第6回・霧立越シンポジウム 日本上流文化圏会議1997 in 五ケ瀬
② 第一セッション 日本上流域からの挑戦
パネリスト
日本上流文化圏研究所から 下河辺淳さん 日本上流文化圏研究所理事長
日本上流文化圏研究所から 辻一幸さん 山梨県早川町長
若き北の上流文化圏から 逢坂誠二さん 北海道ニセコ町長
森の達人から 近藤庸平さん 長野県浪合村(赤土山開拓団)
九州の上流文化圏から 緒方英雄さん 大分県大山町(総合企画室)
コーディネーター
藤井経三郎さん 日本上流文化圏研究所所長
シンポジウム総合司会 鈴木輝隆氏
山梨県庁の鈴木です。これから、下河辺先生を囲みながら上流圏からのくにづくりについて話していただきたいと思います。
そもそも下河辺さんとは、十年ほど前にお会いしまして、それから毎年毎年お会いする度に感動するわけですが、その中で、地域から国を考えよう、もう一つのくにづくりを考えよう、ということで始めたわけです。
今日の話も、上流圏からのくにづくり、それからブナ帯からのくにづくりということで展開して行くわけですが、先日、下河辺先生の所に伺って打ち合わせたときに、こんなことを言われていました。「日本上流文化圏研究所の活動は、何か目標があってそこに進むのではなく、何かわけのわからないところに向かっていく。目標が見えていないのがいいですね。
人はすぐ、先行きが見えないと言いたがりますが、失敗して当たり前。成功・失敗よりもやりたいことをやる。それを継続してやることで蓄積が出てくる。それが一番じゃないでしょうか。続けていくことで何かが生まれます」と言われました。今日は、第一回。早稲田でやったときも第一回、早川の時も第一回、いつも初心の気持ちで進めていただきたいと思います。
それでは、下河辺さん、辻さん、逢坂さん、緒方さん、近藤さん、藤井さんをコーディネーターとして、一時一五分から、三時一五分までの二時間行います。タイシャ流の棒術などが途中で入りますが、休憩が入りませんので、適時用を足される方は抜けていただいて構いません。そのまま六時まで続きますので、できるだけ楽なスタイルで聴いていただければと思います。よろしくお願いいたします。
日本上流域からの挑戦
藤井 さっそく第一セッションを始めたいと思います。今回送られてきましたメモの中で、堅い会議ではなくて、アウトドアでもあるので、楽しくかつ奥深いというセッションにして欲しいという大変難しいご注文がありました。うまくこなせるかどうかわかりませんが、パネリストのみなさんのお力添えでやっていきたいと思います。
二時間ございますが、第一セッションの役割として考えてみたのですが、先ほどよりご紹介がありましたように、プレとかプロローグとか続いてきたわけですが、この宮崎では、今までの二つを受け継いでいきたいと思います。サブのテーマで、優れた知恵や汗という話が出ておりますので、そんなことを地域の遺伝子として育みながらつなげていきたい。ですから、前二回を深め、広げることを、この第一セッションで取り組んでみたいと思います。そして、この後の第二セッションのブナ帯文化につながっていければと思います。
今までの二回を総括しますと、大きなテーマというのは、やはり二○世紀文明の否定ではないか。これは、近代日本は江戸を捨てた明治維新がある、明治を捨てた昭和維新がある。今、平成維新という言葉も出ているようですが、歴史の大きな切り替えが始まっているような気がします。政治も社会も経済もそうです。ここでこうした会議を開くのもそういうことかと思います。戦後、日本は文化国家を目指してきました。しかし、実際のところは文明国家になり果てたという感じがあって、その反省からこの種の会議が開かれていると思います。 けれども、二○世紀文明を否定するだけでは終われませんで、新しいものを創造して行かなくてはいけない。文明から文化へという言葉も当てはまるかと思うのですが、二一世紀の文化を創造していくにはどうしたらよいのか、というのが与えられた大テーマかと思います。
いくつか論点があるかと思いますが、できれば三つくらいに集約できればと思っています。一つは「資源とか文化、価値観を上流圏から問い直そう」。そして、「人間が能力を失ってきたのではないか。心もしぼんできたのではないか。それをどう回復するか」ということ、機械化や情報化で人間の失ったものが大きいということ。そして「次をつくる教育、人材の作り方」。どの問題でも人材の問題に行き着きますが、次世代ということで教育の問題。その三つに集約して、うまくまとまればと思います。
前回の早川の会議にお出になった方はご記憶かと思いますが、セッション2を歴史未来談義として、十年間封印しました。記録は一切とらないということで。私も一生懸命体全体で聴きましたが、記憶力が悪いのか、その後の色々な人と話したりして内容が定かでなくなりました。あと九年間になりましたが、その時にどういうものであったのか楽しみにしたいのですが、今日は、みなさん、できればしっかりメモをとっていただく、録音もしていただく、そういう記録を基に、大いに活用していただければと思います。
最初にパネリストのみなさんを私の方からご紹介させていただきます。みなさん、さんづけにさせていただきます。
辻さんです。早川町の町長さんですが、先ほどもご紹介がありましたように、日本の中央部、フォッサマグナのただ中で大変エネルギーの溢れたところの、山梨県下随一の、エネルギー溢れた町長さんです。日本上流文化圏構想や日本上流文化圏研究所もつくられています。下河辺さんからは、早く町長を辞めて、理事長になれというご命言がでておりますので、近々理事長になられるのかも知れません。
近藤さんです。長野県の浪合村、早川町の西隣になるのでしょうか。人口七八○人の村です。本業は赤土山開拓団ということで、林業・農業をやっていらっしゃる。アルバイトに浪合村の役場に勤めていらっしゃるという。林業を産業としてではなく、生活文化としてとらえて、都市と対等に交流していきたいという哲学を持って、全国を歩いていらっしゃる。先日も、山の木を一本切り倒す毎に一万五千円ずつもらうという目から鱗が落ちるようなお話が出ました。そういう大地から生えてきたような方です。今日はぜひそうした話も伺いたいと思っています。
逢坂さんです。大変有名な北海道ニセコ町の町長さんです。三六歳で、日本最年少の町長におなりになったのですが、若いということで話題になったのですが、先日ニセコ町におじゃましてお話を伺ったところ、若いだけではなくて、本当にいい仕事をなさっています。地域からの革命ということを私も思い切って書いたのですが、そうしたことを首長のレベル、行政のレベルで、自治体とはなにかということを突き詰めてやっていらっしゃると思います。
緒方さんです。お隣ということですが、ここに来るのにやはり三時間かかったということです。大分県大山町の総合計画室長です。私は現場主義で、こういう時にも少しは現場に伺って少しは現場を知って上で出席するのですが、大山町については素通りしただけで本当に何も存じ上げません。今日は、ぜひ教えていただこうと思いますが、筑後川の源流にあたるわけです。今、大分を向くのではなく、むしろ福岡を見て、大山町のくにを考えていこうということで、色々な提案をなさったり実践されたりしています。
最後に、みなさんご存じの下河辺さんです。中国の問題にしろ、沖縄の問題にしろ、神戸の問題にしろ、国レベルのプロジェクトのリーダーとしてご活躍中です。国土審議会で国土計画にも取り組まれています。今日も、そうした高い視点から、この前も「千年と宇宙」という非常に良いキーワードをいただきましたが、そのように上流文化圏を高見から見てご助言いただいたり、お話を伺えればと思っています。
私は、コーディネーター役を務めさせていただきますが、上流文化圏研究所についてもお手伝いをしたのですが、都市に住んでいますので、どうしても犬の遠吠えのような所がありますし、今日も借りてきた猫のような存在かとも思いますが、私の住んでいるところでも下流圏ではありますが、環境問題も含めて色々な挑戦が始まっています。動き出した上流圏に対して、そうした下流圏の話についても、時間があれば少し報告させていただければと思います。
それでは、第一ラウンドですが、辻さん、近藤さんの方から、深めるということで、日本上流文化圏研究所の一年、そしてフォッサマグナの叫びという前回のテーマがどこまで届いたのかということを含めて、口火を切っていただければと思います。
辻 山梨県早川の町長です。先ほどからお話にでている日本上流文化圏研究所を去年の四月からスタートさせた町であります。この度の、五ヶ瀬のシンポジウムでは、地元の霧立越の歴史と自然を考える会の皆さん、株式会社やまめの里の秋本さん、そして五ヶ瀬の町のみなさんには大変ご苦労いただき、お世話になりますことを感謝申し上げます。
