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第10回・霧立越シンポジウム 西南戦役130年

「西郷さんの歩いた脊梁山地を探る」

 4月22日  かつての宿場町 馬見原町ウオッチング
(岩永氏ガイド)

■チューリップツリー
岩永 それでは、私が馬見原町をご案内します。そこの(岩永氏宅の下を指して)川原に大きな木が立っておりますね、あれは「ハンテンボク」といいまして、明治時代にアメリカから輸入された木です。この木は熊本県庁の議会棟のまん前にですね、これよりもっと大きなものがあったんです。その実が落ちまして、県庁の塀の外の空き地に落ちまして生えていたのを夜こっそり持ち帰って植えたものです(笑い)。今から25年前ですが成長が早いですね。日本には恐竜の化石が出る時代の地層にはでてくるらしいですがねね、日本では大変珍しい木です。
秋本 「ハンテンボク」のハンテンとはなんですか。
岩永 木の葉の形か衣類の上から羽織る半纏ですね、あれに似ているので「半纏木」といいます。また、花がチューリップの花に似ているから「チューリップツリー」ともいいます、モクレン科の花ですね。その横にある木はコブシの木で、これもモクレン科ですが今年は珍しく霜にも会わず真っ白な花がとても良く咲きましたね。

■揚の城山
岩永 この川の向うに見える農家の裏に小高い山が見えます。あの山を城山と言います。豊臣秀吉の頃、阿蘇家が阿蘇の大宮司職を争って兄弟喧嘩をして内紛を起こしたのですね、その時に、弟の方が勝って矢部を取り、兄貴の方は追い出されて高千穂の三田井家を頼って来たらしいのです。その時、三田井家は兄貴の方の当主を甲斐家に預けたのですね、その時、あの山に屋敷を構えたといわれています。それであの山を城山と言っていますが、そこに阿蘇家の当主を住まわせて庇護したらしいのです。この部落には甲斐という姓が多いのです。その後その兄貴がこの付近の人を集めて勢力を盛り返しまして、矢部を取り返して自分が大宮司職に付いたわけです。それ時庇護してくれた功績に対して、甲斐そううんという人を御船城の城主にしたのですね。
(※五ヶ瀬町史によると「天文6年(1541)高千穂出身の甲斐親直、軍功により岩神城主から御船城主に出世する」となっている)。
それでその人の子供に甲斐そういうという人がいるのです。この人が島津家とひびきが原というところで戦争して負けまして手足に大きな傷を負って熊本の鯰のところで亡くなったのですね。亡くなる時に、俺が死んだら手足の痛むときに助けると言うて死んだわけです。それが今の足手荒神さんです。だから足手荒神さんの先祖がこの付近を支配していたということらしいです。

■熊本県で二番目に上水道を整備した町
岩永 この橋は三河橋といいますが、この橋の横に駐車場がありますね。そこが恵比寿屋というのがありました。薩軍の兵士の書いた日記に元平野屋と恵比寿屋に泊まったということを書いているのですね。あの三河橋は当時はなかったのです。もう少し下流の方に日向往還の川を渡る木の橋があったのです。そこからこの坂道を上ってきたらしいのです。昔は、家は茅葺が多くて火災もよくあったらしいのです。目の前の下には川の水が豊富にあるのに水がなかったのです。それで一旦火災が発生したら大火になるのです。それで昭和の始めですから大正5年ですね。なんとか水道を作ろうじゃないかということで水道を造ったのです。それが熊本市の水道が大体一段落しまして、その技師さんを呼んでここに上水道をつくったのです。それで通水式を下のが昭和4年の7月30日なんです。熊本県で二番目に近代的に上水道を作った町なんです。昔はそれくらい景気がいい町だったのですが、今はご覧のとおり静かな町でごさいます。

■若山牧水が泊まった
岩永 ここに土蔵造りの家が去年までありました。ここは明治時代まで旅籠だったらしいてですね。若山牧水が延岡中学4年生の時に、修学旅行で高千穂に泊まり、馬見原で泊まり、浜町に止まり、御船に止まりして熊本まで行っているのです。その時に泊まった宿だと言われています。その時に若山牧水は「馬見原はしゃれた町なり」と日記に書き残しています。その当時、明治30何年頃はしゃれた町で山間の小都会といわれた町だったらしいです。今は知りませんよ。(笑い)。
 ここは西吉野屋という旅籠でした。この宿は骨組みは全部昔のままです。二階の座敷も昔のままにしてあります。お泊りになられればその部屋に泊めてくれるかも知れません。

