第10回・霧立越シンポジウム 西南戦役130年
「西郷さんの歩いた脊梁山地を探る」
③ 4月22日 沢津へ
小峰の薩軍無名戦士の墓
(沢津への途中、小峰に無名武士の墓があり、倉岡さんより説明がある。)
倉岡 ここに書いたものがありますので読み上げます。「明治10年、西南の役に破れた薩軍は、官軍の厳しい追跡を逃れ、当地に一泊、当地の住民によって手厚いもてなしを受けながら、数名ははかなく死亡、ここに埋葬されたと伝えられる。従来武士の墓として後世に捨てられているのは、厳しい官軍の追跡の目を避けるためのものであったろうと考えられる。生きていれば必ず御礼に来ると名残を惜しみつつ奈須往還を落ちていったという。しかし、遂にかれらの消息は聞かず、恐らく鹿児島まで帰ることもなく中途で倒れたものであろうか。以前は三基あったが道路改修のため一基のみ残る。」江口という屋号なんですが、現当主は倉岡清吾さんというて森林組合にお勤めですが、その「江口の母上が盆暮れには必ず線香、花を供え供養をしておられた。これも先祖の方々の教えであろうと思われる。」と書いた看板がここに建っておりました。それを書き写したものを読み上げたところです。
地区民 元は、この道路のところにありました。道路改良によって少しこっちに直したのです。この付近は全部畠だったです。このあたりに榎の大木があってその下に土饅頭といいますか塚があって、その上に仏石が一つあったとです。それがこの石です。花を上げた跡がありますが、西を向いております。当時は薩軍とは言わずに賊軍といっていたそうでございます。それで、私の父たちが話しをする時は賊が賊がというていたことを聞いております。立て札が腐れたからまた建てようかというておるところです。
寺崎 浜町からの日向往還は一切国道は通っておりません。さっきの男成からこっちの小峰の方に直接来ております。薩軍は、途中の梶原さんところで昼飯を食ったといわれておりますが、そこは今上ってきた三叉路の向こう側になります。矢部を出て、ここ辺で昼飯を食って沢津で一泊したと言うことになっております。
地区民 あのう、西郷さんが昼飯を食ったのはですね、梶原という集落です。今の渡辺峰雄さんところの上のとっぺんにもう一軒梶原さんという家がありまして、そこで見張りを兼ねてそこで昼食をとったと聞いております。あの丘のとっぺんですが、今は家はありません。
4月22日 沢津 緒方家
奈須昇氏の説明
奈須 どうもお疲れ様でございます。ここが西郷さんの一泊された緒方修一さんのお宅です。縁側に資料を展示してありますのでご覧頂きたいと思います。西郷さんの食事をされたお椀と杖があります。そこに座っておられる人がここの家の当主です。西郷さんを接待した人は、じいさんの「ともひさ」さんですかね。
緒方 「ともひさ」じいさんは、74歳で亡くなって今年で53年になるので120何年ですから、じいさんは西郷さんの来らった後に生まれとるです。ですからもう一つ前のじいさんで「りんたろう」ていいます。
奈須 今お聞きのように、当主の曾じいさんになる「りんたろう」さんという方が、西郷さんとご一緒にここで過されたということです。
質問某 過ごされたということは何日かお泊りになったということでしょうか。
奈須 あの、いろいろ都合がありまして、二日の予定だったですばってん一晩ということのようです。(ものは言いようですな 爆笑)
緒方 西郷さんは大きかったようで、あの鴨居をこぐって通ったといいます。
質問某 あのうすみません、西郷さんは持ち物が大きくて兎の皮でつくった袋をもってござったという話しがありますが、そういったことは聞かれていませんか。人物往来社が発行する歴史古今書に兎の皮で作った袋に入れて下げていたということが載っているのですよ。
緒方 いやあ、そういうことは、私は聞いておりませんが。(笑い)。それで西郷どんが泊まらした部屋が一番向うの部屋です。西郷さんは、そこの部屋から全然出てこられなかったという話を聞いております。共の人たちは、向こうの方に広い場所がありますが、そこで部落の人たちと遊んでおられたという話しもありますが、私はどうかなあと思いますが、もし、そうなれば何日も泊まられたのかなあと思いますけれども、まあ、そういうお話はございます。
質問某 このお家は古いですが、当時のままですか。
緒方 はい、これは当時のままです。もう150年くらい経っています。
質問某 陣笠があったということも聞いておりますが。
緒方 陣笠はあったんですけれども、私は都会に出て二十何年おりませんでしたから、お袋が他界して十何年になります。その内どうなったのか私にはわかりません。それからこの写真は西郷さんです。こちらは東郷平八郎、こちらの写真は乃木大将です。
奈須 ステッセル将軍と旅順講和をされた方ですね。明治天皇が亡くなられた時一緒に切腹して亡くなられた方です。
某 その原因の一つが西南の役で植木の入り口のところで軍旗を取られたからということを聞いております。植木町へ熊本から行く旧道ですが、そこに川原林少尉の戦死の記念碑が建っております。川原林少尉が護っていた軍旗を取られて乃木大将は、その時は大将ではありませんが、その近くで切腹しようかと考えたこともあるが、最終的に殉ぜられたのは、明治天皇が亡くなられた時で、軍旗を取られたことが原因だと言われております。
奈須 只今軍旗の説明をして頂いたのは大分から参加して頂いた松村さんです。ご紹介します。以上で緒方さん方のご案内を終わります。(拍手)