さて、早川町と申しましても、日本には三二○○の町がありますので、みなさんどんなところなのかとお思いだと思います。日本列島を駿河湾から新潟県糸魚川にかけて、静岡糸魚川地質構造線というもの、フォッサマグナが走っているわけですが、その線上には日本の屋根といわれる日本海側には北アルプス、長野県には中央アルプス、そして太平洋側に向かって南アルプスの山々が連なっているという構造になっています。私たちの地域は、南アルプスのまっただ中にあって、山梨県と静岡県と長野県の県境に位置するような所です。
町とは名ばかりで、南アルプスを源流とする日本三大急流の一つ富士川の支流に早川という六○キロほどの川がございますが、その川沿いに昭和三一年まで、六つの村がありましたが、戦後の町村合併で一つになって、人口八千人ほどでありましたので、早川という川の名前をとって早川町となりました。全くの山村でありますし、町とは名ばかりで、町の機能は全くないような地域であります。当初の人口は八千人でありましたが、この前の国勢調査では二千人を割ってしまいました。これは、山村の宿命である過疎化現象ということになるわけですが、早川なりの事情もあって急激な過疎で今日に至っているというわけです。
日本全国の上流域を考えてみますと、我々と同じような宿命を背負っておられるわけですが、この辺で、我々の住んでいる足元をもう一度見直そうじゃないかということが、平成六年からスタートいたしました町の長期計画である上流文化圏構想につながり、その事業の一つとして、日本上流文化圏研究所をつくりました。ただ町や村が個々にハードの取り組みで過疎を何とかしていこうというもがきよりも、むしろ新しい視点に立って全国の地域と連帯したり、情報交換をしながら、自分たちの暮らしや生き方を、新しい時代に向かって確立していく必要があるのではないかということが、日本上流文化圏構想であり、日本上流文化圏研究所につながってきたということです。
長期計画はすでに、平成六年からスタートしているわけですが、とにかく今までの高度成長の中でのものを見つめながら、自分たちの地域がどうなってきたのか、あるいは、これから先どうなっていくのかということを、冷静に見つめていく必要があるのではないか。ただ、人が減っていく、地域が過疎になっていく、高齢化していく、暗い話ばかりでなく、そういう流れの中で、どういう風に、地域を守り、地域に残っている人たちが、暮らしを確立しながら、頑張っていけるのかということが、これからのテーマではないかと思います。
最近、批判されていますが、地方は自主財源がありませんので、国からたくさんお金をもらって、ものづくりの中で地方が過疎を乗り越え、活性化をしていこうということがこれまでだったわけですが、果たしてそれだけで、我々上流域や山村、過疎地が生きていけるのか、それだけで満足していられるのか考えたときには、決してそうではない。もっと奥の深い、人間的なものを追究していける機関なり、話し合いなり、連帯が必要ではないだろうかと考えて、日本上流文化圏研究所を設立したわけです。
おかげさまで、昨年八月には、フォッサマグナの叫びのシンポジウムも、今日お集まりのみなさまのご参加も得ながら成功を収め、研究所も、研究員一人と役場のスタッフが三名、そして早稲田大学後藤研究室と山梨学院大学の協力を得ながら、山間過疎地の様々な問題を掘り下げようとスタートしております。
そうした個々の取り組みをしておりますが、一番思うことは、やはり、地域に住んでいる住民がそのことによって、自分たちの地域意識といいますか、そうしたものに少しずつ目覚めているような雰囲気がありますし、各階層のみなさんが、それに向かって、共感の意識がでてきたということ。そして、全国に向かっての情報発信基地を目指しておりますが、この生き方に賛同し、関心を持ってくれる自治体も増えておりますし、なお、こうして日本全国のみなさんが共鳴し、声援を送ってくれている、色々な点で、上流圏の考え方にアドバイスもしてくれますし、地域づくりの提案もしてくれるようになっています。
決して、今日明日に結論を得るようなことではありませんけれども、やはり、こういう声を一つの山村から日本全国に向かって発信していきながら、何か得るものが欲しいと思います。そうしたことがきっかけで今回のシンポジウムにもつながってきたわけであります。
私どもの研究所としては、毎年、こうしたことを行いたい、日本の上流圏のどこかで声をあげていただき、そこに人が集まり、勇気づいたり、新しい生き方を求めていきたいと思っています。なお、研究所は去年のスタートでありますので、やりたいことは色々あるのですが、気長に日本全国の山村のみなさんの拠り所になっていければ、些細な町ではありますが、その使命が果たせるのではないかと考えています。
また、山梨では、こういうことが発端となりまして、地域連携というものも、我々も提案者となって組織づくりを進めていますが、静岡県の清水から富士川流域にかけて、そして、県境を飛び越えて隣の長野県から小諸までの一帯を中部西関東連携軸ということで、市町村の連携の強化を進めています。静岡、山梨、長野の流域で、これからは、自分たちの歴史や文化をつくってきた流域の文化を見直そうという時代に来ているのではないかということでの情報発信を進めています。関係の六○近い市町村が、地域連携の運動として取り組んでいます。とりあえず、そんなところです。
藤井 ありがとうございます。今のお話のように、全国いくつかで既に連携軸の試みがなされていますが、早川中心の地域が富士川連携の中で核になりつつあると私も考えています。私も、日本上流文化圏研究所も、まずは住んでいらっしゃる人の意識を変えてきているなという印象を持ちます。
私がいつも言っているのは、埋蔵文化財がどこの地域にも眠っていますが、埋蔵文化人というのも相当眠っておりまして、早川のその後の一年の記録を拝見したり話を聞いたりしておりますと、高齢者の方や中学生や子供たちが自分の地域を大いに見いだして汗をかき始めていることを感じます。 次に近藤さんにお願いいたします。現場で汗をかいて活躍されているので、迫力のあるお話を聴かせていただけると思うのですが、浪合の様子もさることながら、全国の上流の様子がどのようになっているのかを含めて、お話をいただければと思います。
近藤 浪合村は長野県の南で、静岡県、愛知県の県境近くのちっぽけな村です。先ほど、秋本さんから五ヶ瀬の紹介があったわけですが、勝ったなというのは、標高だけです。僕が住んでいるところは標高九五○メートルです。昨日の朝五時半に車で出発したのですが、出るときには二センチくらい雪が積もっていました。ずーっと走って、今朝六時半に五ヶ瀬に着きました。殆ど寝ていないので呆ています。
言いたいことをまとめていたのですが、どうも町長さんの話を聞いているうちに忘れてしまいましたが、今ふと我に返って思い出したのですが、去年この会議で、十年封印するという話を聞いていたのでこれは何をしゃべってもいいなと思ってついうっかり本音を喋ってしまいました。それがよく見たら、「本業としての赤土山開拓団と、アルバイトとしての役場の活動」としっかり記録されていました。
三ヶ月ほど前、うちの村の勉強好きの村会議員と村長さんが早川町に行って、それが活字になっているのを発見しまして、帰ってくるや否や大問題になりまして、「お前、アルバイトで役場に行っているんだってな」と言われて。早川の上流文化圏研究所で「赤土山開拓団だけでは食えないので役場に行っています」というのを読んだらしいのです。フリーターが役場の課長をやってたのではまずい、という話になりまして、今はニコニコして話していますが、実は相当ひきつっていました。(笑い)
村は、長野県でも二、三番目に人口の少ない七八○人の村です。高齢化率は、警察官と学校の先生と、観光開発できている若い一人暮らしの世帯も含めて三一%です。原住民というか、もともと住んでいた村民だけだと四○%は越えているかなと考えています。うちの村もここと同じように、宿駅として物流の拠点として村が開けて、その後、国道が通ったり、鉄道が通ったりで、その機能がなくなった。
村の人たちがはじめにそこに住み着いたときは、旅人なり物流の需要の求めに応じて暮らす暮らし向きがあったわけですけれども、様々な交通の変化などで、なかなか住めないということで、ここと同じで昭和四○年から観光に活路を見いだして頑張ってきました。それも、随分頑張ったのですが、ふるさと創生という言葉や、リゾート法案が出てきて色んな所で観光開発が行われるようになった時代に、うちの村はそれを見てニタッと笑っていました。
実はうちの村は、リゾート法ができる二六年くらい前に、みんなが取り組んだのと同じことをやってきていたのです。そのプランが破綻して、「何か考えなきゃならんね」と言っていたところにみなが同じことをやりだしたというのでニタッと笑ったのです。
その後のうちの村の取り組みは、そうした経済を地域の中に成立させていこうということから、村民が自ら積極的に取り組むことで観光開発を進めてきました。爆発的に開発は進みませんが、自分たちが主人公であり、自分たちの出番がある。山の中でも暮らせるじゃないかという土地利用計画を進めてきたわけですが、言葉を換えるならば、「人は薄情ではないが、時代は薄情だね」と、時代はどんどん価値観を変え、お金、公害、きれい汚い、三K四K、お金より時間。最後はもはや哲学みたいな話に、地域の価値観がなってしまっている。