■火伏地蔵
岩永 ここは火伏地蔵です。個人から寄贈を受けた地蔵さんです。中の地蔵さんは永禄6年、永禄3年は織田信長の桶狭間なんですね。その三年後の永禄6年に龍専寺というお寺の観音堂の中に祀ってあったらしいのですけれども、町の北側に鎮座仕り候とここに書いてありますけれども、八田一郎という人がここに祀ったんですね。それから地蔵さんまつりというのが連綿として続いてきたわけです。
 越後屋と言うのは、ここの今は郵便局になっていますがここが越後屋の跡です。
 地蔵祭りは八朔祭りとして大きな作り物をつくるようになりました。矢部も大きな作り物で大々的に宣伝していますが、ここの馬見原が発祥です。戦後大々的な作り物が始まる前は、家財道具を使ってやっとったのです。それが戦後から自然のものを使っていいということになってあんな馬鹿でかいものに変わってきたのです。発祥はここ馬見原でやっておった祭りを浜町でもやってみようじゃないかということで浜町の八朔のまつりが始まったと聞いております。高森の八朔祭りは、昭和の初めに加藤という自転車屋さんがおってここの地蔵まつりで技術を覚えて、それから高森に行って風鎮祭で作り物をやろうじゃないかということで始めたのが今の高森の風鎮祭の作り物です。そういうことで作り物のルーツは馬見原のようですね。何で始まったのかは分りません。

■官軍本営跡の碑とヤンボシさん
岩永 これは、官軍の本営跡となっていますが、場所は本来ここではありません。もっと向こうの方ですけれども場所がありませんのでここになったのです。これは江藤政光という人が非常に熱心で、西南戦役の碑をあっちこっちに建てておりますけれども、その一つです。後で行く病院跡にも建っています。
 この駐車場の上、階段を上がった上に樹齢800年ばかりの大杉が二本ありました。それが19号台風の時に倒れまして今はなくなったのですが、その杉をヤンボシ杉というていました。山伏塚と書いてヤンボシ塚というのですが、塚があってそこをヤンボシさん、ヤンボシさんと呼んでいました。また、上の山ともいうていました。
 明治19年にお稲荷さんを祀るようになりましたので今は赤い鳥居が立っています。それ以来、明治19年ですから明徳山と呼ぶようになりました。それでこの上には、金比羅さんとお稲荷さんとそれから、そのヤンボシさんと三つの祠があります。
 それから先ほどお話ししました水道ですが、この山の中腹に貯水槽があってそこから馬見原町に配管していました。

■新八屋
岩永 ここは新八代屋の建物ですが、あの屋根の上にですね、4本の柱が残っています。昨日の資料にこの屋根の上の望楼を解体する時の写真が載っていたと思いますが、あの一番上にもうひとつ櫓があったのです。昔、馬見原にはこういう形式の家が4軒あったようですね。
秋本 そうすると4階になるわけですか。
岩永 そうです。この場合は4階になります。大体4畳半くらいの部屋でした。
秋本 屋根はどのような材料でしょうか。
岩永 瓦でしたね。セメント瓦は霜に弱いのです、凍りますので、それで今はこのように葺き替えてあります。建物のそのものは、総欅造りとなっています。そしてここに高札場があったらしいです。
 今から新八代に入りますが、官軍の本営跡は向かい側にあったそうですが、資料はここに残っております。
下記の説明を記録したいが(録音不詳)
・建物の構造の説明
・西郷札等の説明
・古文書の説明
・民具の説明

■本八代屋
  工藤誠一氏談
 新八代屋と本八代屋ですが、分家と本家の関係になります。家には、このようにいろいろな古い書付がありますが、馬見原は大体1680年頃から人が寄り始めたようです。1605年の秀吉の太閤検地で熊本の加藤清正が肥後藩を調べた時には馬見原は載っとりません。
 この川の先に荻原というところがありますが、あのへんから馬見原は栄えてきたということを聞いております。それで私の先祖が1680年頃から熊本の八代から来て、助十郎といいますが、それが来てある程度成功したのが1700年頃から興したといいます。そして1800年頃になると吉野家さんとか日向屋さん、質屋さん、新酒屋さんとか主なところはそんなところですが、造り酒屋があって明治から大正時代にかけてはえらい栄えておりました。
 昭和のはじめ頃になるとそういう大きな酒屋さんが無くなって私のところの八代屋だけが酒屋をしておりましたが、昭和16年の戦争の時、企業整理ということでやめ、29年にまた復活しております。その時、熊本県で二軒か三軒、最後の復活ということで復活しております。そのころ創めとった酒屋さんが一番儲かっておるわけです。酒がなくてですね。私のところが始めた時にはもう大手の卸屋さんができていて、最初の時は分けてくれということだったそうですけれども、そのあとご承知のとおりで、昭和56年に天頂という酒屋が山鹿にありますが、そこと一緒に造り酒屋を止めております。
 今日展示しておりますこの鎧兜は、昨日の会場で「赤心報国」ということを尋ねたのですが、それがここに書いてあります。西南の役ではここに佐々友房と辺見十郎太が泊まったとされています。遊撃隊の隊長でこの辺でだいぶ戦うております。えらい大男であったそうです。
 その後、鎮台というて官軍が馬見原に来ました。そのときの「御宿控」という文書が私のところに、ここに残っておりますので後で見てください。その時、昨日も鶏の話がでていますが、鶏がご馳走だったとでしょう、鶏が30羽と鯛が40匹とここに書いてあります。そういうのが何回か出てきます。それと陣笠は薩軍で頭が三角に尖っているものが、平卒、丸くて低いものが幹部のものだったようです。写真も大正時代のものが多くあります。

