネリスト
竹内宏氏(長銀総合研究所理事長)
後藤春彦氏(三重大学助教授)
藤井経三郎氏(リブ・アソシェーツ代表)
車 香澄氏(福岡大学教授)
長沼武之氏(宮崎県観光振興課長)
秋本 治 (やまめの里代表)
コーディネーター
鈴木輝隆氏(落ち穂拾いの会)



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2009.03.10〜