そこに至っては、観光一辺倒のむらづくりはやっていけないということで、六○年代を境に、うちの村は、観光立村という経済を成立させることが村を存続させるということから、教育や文化や福祉や環境と言ったことを大切にするむらづくりをしようねということで今は取り組んでいます。
その中で、具現化されたものは、教育施設である学校。観光開発をやる前までは、村民の殆どが農林業だったわけで、食えないということが非常に大事であるし、食えない理由がみな共通であったということで、観光を一気に進めてきたわけですが、それが時代の価値観と共にやっていけなくなった。
むらづくりの方向を、一つは付加価値、人で言えば人格みたいなものに求めようと言うことと、もう一つは、村民が多様な生活をし始めているということがあって、観光だけでも駄目で、共通項として教育とか福祉とか文化とかを含めて付加価値化を図るむらづくりをしようということで、その拠点となります村に一つしかない教育文化施設である学校を整備しようということでした。それも明治時代に村民が作り上げた学校みたいに、自分たちで知恵も力もみな出して、学校の先生の給料も自分たちで出すという時代が持っていた学校の求心力を取り戻そうじゃないかということで始めました。
その後、農政の部分ではその理念を、農業の現場に活かしたトンキラ農園であるとか、今は文化という立場で庁舎の建築を進めながら、村の核になる中核をつくりあげていこうと。今まで自分たちが生きるためにやってきたことは、外に向けての顔なのです。浪合村はスキー場が二つもあったり、別荘団地があったりしますということでやってきたわけですが、自分たちがそこに住む積極的な理由はなんだろうと考えたときに、それが特にメジャーであるわけでも、自分たちの誇りにしているわけでもない。自分たちがそこに住む理由が何であるか、という内向けの顔の拠点として、疲弊して貧しくなった村の中心部の再開発をやり続けています。
役場の職員としては、そういうことを一生懸命やっているということと、もう一つは、そういうこともいいのですが、そういう価値観もやがて破綻するわけで、そういった時代に山でどうやって生きていったらいいかということで、開拓団ということを九四年からやっています。団員は僕一人。最高顧問は最近病気がちで、あとは最低顧問がいます。入団テストが厳しいので、なかなかパスするやつがいなくて増えませんけれども、本格的に山に入って、木を切り倒したりしながら頑張っています。
何とか、山の中でこうやって生きていったらいいんじゃないかという原理原則と、それを支える理念みたいなものが見えてきたかなと。もう少し確立できたら、もう一つ村の中で何かしでかして、その後は静かに余生を送ろうか、と最近そんなことを思っています。
藤井 先ほど封印の話をしましたが、それは大いに漏れているわけです。今日は、記録に残りますので慎重に、実は思い切ったお話をいただければと思います。お話の中で出てきた新しい施設は縁ばなという愛称がついているのですが、これは縁側の方言だろうと思うのですが、もう一つの自分の家というコンセプトです。それも面白いので、そのことについても後でお話いただければと思います。
今、大事なキーワードで村民自ら考え、自ら行うということを基本にしようというお話がありました。これを逢坂さんのお話につなげたいと思います。逢坂さんのところにお伺いして、自治というものを元から考え直して、いわばその革命をやっていらっしゃると思いました。たとえば、庁舎の窓口の作り方、予算の概算書を見ると驚くようなことをやっていらっしゃいます。そのあたりのことからお願いいたします。
逢坂 北海道のニセコから来ました逢坂と申します。私がここに来たのは、山梨県庁の鈴木さんから面白いから遊びにおいでよと言われまして、ちょうど休みだからいいかなと思ってきたので、こういう場になるとは予想していませんでした。
私は、今、こういう仕事をしておりますが、バックボーンをお話しさせていただきますと、公務員に対しては非常に否定的な考えをずっと持っておりました。公務員にだけはなりたくないと思っておりました。ここにも、公務員の方がたくさんいらっしゃると思うのですが、近藤さんがアルバイトで公務員をされていると・・・あんまり言っちゃまずいですか?(笑い)。
私は、アルバイトでというほど能力が高くなかったので、どっぷり公務員につかっていたんですが、当時は三分刈りで、どっかのヤクザみたいな顔をして仕事をしていましたが、公務員というものに対して懐疑的な気持ちはずっと持ち続けていました。たとえば、黒沢明の「生きる」という映画があります。古い、一九五二年の、四五年ほど前の映画ですが、あの中に描かれている公務員の姿と今の公務員の姿が全く一緒だということなのです。一緒だということは大変なことでありまして、あの時代と今の時代の公務員が全く変わっていないのは驚くべきことかな、と思いました。
もう一つは、先ほどちらりと話が出ました、ふるさと創生一億円の時に、全国三三○○の自治体がありますけれども、色々な一億の使い方をしました。私が気になったのは、どうやってその使い方を決めたかということです。
これは、まさに、三三○○通りありまして、レベルが高い低いという言い方は適切でないかもしれませんが、上意下達で決めたところ、色々話し合ったけれども決められなかったところ、市民参加できちんと決められたところ、色々あったけれども、とにかく随分日本の自治体には差があるんだということに気がつきました。こんなことでいいのかと思いました。同じ一億というお金をもらって、役所の職員の能力や地域に備わったシステムの差によって、もたらす便益の差が随分あるということを強く感じました。
それで、このまま、のんべんだらりと公務員をやっていてもまずいという思いを大変強くしたのが平成元年くらいでありました。そんなことで、今度は少しギアを入れ替えて仕事をし出した。そのなれの果てが、平成六年に、たまたま選挙がありまして、出ることになって、今こういうことになっているわけです。
ニセコ町の話を少しさせていただきます。ニセコ町は現在人口四六○○人。ピーク時は昭和三○年代に九○○○人くらいおりまして、約半分になった過疎の町です。農業と観光を中心にしております。農業に関しましては、昭和三○年代までは、農業中心だったわけですが、どんどん衰退していくことが、当時の先輩たちも予想がついていたのでしょう。狩太という町の名前をニセコというカタカナ三文字に変えまして、観光に少しシフトしていこうということで、農業と観光二本立ての町になりました。
そうしたところが、農業もじり貧、観光もじり貧という感がありましたが、幸い、観光に関しては、アンヌプリという山を中心にしたニセコ山系に七つのスキー場がございまして、そこを訪れるお客様が現在三五○万人くらいいらっしゃいますので、それで何とか町の形をなしているという調子でございます。
私が感じるのは、せっかくお客さんがいらっしゃる、あるいは古くからの農業がある。しかし、それが決して地域の人たちの血となり肉となっていないなという感じを持ちました。先ほど近藤さんもおっしゃいましたように、私の最終目標も、町民自らが考え、行動するような仕組みづくりをしたいということであります。そういう中で、ニセコが本当に住んでいて良かったと思える地域なのかどうか、あるいは、また三五○万も人が来るのに、自分たちがその地域を愛でているか、愛しているか、ということを、自らにもう一度問い直してみようというようなことを考えて仕事をしています。
先ほど藤井さんからお話のあったようなことを色々やっているわけですが、まず、自ら考え自ら行動することの基礎は情報の共有であろうという観点に立ちまして、役所の中の色々な情報をオープンにするということをやっています。それは、二○年ほど前から言われております、いわゆる情報公開ということではなくて、それを一歩進めまして、情報共有ということでいきたいなと。それで、予算の概要や町の仕事を決めるやり方ですとか、そういったところもオープンにしています。
その一つが、先ほどの予算の概要書です。と申しますのは、役所の職員が予算書を見ても、どんな仕事をやるのかわからない、自分の係の仕事はわかっても、隣の課に移ると予算書を見ても仕事がわからないといったことがあります。そんなことから、町民と情報を共有するための仕組みづくりをしたいという思いでやっております。
それから、また、役所の窓口ですが、黒沢明の「生きる」ではございませんが、みなさんが役所にいらっしゃる時に、たらい回しにされるということがあります。それを少しでも無くしたいということで、町民総合窓口課というのをつくっております。仕事はカウンターの中で、役所の中で回せば良い、町民の方を回す必要はないという発想で進めています。しかしながら、どれもこれも始めたばかりでございまして、どうなるかなといったところです。