■龍専寺 片岡テイ氏(大正8年生)

片岡 今日は、あいにくの天気になりまして足元の悪い中、皆さん大変でございました。明治10年の西南戦争についてのお話しということですが記録したものは見当たりません。庭に「西南役薩軍病院跡」の碑が建っておりますが、これは江藤政光という人が建てられたのです。その時、ここが野戦病院であったかどうかを鹿児島の方に調べに行ったと言われました。病院というのは軍医がいないと病院とは言わんそうですね。軍医はなんという人か名前は分りませんが江藤政光さんが調べられたらここに軍医がいたということでした。だから確かにここは野戦病院だったということで、あすこに建ててあるように薩軍病院跡と書いても大丈夫ということで書き入れましたって言われました。
 庭の碑を建てらした後で、大分から「史跡めぐり」というツアーで17人位の方が熊本から宮崎を回っていますというて来られました。その時、私は庭に立って見ておりました。お茶を入れようかとしていたら女の人が寄って来られて、「私の大叔父になる人がここの軍医でした」とおっしゃいました。大分からということでしたが薩軍の方でしょうかね。そこまでは聞きませんでしたが、あの頃は軍医は薩軍だからとか官軍だからとかはあんまり考えていないのではないでしょうかねえ。そんなお話しだったような気がします。私もびっくりしました。まあこぎゃんご縁のあるもんかなあと思いました。本当にここに軍医さんがいて負傷兵を診られたということが確かなものだったということを私も確かにはっきりと思い、ご縁が深いものだなあと思ったことでした。
 その時のことは、私の前の前の坊守の時のことだもんだからよくわかりません。けれども話しは生々しく聞いてはおりました。重症の人が多かったそうです。それで血で畳を汚さんごとでしょうか、本堂の畳を全部上げて周りの壁に立てかけてですね。そして板張りの上にずらーっと頭を並べて寝せてあったそうです。こぎゃんまで怪我した人がおらったとじゃろうか、ていうて、婆ばさんがびっくりしたちゅうてからいいおんなはった。頭並べてからずらーっと寝せてあったということです。
 そして、朝来て見ればもう一人もおんなはらんと。だから夜中に運びおんなはったとでしょうね。それも今のように車もない時ですから大変だったろうと思いますね。夕方薄暗くなってから来てみると、またここに頭を並べてからずらーっと隙間もないように動けないような人ばっかりを寝せてあった、血だらけになってから。それで、明くる朝来てみるともう一人もおんなはらん。だから、夜の明けんうちに皆んな鹿児島の方に連れて行かれたんだろうて言うて、運びなはるのもさぞ大変だったろうちゅう話でした。傷の手当する時、水を汲んだりして手伝いなはったということです。
 それから帯屋という屋号の店がそこの先にあって、そこで炊き出しをしていて、ここの坊守たちも何日間か毎日手伝いに行きおんなはったということです。今の田町のところ、佐間野さんが使いおんなはる家のところです。そこに帯屋という二階建ての大きな建物があって薩軍がいたそうです。そこにおにぎりつくりに毎日出て行ったと婆ばさんが言うていました。薩軍という話しと帯屋という話しがよく出ていました。食べそこのうて出て行ったりする人もいて、もうおおごとしたったいというてから、とても大変だったそうです。
 本八(本八代屋のこと)も、おばあさん達のごきょうだい、新八(新八代屋のこと)のお父さん、岩永さんとこのお父さんやら、まだ本八におんなはった頃でしょうねえ。手伝いに一緒に行きおんなはったそうです。西郷さんはおいでんかったそうです。
 帯屋というのは、買いもんに来なはったら木綿針を一本づつ紙に針をさしてやりおんなはったそうです。「使ってくだはりまっせ」というて。その頃は、針がものすごう貴重品で、皆んな喜びおんなはったそうです。だから呉服屋さんのような店だったろうと思います。
 ここの寺の建物についてですが、先代の坊守は明治14年生まれでしたが、そのときはもうこの家は建っとったそうです。ですから100年以上は経っていると思います。そして、金沢大学の教授という人がいつか見に来らした時に、こらあ100年位のもんじゃなかですねえて、少なくとも250年は経っていますねえてからいわはりました。
 それから、お縁に叩き付けてある釘を見てから、これは鍛冶屋さんが一本一本手で作った釘を使ってあります。今の丸釘じゃなくて、だからそうとう古い釘を使ってあるのでとても古いということでした。わたしゃ、「がたがたして危ないので裏返してカンナかけて作り直そうと思いおります」というたら、「四角の釘はなかなか抜けません、それを抜くためにはものすごく板が傷みます」と言われました。けれど「四角の釘を使うてあるということは、それに値打ちがあるのでこのままにしておかにゃ、そぎやん扱うてはならんですバイ」と言われました。

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第1回 霧立越シンポジウム
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森シンポジウム
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2009.03.10〜