今日、ここへ来まして強く感じましたのは、北海道に暮らしていると、こういう所、こういう雰囲気の所がないんですね。ないからどうこうということではないのですが、緑があったり青い空があったりなんとなく落ち着きます。多分、みなさんが北海道にいらっしゃれば、北海道の風景の中で落ち着くのだと思うのですが、こういうものは、我々が生きていく上で、どうしても欠くことのできないものだという印象を強く持ちました。 私が東京に出張して、北海道に帰ってきてまず思うのは、空気に澱みがないということです。空気が層になっていないということ。そういうことが、これから生きていく上で、絶対に必要になるなと思っています。
藤井 先ほど、逢坂さんと一緒に境内の石段を登りながら、こういうお宮があったりという深みのある風土が北海道にはないとおっしゃっていたのが印象的でした。今、話に出た町民窓口課というのは、課長が一番前に座っていらっしゃいます。我々が行くと、課長がまず対応してくれて、役所の中のことをすべて聞けるようになっています。普通でしたら、課長は一番奥で、若い方が前にいらっしゃいますが、全く逆の姿になっていて、非常に新鮮な印象を受けました。
同じように大山町の役場にいらっしゃる緒方さんですが、私たちは一村一品として大変話題になった町として知っていますが、今お聞きしますと、もう一村一品ではなくて、一村百品など、色々な取り組みをされていますし、流域ということを含めてもう一度大山町を見直していこうということをなさっていますので、そうしたお話をお願いいたします。
緒方 今日ここにでてきているメンバーの中で一番いい加減な男かなと思っています。来てみてつくづく思ったのですが、この会議にでてこいという文書が届いていたのに殆ど見ていないし、一一月の二七日だと思っていて、まだ時間があると思っていたら、日程が変更されていたことを知って、ばたばたと出てきました。
先ほどから、公務員の話がでてきましたが、もし僕らを公務員という言い方をするならば、公務員の公の字の代わりに荒れるという字を書いた方がいいのではないかという感じさえ持っています。気になる話がいくつか出ているのですが、うちの話を当てはめてお話ししたいと思います。 一つは、ふるさと創生の一億円は、全国で本当に色々な使われ方をしました。うちの町でも、どういう使い方をするかというので色々考えましたが、町長や議会議員で決めてしまった面もありますが、一つの使われ方ではありませんでした。
町には、テレビ局がありまして、町づくりに情熱を持っている人やおしゃべりのうまい人を六人くらい集めて、スタジオで「何に使うか一億円」を話してもらいました。それが一方的に送られるだけでは面白くないのですが、その意見を聴きながらアイデアを持ったり、意見を持ったことがあれば、電話でお返し下さいという番組を二時間やったのです。
ご多分に漏れず、人口四二○○人の小さな町、世帯数で一○○○ちょっとなのですが、二時間の間に一一八人方から色んな意見が寄せられました。役所で電話を受け付けているのは役所の課長さんです。課長になる年齢というのが高いものですから、どちらかというと頭ががちがちになった連中です。
その中で、あるおばあちゃんから、一つの電話がかかってきました。先ほど一村百品という話が出ましたし、猫の目農政等ということが言われますが、うちの町ほど、この三○年の間に色んな産品を作ってきた町というのは、全国でも珍しいのではないかと思われるほどです。
そのおばあさんと言っても六○くらいの人ですが、「私がこの町に嫁いできたときには、この町は梅栗運動をやっていた。そこで、梅栗を一生懸命やってきた。ところが、今の町の農業は何だ。梅はだめだからキノコをやろうとか、ブラッサムをやろうとか、ハーブをやりなさいとか、次から次に変わる。梅栗に情熱を燃やした私としては残念でならない。だめになったものにも、もう少し光を当てる努力を町はするべきではないか。」そして、その方は嫁いできたときにお母さんから梅干しの漬け方を習って、地域で名うての梅干しの漬け手になっているのですが、「ついては、梅干しのコンクールをやって欲しい」という話でした。
ところが、余所は金塊を買うとか、マスコミに華々しく色々なアイデアを披露していましたので、その電話を受けた担当課長が何と言ったかというと、「梅の産地で、たかが梅干しの話じゃないか。こういうのは、ふるさと創生には似合わない」というので、メモは残しているんですが、テレビにも出さずに、削り落としてしまったのです。そのままでしたら潰れてしまったのですが、何かいいアイデアがないかと必死で探している企画の連中が、メモをもう一回取りに来て、梅干しというのに目を付けたのです。
ですから、色んな人の目に触れさせれば、中には必ず目利きの人がいるんじゃないか。「この梅干しというのは面白い。うちの町の新しい産業づくりの原点になるのではないか」というので脚光を浴びさせようと、「全国のおばあちゃんの梅干しを大山に集めよう。集めることによって新しい品種も見つかる。梅の加工方法もでてくる。マスコミが騒いでくれれば梅干しの消費拡大にもつながるだろう」というので、どこかの民放テレビででも取り上げてくれないかと、「梅干し婆さん大集合」というアイデアにまとめました。
確か、三位まではハワイ旅行ご招待というのを付けました。かなり騒いでくれて、全国から梅干しがどんどん集まりました。しかし、この大会をやるまで、実は、やろうという話になるまで、滅茶苦茶に時間がかかっているのです。町の人の意識というのは「たかが梅干し」なのです。攻め方出てこない。 ある時、国土庁がアイデアコンペをやっているという話を聞いて、それに送ったのです。なんと、国土長官賞になりまして、そのおばあさんが新聞に写真入りで登場するわけです。週刊誌にも書かれました。そうすると、中味は全然変わっていないのに、町の人たち、役場の課長連中も、「確かにこれは俺もいいアイデアだと思っていた」と言い出して、やれやれという話になったのです。
最初の大会で、うちの町の梅干しは、無残なほど、審査員から無茶苦茶な評価をされました。「梅の産地がこんな梅干しをつくっていいのか」と。みんな意識の中で、「たかが梅干し」と思っていたのです。落ちてきた梅を加工すればいい、病気になった梅を加工すればいい、それを自分たちが食べればいいと思っていたのです。
先ほどから、農村の文化という話がでていましたが、かつては、そこで穫れた一番いい物は自分たちが食べて、残ったものを売りに出していたと思うのです。ところが、今は、一番良いものは一番高く売れる東京。次は大阪、福岡。お金になるからという発想が非常に強くなってきました。 そういう中で、最初の時に、六○○点近い梅干しが集まってきたのですが、梅干しを見て、町の人はびっくりしました。「梅干しがこんなにきれいなものなのか」と。これは勉強せんといかんと。
それから、四年経って、第二回の梅干しコンクールがありました。最初の予選で上位三○点を選んだのですが、そのうちの一八点にうちの町の梅干しが入りました。その時に町長が慌てて、「第二回の大会で大山から日本一がでれば、お手盛りの大会というので第三回目以降続かんのではないか」というので審査委員長に「大山町を日本一にしないでくれ」と頼んだのですが、審査委員長がひどく怒って、良いものは良いと日本一にしてしまいました。
すると、日本一のすごさというのにはびっくりしました。次の日から、何も言わないのにどんどん電話がかかってくるのです。今、二五軒の農家が今までは農協に出荷していたものを、保健所の許可をもらって自分たちで梅干しにして出しています。納屋産業ですから、農林水産省の補助金をもらって仰々しくやる必要もないわけなのです。
私はこのことから、農村には農村らしい、身の丈にあった、そういう産業づくりができるのではないか、ということ、もう一つは、補助金だ何だでつらなくても、そうした、ものを考える場や何かを与えてやれば、農家の人たちは判断できる形になってきているということを目の当たりに見ました。これからの施策の展開は、従来のものとは違った方向で進めなくてはいけないのではないか、という思いを強くしました。
大山町といいますと一村一品で有名で、口の悪い人は地域おこしの古典だというような話もされています。確かに、元気があるかといわれれば、昔のような元気はないと思います。それは、一つには、若者が非常に少なくなってきたということです。
たとえば、今から二○年前、大分の中にも若者の中で農業をやる後継者というのが結構たくさんいました。そのステイタスというのは、金を持つ、家を持つ、車を持つということで、農業でもそれができれば、若者はどんどん残ってくれた。それが、しばらく続きましたが、長野にスキーに行く、北海道まで足を伸ばす、世界何カ国を旅行した、ゴルフができるといったことが、農山村でもできれば若者は残るという時代になりました。
それが、この四、五年、変わってきました。金があっても、金があればそういうことができるわけですが、若者は残らなくなった。「もしかしたら、俺はもっと違うことがやれるんじゃないか」とか、「挑戦したい」という夢をかなり持ってき始めたといいますか。それに比べると町の中の職種というのは、非常に限られていて、役場、農協、農業の他に殆どないのです。そのことを考えたときに、少し産業構造そのものへの見方を変えていかなくてはならないのかという思いを強くしました。
近藤さんから先ほど、観光という話がでましたが、うちの町の色んな数字が出ていますが、その中で、大分県のシェアということで見たら、一番極端に低い数字が観光なのです。しかも、お客さんのうちの町での消費額は、大分県のシェアでいうと、○・○八六という非常に低い数値なのです。それは、努力をしていなかったということでもありましょうが、少しものをうまく作れるようになったのを外に出して売っている。そこで生活をしているということと、産地ということを結びつけたい。もっと町の中に色んな人が入り込んできて、そこで、秋本さんのところのように、穫れた食材を使ってというような話もあっていいのではないかということを強く思いました。
なんせ、後発なので、後発には後発の利というものがあるのではないかという気がしております。今、一生懸命、そのことをやっています。 もう一つは、高速道路が隣の日田市までつながりました。かつて梅栗運動を始めた昭和三○年代は、うちの役所に来るまで、遠い集落は一時間かかりました。今、一時間というと、福岡の天神なのです。それから見たときに、何もかも一つの町で完結するといことを追い求めることはないのではないかということです。一時間で行けるのであれば、福岡とうまく機能分担する話というのがいくらでもできるのではないか。ところが、一つの県域を飛び越えていくので、県サイドというのはなかなか難しい。
今、ちょうど福岡は水が不足しています。福岡の水不足は非常に深刻で、たとえば、ユニバーシアード前に、二九五日間、節水を呼びかけたのです。福岡市民が二九五日間で節水した量がどれくらいかというと、二二○○万トン。ちょうど、うちで作る水瓶の量と同じくらいの量なのです。ところが、市民には水を我慢してもらって、福岡市には水道料金が入ってこないわけです。すると、水道会計に穴が空くので、一般会計から税で補填する。そのお金が、なんと八四億円。だったら、もっとうまく、そういうお金をうまく使いながら、お互いに命の元に関わることなので、うまくやれる方法があるんじゃないか、というので、大分県にもお願いして、話があまり県経由でいかないで、ダイレクトに話した方がわかりやすいというので、福岡市とダイレクトに色んな話し合いをやっています。その結果、面白い展開が色々でてきています。
実は、福岡市の生涯学習の中で、福岡市民が一番思っていること、欲求水準が高いものは何かというと、健康なのです。それから、自然だとか安全。そういうものに対する欲求水準が滅茶苦茶高い。それと、農山村をうまくつなげることができないか。どうぞ大山にいらっしゃいよ、という話をする前に、福岡に出かけていってそんな話をやろう、そのためには福岡に出城がどうしても必要だというわけで、福岡のマリナタウンという所に、大山生活領事館イン福岡という、福岡で何番目かの領事館を、今作っています。
この前から、領事をうちの町でやれそうなヤツがいないというので、マスコミに書いてもらったのです。二ヶ月間の間に八六人応募があり、今、五人に絞って、一三日に面接をして決めます。そこを出城にして、面白い展開をまた、考えていきたいと思っています。
藤井 大変具体的で、身の回りの資源を活かす話や、それにどう新しい光を当てたらいいかという話をいただきました。緒方さんが、最初に公務員は荒々しいという字を書いた方がいいのではないかとおっしゃいましたが、下河辺さんは、日頃、私は荒っぽい仕事をやっているとおっしゃっていますし、公務員のトップをなさったわけですからお話をいただこうと思いますが、梅干しコンクールは下河辺さんがいらした時ですか?
そんなことから、今の公務員は決して悪くはないよというところも含めてですが、下河辺さんには第二セッションにも出ていただきますし、最後の総括もしていただきますので、前半では話さなくて構わないというお話でしたが、お願いします。
下河辺 ふるさと創生の話をしたら、ちょっとつながっていくかと思うんです。竹下さんが総理大臣になるためには、ふるさと創生というのを全国民に訴えて、そのエネルギーで総理になりたいと言ったのです。だから、論文としては、かなり点数が高かったのです。だから、実施しようと思ったら行き詰まったのです。そして、私が一市町村一○億円というのを出して、竹下さんがそれをまとめればそうなったはずなのですが、なんで一市町村一○億円と言ったかというと、三三○○で三兆三○○○億になるので、その時の日本経済のテコ入れには三兆三○○○億必要と言われていたのを、総理が、全部ふるさと創生に投資したらどうか、とういう意味もあって言ったのです。
そうしたら、大蔵省から返事がありまして、一市町村三○○万円でやりたいと言ってきて、竹下さんが驚いて、私を呼んで、大蔵省は三○○万だそうだと言うので、私は、「それなら、総理は絶対断れ」と言ったら、総理も三○○万じゃ政治にならないと言いました。その時に、今まで官房長官をやっていた梶山さんが自治大臣になったわけです。親分がこれじゃ大変というわけで、自治省で出来る範囲で何かできないか、という時に、一○億円を一億円にすれば自治省でやれるとなって、竹下さんもそれでいいとなって、動いたのです。
その時の、梶山さんの考え方というのは、非常に今考えても良かったと思うのは、この一億円を首長にあげる、という発想だったのです。だから、住民に聞かないと、なんていうことはあまり考えなかったのです。選挙をやる首長というのは、自分のやりたいことがあるから選挙に出ているんじゃないの、と。だから、公約を実行するための一億円で、芸者をあげて飲んじゃっても良いとさえ、言ったんですね。そして、三三○○の市町村長のうちで、公約でもって、自分のやりたいことをやるといった方は一割もいなかったのです。あとは、全部みんなに意見を聞いちゃって、聞けば聞くほど何やっていいかわからなくて、いい加減な使い方になったというのが結果なんですね。
そういうことであった時に、竹下総理と我々が現実に議論していたのは、首長がここで地域の自主性を主張してくれたら、補助金制度をやめる動機にしようというのが、竹下さんの発想だったのです。だけど、それは見事に駄目と。日本は地方の主体性はないと。ひどい市町村長になると、予算要求の陳情書を一億円でつくった人もいるんです。こんなのどうしようもないというので、私はそれ以来、地域主義とか、地方主体というのを信じないんです。これから、どうやってつくるかがテーマで、そのために、今日のような会議が一つの動機にならないかと思っているのです。
そういう経験をしたので、公務員というものには、本音では挫折感がとても強いんですね。私が公務員の時は、私がいないと国家が駄目と信じてやっていたような。乱暴だからさっきおっしゃっていた荒い荒務員と言っていただいてもいいかもしれない。しかし、今は、みんなやさしい人たちですよ。みんなの意見を聞かなかったら絶対やらないとか、行政よりも政治が優先するとかという中で、積極性がない時代ですね。その時に、若者の公務員が、そういう公務員の環境に対して堕落しちゃったか、というとそうではないんですね。昼間は月給のために、公務員らしいことを言いますけれども、夜中になると言うことが全然違うんですね。自分のやっていることがいかに駄目かということで夜は盛り上がるんですね。私もそれに呼び出される癖がついて、夜、家に帰れなくて困るくらいです。そこでは本当にいい意見が出ますね。
ですから、さっき近藤さんがおっしゃったので一番良いと思ったのは、、役人がボランタリー活動に移りますね。自分の職務とボランタリーの仕事を二つやる公務員が普通になるんじゃないですかね。そして、行政が役人のボランタリー活動にとても期待することになるんじゃないでしょうかね。縦割り官庁の中で仕事を持った役人では、到底できないことがいっぱい出てきてしまったわけです。それがボランタリーでこなします。
神戸でも、兵庫県とか神戸市の職員のボランタリー活動が、どれほど災害に対して有益だったかというのは、記録して表彰してもいいくらいだと思いますね。自分の家が焼けちゃったのに飛んできて、焼け跡でずっと活動していた公務員というのはたくさんいます。そして、しかも、衛生部の職員などは医事法違反を犯してますね。役人なのに治療しちゃってるんですね。あれは、法律で取り締まるときっと牢屋に行くんじゃないですかね。だけど、それでなければ駄目なんですね。企業にあっても、企業を継続するためには、社員としての動きだけだとその会社は駄目で、ボランタリーというバイタリティを必要としていますね。
私は、よく聞かないとわからないけれども、今日この庭に集まっている人たち、どういう立場で来たかなあって聞いたら、不思議な答えをするんじゃないですかね。何か職場の肩書きも持っているでしょうけれども、そこから行ってこいと言われたわけでもないし、自分じゃちょっと覗こうっていう人も含めて、かなりボランタリー的なものがこの会を支配しているという感じがしますね。
それから、公務員というか、行政も、今は根本的に変わるんですよ。私がこんなことを言うと叱られますけれども、橋本内閣の行政改革というのは、行政組織のいじくり回しに終始していて本格的な行政改革になりきれない恐れがあるなと思うんですね。行政改革というのは、民間人や評論家や学者が来て、やれるような易しいものじゃないですね。役人が自分の仕事を否定することから始まらなきゃ本物じゃないですね。
自分の仰せつかっている公務がこのままじゃ駄目だ、というのを一番良く知っているんですね。だから、それを明らかにして、未来の行政をどうするって言い出したら、本当の行政改革になるんじゃないでしょうかね。それは、今、中央の国家公務員の三十歳前後と付き合いを深めながら、日本は大丈夫と思っていまして、私は遺言だけして死ねばいいって思っているので。明るいと思っていいんじゃないでしょうか。
藤井 大変明るいお話をいただきました。私たちも、自分の町でも色々やっているのですが、確かに公務員が非常にボランタリーで我々と一緒になって動き出している。それは、行政側もいわば後押しすると言いますか、だいぶん土壌が変わってきているというように思います。一層この風が力を得てくるようにと思います。大体、前半非常にいいお話で締め括っていただいたのですが、先ほどの一億円の話ですが、早川町はどう使ったのか、ニセコは逢坂さんの時代ではないですが、ニセコはどうだったのかということを少し聞いてみたいと思っている方もいらっしゃるかと思うのですが。
辻 一億円は、桁外れに大きいお金のように思うけれども、実際はそうじゃないです。それでも、一億円ですから考えさせられたのですが。行政が使う一億円はそんなに大きなお金じゃないです。私は、職員に何に使ったらいいのかと、職員教育という意味も含めて投げかけましたら、一五くらいの案がでてきました。私たちの町はたまたま昭和五七年に台風一○号という大きな災害で、壊滅的な一○○億円くらいの被害を受けました。その時に一番思ったのは、電話は途絶え、電気は切れてしまう、各集落が孤立してしまうということで、その前から防災無線を集落に作っていたのですが、その防災無線の機能も台風の前には役立たなかったということがありましたので、その教訓から、一○○○戸くらいの各家に直接聞こえる防災無線を取り付けました。
それから、もう一つは、山の中ですけれども、良い環境をつくろうということで、修景事業にあてまして公園をつくったりしました。もう一つは日本全国への情報発信ということで、南アルプスの中心の町ですので、全国の山岳写真コンテストを企画しました。南アルプスからスタートした世界的な写真家である白旛史郎さんの記念館を町でつくったのですが、それをきっかけに日本山岳写真コンテストを行うようになり、今年で九回目になります。今でも生きているというわけです。
藤井 ハード、ソフト両方にわたって的確にお使いになったようですが、合格でしょうか?
下河辺 いいですよね。そういうことを一億円がなくなった後も続けることにつながるととてもいいですね。アイデアは続々とでてくるんでしょうね。上流文化圏研究所も、一億円いただくといいんですけれども。ぜひ、下さい。
辻 新しくふるさと創生一億円ができたら、絶対に研究所に投入していきます。
藤井 ニセコはいかがでしたか。前の町長さんの時代かと思いますが。
逢坂 当時、私は企画の係長をしていましたが、一億円は本当に私の公務員人生を変えるようなことでした。使った中味についてはあまりしゃべりたくないのですが。当時、私はこんな指示をされました。町長はやりたいことが三つありまして、その三つについて町民に聞いて、それに決まったというシナリオをお前が作れ、ということでした。その結論に持っていくために日夜努力をしました。
その中で、先ほど下河辺先生が言われた、本当に公務員はこのままでいいのかということを強く感じました。それで、どこかでガラガラポンをしなければいけないと感じたわけです。私にとっては非常に大きな一億円でした。使った中味は、一つは、蒸気機関車を復活させるために、小樽とニセコの間にC62というのを運行させるのに使いました。後の残りは人材関係に使ったということです。
藤井 私はC62に乗りましたし、好きですので大いに役に立っていると思いますが、何よりも逢坂町長を産んだということが、一億円の使い道として、一番素晴らしいことではないかと思います。
ざっと一ラウンド終わりましたが、後は、今のお話の中で適宜お気づきになったこと、さらに展開したらどうかといった提案を含めてお話を伺えればと思います。前回の早川の時に、感動的な言葉が出たと思ったのは、アトランタオリンピックで、勝った選手が大地に接吻をするという話がありました。
これは、人間が自然に生かされているということが、体で表現されていると思いました。確かに、日本人には真似のできないことかと思いますが、そうした自然との接し方、たとえば、食べ物にしても美味しいとかまずいとか言うわけですが、全部(命を)戴いたものであり、生きていたものであり、それを食事としてとっているということを考え直さなければいけないかなと思うのですが。近藤さん、いかがですか。
近藤 開拓団の目的がそういうことなのです。先ほど申し上げましたように、うちの村は人で言えば人格にあたる、村の質を上げよう、そこに住む積極的な意味を見いだそうということで頑張っているのですが、次に来るのは何だろうということで、取り組んでいます。先ほどの下河辺先生の話で思ったのですが、役場の仕事をアルバイトと書いたからいけないので、今度はボランティアということでいきたいと思います。
今日こちらに来たのもそういう理由で、飛行機で来れば早くて楽ですが、地べたをネターッと這ってきました。婆さんをひっかけそうになったり、爺さんを引き倒しそうになったりしながらです。会う度にその人たちが何を思って生きているのかなということ、どういう意味を持って生きているかということを聞くんです。その背景とか景色とか地形とかを。その元になっているものは、子どもの頃から興味があった。
長野の諏訪の星陵高校に三沢勝栄という、気象学者でもあり、地理学者でもある人がいるのですが、その先生が風土論、風土産業論とかをやっています。その基本的な骨子は、地球の表面は地殻で出来上がっている、その地殻で出来上がっている表面と、大気の底面が接するところを風土と名付けよう、そこにはそこにしかない岩石があって、そこにしかない地形が出来上がる。
もちろん造山運動とか、そういう色んな地殻運動があって、そういう地殻があるからこそ、そこにしかない地形ができる。そこにしかない地形があるからそこにしかない気象現象が起こる。その気象現象があるからこそ、そこにしかない植生ができ、生態系が出来上がる。人もその生態系の一部としてそこに生かしてもらっているのだから、ある時代、ある時そこで何かをなそうとすれば、その自然から学び取らなければならない。その自然から生きる知恵を学び取れ、という考え方です。それを一般に風土論と言っているわけですが。
山村で生きるときに、林業で頑張っているところもありますし、木を全部切り倒してスキー場で頑張っているところもありますし、まばらに切り倒して別荘で頑張っているところもあります。その時代に合わせて、土地をどのように高度に活用するかという、いわば自分たちの住む土地の利用計画であるわけですが、それに誇りがあるか。誇りが感じられるか、住む意味があるかということを突き詰めていくと、どうしても、立派な林を作るために頑張っているわけでもないし、立派なスキー場を作り上げるために頑張っているわけでもない。
そこで、なんで生きていくのかな、と、生きる意味合いをもう一回探り直そうとすると、どうしても、そこに生きていた人たちが何だったかを、今生きている人たちに問うことになる。問いながら、今行き着いたのが開拓団をやっているということになるわけです。 その中で、ある時、木を伐り倒した時、掛かり木になってしまって、長野県で言うところの隣の木に引っかかってしまうことなのですが、全然知らないものですから、その始末を、下の方から一メートル位ずつ切ってやっていたのです。だんだん、落っこちてきたのでヨシと思ってやっていたら、落ちなくなって、ちょっと高いところで切り落としたら残りが倒れてきて頭蓋骨の半分が割れてしまって二日三日入院しました。腰の骨を取ってなんとか繕ってもらいましたが、上顎がうまく動かなくて喋りづらいです。
その話を山の中で開拓をやりながら、訪ねてきた爺さんにしたんです。そうしたら、「それはお前がお祭りをせんからだ」と言う。「御杣始め祭をやって、木を伐らしてもらうんだぞ」と言うわけです。その名残がヨキといって斧の中にあると。斧は握って左が表で、右が裏だと。そこに三本の筋と、四本の筋が入っておる。三本の筋のことをミキと言う、これが御神酒なんだ。そして四本の筋のことを、太陽と土と水と空気と確か言っていたと思うのですが、それがヨキ(四気)だと。そのヨキが揃うと五穀が実るという意味がある。その五穀と御神酒を備えて、自然に対する畏敬の念と、作業の安全を祈って、木を伐らしてもらうんだという話をしてくれるのです。そういう中に、自分が生かされているとか確認をするのではないか。
都市化した社会の中で家畜みたいに、もっと言えば卵を生まされているゲージの中のブロイラーみたいな暮らしをしながら、ある時自分が生き物であるという確認をする時に、今のような形態の農山村部の観光なりレジャーなりは、そういう癒す場として適当かどうかと思うのです。都会の若い娘が、畑の中でキャーキャー言いながらトウモロコシを一本か二本もぎって、農業体験したとか、自然と触れ合ったとか、わけのわからんことを言っているやつらを相手に、これで本当に山村がお招きして、その人たちに、ある種癒しの場というか、ある時を過ごす空間として提供するときに、そんな中途半端なものでいいのだろうか。
ゴルフ場の芝を踏みしめて、緑が豊か、自然が豊かと言っているような馬鹿者を相手にですね。もう少し商業主義にはない、本当の山の中に生きていくという話を、その中に目には見えないけれどもちゃんとした哲学があるということを伝えたい。
そういう生き方をもう一度やり直してみたい。それこそが、経済だとか色んなものに踊らされない中で生き方なんだ、そういう風に生きようと自分の息子や孫にも言える仕組みなりをつくる。当然、生きる糧は必要なので交流は必要で、その中で同等に、もしくはこちらがざまあみろって言いながら交流をして、その中で時代を超え、価値観を超えて生き延びることのできる方策を探し当てようと思いながら開拓をやっています。それが、公務員としてできる精一杯できることではないかと俺は信じています。役場でボールペンを握って死んだふりをしているヤツは別として。本業としてはそう思っています。
藤井 かなり大事なお話が出ました。今日は寒いだろうと思ったらサンサンと日が照って、少し爽やかな風も吹いて、本当に自然の恵みを感じます。その話を更につなげたいと思うのですが、逢坂さんが小規模自治体に暮らすことの誇りといいますか、タウンナショナリズム、小さな町に一生懸命暮らすことは実に良いことだとおっしゃっているわけですが。今、大地とか自然とか、本来人間が生かされるところに触れる度合いは都市に比べると圧倒的に大きいわけです。
そういうことで、色々お考えになり、展開されていることと思います。早川町でもこの前、一人一人が自分で行動し考えなければ日本は大変なことになるよという話が出ていましたが、そういうことを含めて、自治体や町や村が小さければ小さいほどいいよということをお話いただければと思います。
逢坂 ちょうどボランタリー、ボランティアという言葉がでてきましたが、私が最近仕事をしていてすごく感じるのは、縦の課や係だけで仕事をしない職員に対する大きな頼もしさです。僕の仕事はこれだけだよと、きちんと課や係の仕事をする職員も有能であって良いのですが、そうした境を持たないでガバガバ仕事をやっていく職員を見ていると、非常に大きな潜在能力のようなものを感じます。
そういうことをできるのは、小さい組織であって、あまり大きい組織ではできないのではないか、という気がしているのです。小さな所だと、体中隅々までピシッと背中を伸ばして、持てる能力を遺憾なく発揮できるのではないか。役所の中も小さな組織だと縦の流れにあまりこだわらないで色んなことが出来る。そういう意味で、小さな組織が重要だなという思いでおります。
それから、また、住民参加とか色んなことが言われていますが、そういした実験的なことも小さな自治体の中ではやりやすいということもあります。いずれにしても、血が通うとか、機械的に割り切れないものができるのは、小さな自治体だなとそんな強い思いを持っています。具体的なことを話し出すとキリがないので、時間もないようですので押さえておきます。
藤井 ありがとうございました。緒方さんは先ほど福岡の話をされましたが、福岡は地方における一極集中の代表的な都市だと言われていますし、今、全国を見渡しても一番元気ではないかと言われています。そうした都市との、源流と下流との関係で、どういう点がたとえば問題であるのか、また、職員を福岡から一人招いて活躍されているということで、何でも近藤さんのような職員だそうですが、そのような話を少ししていただけますでしょうか。
緒方 私どもの住んでいる町というのは、ここのように色々な樹種がある山ではなくて、ほとんどが緑の壁というか杉の木なのです。今から七年前くらいになりましょうか、台風13号で風で倒された木の処理がまだ終わっていないという状況なのです。あの時の試算では、一二年くらいかかって伐るくらいの木が倒れたといいますからすごいボリュームなのです。しかも、木材の価格が全然上がってこないということで、木を一生懸命育てようとしている人たちが少なくなっていて、かなり荒れるに任せるという状態なのです。
本当に山を愛している人からこんな話を聞いたのです。「私は最近になってようやく山で一人遊びができるようになりました。それほど、今は杉林の中に入っても日があたらずに下に何もない。昔は、下刈りをやるときにも色んなものが生えているということでこんな木が生えているとか見ながらやれたけれども、杉山では杉以外は全部バサバサ切っていけばいいという感じで、労働そのものが単純になってきているのです。
これは、一つの木を植えすぎた天罰ではないかと、山を見直さなければいけないという話が盛り上がってきているのですが、日田の人たちの山に対する考え方は、相当に日田の経済を支えてきたということで、どうしても金なのです。
そうするとなかなか見てもらえない。保水能力も落ちてきている。これは、もう一山林からとか、一つの町でで山を守っていくというのはなかなかできそうにないなと。そういうこともあって、北部九州というのは、水源地から水を取っているんであって、そこの人たちも一緒になって山林というものを考えていくべきなのじゃないか。
福岡の子供たちに水はどこから来るのという絵を描かせたら、蛇口を描いた連中が多かったというのです。そういうところではどうにもならないのではないか。そういう教育をもう一度やらなければ行けないということがわかったのです。実は、まずうちの町でどんな暮らしをしているのか、何を考えているのか、それを都市の住民に伝えたいと。それには、現地の人がリポートするのが一番良いんじゃないかということで、福岡市の職員を欲しいという話をしたんです。
福岡市は大きな町ですのでいろんな町に職員を派遣しているのですが、水道や下水道の技術者などに限定しているのです。うちは、そういう人はいらないと、十項目くらい書いて出したのです。
そしたら当時の人事課長が、こんなスーパーマンみたいな職員が福岡市にいるか、いないからやれないよという話になった。ちょっと頭に来て、それだったら「人事課長さん、それなら、あなたがここ何年かで採用した職員のうちでできの悪いのがいるでしょう。その箸にも棒にもかからんというのを送って下さい」と言ったら、その課長が各課にご丁寧に「問題児がいないか」と問い合わせて、二五人くらいでてきたのですが、その中で一番ダメの点数の高かったのを送ってきた。
福岡は「那の津」というところですが、うちの町の特産は梅なのですが、その両方を名前に持つ梅津という男でした。これはなかなか面白いと思いました。今まで福岡市でダメ職員の烙印を押されていたので本人も面白くなかったのですが、うちの町に来て、そういうやつが色んな面白いことを仕掛けてくれるのです。根っから田舎好きということもあったのでしょう。この町で一番自給率の高い農家はどこかとか、田舎暮らしを本当にやっている人たちをぼつぼつと訪ねては、自分でミニコミ誌、不定期刊行物をつくって、それを福岡にどんどん送り込んでいったのです。
その中で、私も、彼が来て知らされたのは、本当にうちの町で完璧に自給自足している人たちがいるのです。たとえば、冬場猟をして猪を捕って肉の補給源にして、味噌、醤油の類、ソースも何もみんなつくっている。そこに行くと本当に羨ましいと思います。これだけ贅沢できているのかと。よく、東京から来た人たちを隣の日田市の料亭に案内していたのですが、今はそういうのは止めて、そこに連れていくことにしています。実に料理の仕方がうまい。そこに住んでいると、そういう存在や価値がわからなくなってきているんですね。そういう意味で外部の人を入れて、そういう作業をやらせると非常に面白いのかなと思いました。
先ほどの領事館の話に戻るのですが、基本的にはそういうものを、福岡の現場で教育をやっていこうと。それで農村でこんな生き方ができる、楽しいんだと。そのこと抜きではなかなか、先ほどの話のように、来て梅をいくつかちぎって帰るとか、ちゃらちゃらした話になってしまうのではないかなと。時間は結構掛かるかもしれないけれども、そうしたことを地道にやっていきたいと今思っています。
藤井 今、梅津さんはくしゃみをされているんじゃないかと思います。どうぞ辻さん。
辻 先ほど、うちの町の流れを先ほどさせてもらったんですが、長期計画というのはそれぞれの町や村や自治体が計画行政を進めていく上で当然のことなのですが、平成六年から今の長期計画をつくりました。これには大勢の人たちが、町外の人たちも大勢応援してくれまして、早川町のまちづくりについてのけんけんがくがくの議論を何年も重ねてつくったわけです。その中で一番出てきたことは、これからの地域は、もうモノづくりの時代じゃないと。モノづくりから違うところへ転換していかなくてはいけないと、そういう論議の中から上流文化圏構想をスタートさせたわけです。
私はある面では、大変なことになっちゃったなと。モノをつくってまちづくりをしていく町長や市長は、楽ですね。一生懸命やって、できたものが首長の得点のようなことでことを済ませていければ楽なんですが、それだけじゃ地域というのはダメだと。特に過疎地や山村、上流域というのはとてもものづくりだけでは、地域の活性化や人を呼び込むくらいはできても、住んでいる人たちが本当に満足を得て、定着をしていく意欲が湧くかということを考えたときに、これはだめだと思ったわけです。
一番大事なことは、住んでいる人たちの意識を確実なものにしていくことが、まず、これからの上流域、山村過疎地には大事なことではないかということを、今までの行政の中で、また新しい長期計画を策定する中で気がついたわけです。 そういう点で、ソフトということを言うわけですが、これを住んでいる町民のために、そういうソフトづくりをしていけばいいのか、というところへ今来ているような気がします。その人たちが、本当に、勇気や誇りを持って地域に住んでいける、そして新しい人たちも入ってきてくれる。そういう新しい可能性も広がっていきつつあることを感じます。
時代も変わろうとしていますが、上流文化圏研究所も、その中心的存在として動いている。時間は掛かるけれども、その試みを一歩一歩やりながら、一人ひとりの住民が責任のある住民になり、しかも自分の責任を公に転嫁してしまうのではなく地域に住む一人ひとりとして個を確立させていくことは大変なことだろうと思いますが、それでなければ、これからの山村の文化を守り、新しい文化を創造していくということには向かっていけないと思います。
近藤さんが言うように、余所から来た人たちを受け入れるだけで、地域に人が来れば満足していられる時代ではないということを思います。上流文化圏研究所はそういう意味で、インターネットや学校教育を含めて、あるいは年寄りや地域に住んでいる人たちを巻き込みながら地域を考え、また、情報発信をしながら余所との連携を深めて、自分たちの地域を確立していけたらというようなことを一生懸命、悩みながら、取り組んでいます。
私共の町ではそのための条件がある程度整ってきたのかなという気がしています。ソフトへ移行していく舞台づくりというのは、立派なものではありません。それぞれの拠点はそれほど立派なものではありませんが、学校にしても公民館にしても、活動拠点にしても、町民が充分行動できるところまで舞台づくりができましたので、まず町民が自己を確立しながらこの町に住んでいく充実感を求めていきたいと思っています。難しいことかもしれませんが、ぜひご協力をお願いします。
藤井 先ほどの緒方さんの話に戻りますが、地域には助成金も必要だけれども、助成人も必要で、人がどれだけ来てくれるか、ということになるかとも思います。派遣に人材も、優秀で、はみ出た人というのはたくさんはいらっしゃらないかもしれませんが、そうした仕組みができればいいのではないか。
人の話に大分移ってきておりますので、最後に、人材とか教育というテーマに移っていきたいと思います。私は拝見していないのですが、ここ五ヶ瀬にはフォレストピア・学びの学校という、県立で中高一貫の全国で始めての学校があって、かなり成果があがってきているのではないかと思いますが、古いシステムを救済するのではなく、新しいシステムを構築するというのも、前回の会議でのキーワードだったのですが、逢坂さんのいらっしゃるニセコのニセコ高校を拝見したのですが、リゾート学科という、町の特性を反映した学科があり、人の育成を考えていらっしゃると思うのですが、そうした現場での人づくりについてお話下さい。
逢坂 結論から先に言いますと、私は色んな仕事をしている中で最重視しているのは人の問題です。ニセコ高校は町立の高校です。季節定時の農業高校でした。夏の間は休んで四年間。一五年前くらいから生徒が全く集まらなくなりまして、一学年四○名一クラスだったのですけれども、志願者が五名とか七名とか、学校の存続そのものが危ぶまれることだったのです。ニセコは農業だけじゃない、観光もあるじゃないか、観光と農業で地に足のついた教育ができないかということで、ハイブリッド、私は必ずしも良い言葉だとは思わないのですが、異質なものを融合させようと学科転換を図りました。正式な学科名称は、緑地観光科です。平成二年か三年くらいに動き出しましたが、最近は競争率という言葉もでてくるようになりまして、定員より多い志願者がくるようになりました。
教育・人材いずれにしましても、いかに実践の中から学んでいくのか、いかに地域の中から学んでいくのか、というのが重要であると思っております。公務員の世界にはOJTというものがありますが、そんな恰好良いものでなくとも、やりながら学んでいける機運づくりをなんとかして作りたいなと思っています。そして、それは多分、大山方式とか、早川方式とか、きっと地域によって違うと思うのです。そういう意味で、地域自らが、どうやって地域ごとに人を生みだす仕組みづくりができればな、という思いでおります。
藤井 今のお話で、五ヶ瀬の高校でも、五ヶ瀬方式というか宮崎方式というか、これから、かなり注目されると思うのですが、次のセッションで伺ってみたいと思います。
前回も話が出ましたが、子どもには相当の将来性がある。川船の漕ぎ方を知っていて自信たっぷりという小学生の話が出たり、早川町でもおばあちゃんから伝承されて蕎麦打ちができる中学生がいたり。子どもは想像力もあるし、感受性も良く、親に逆に教えたりしているというお話もありました。非常に子どもたちを中心とした将来の姿には可能性があると思ったのですが、そろそろ予定の時間に近づいて参りましたので、一つ下河辺先生に伺ってみたいと思います。
最近の新聞で見ましたので、まだ設計段階だと思いますが、先ほどソフト・ハードの話が出ましたが、安藤忠雄さんというのは東大の先生になるというので話題の建築家ですが、滋賀県に故人の美術館を建てようという話になった。その画家は非常に自然と共に生きたという方なので、小さな美術館ですが、人工照明を一切使わないで、夜明けと共にオープンして日没と共に閉めるというか、全く自然の中でその絵を鑑賞し、その人柄を偲ぶ美術館にしようという話が出ていました。
やられたなという感じもちょっとしたのですが、そういう風に、あくまでも自然と隔離された形で暮らしがあったというのが冒頭の二○世紀の問題であって、それからもう一度戸外へ出たらどうか。下河辺先生からも、インドアからアウトドアの世界へ立ち戻ろうというのが、これからの方向ではないかということを前にお聞きしました。その辺のお話について、まとめということでお伺いしたいのですが。
下河辺 今、日本人全体が、物より心とか、ハードよりソフトと言っていますが、そうするとちょっと恰好良いんでしょうか。これは、人間にとってはどっちも完璧でないと快適な暮らしにはならないのです。ただ、言えることは、今、藤井さんがおっしゃったように、二○世紀というのは自然を切り落とすことで安定した空間ができるから、その安定した空間で、心を通じ合おうという文明なのです。
だから、絵を見ることも、彫刻を見ることも、芝居を見ることも、歌を聴くことも、オーケストラも全部建物の中で、自然といかに切り離されているかを自慢しています。最近ではとうとう野球まで建物の中に入っちゃって、そのうちサッカーも全部建物の中っていうと、選手はひ弱な選手になるでしょうね。そういうことだから、アウトドアっていうことが今、問題なんだと思うんですね。だから、早川町の色んなテーマはアウトドアということで実施されるということでないと、ダメなんですね。
私は極端なものですから、病人も病院へ入院すると悪くなるような気さえするんです。神社の境内か何かで寝かしてくれたら良くなるんじゃないかということさえ思いますよね。だから、今日もこうやって何故屋外でやっているかといったら、たまたま場所があったからというのではなくて、こういう環境でやらないと雰囲気は出ないということが大切なんですね。これを立派な建物ができて、その中でやると、ちょっと本質的なものが無くなるのではないでしょうか。
人材を作るという点でちょっと言いたいのは、二○世紀後半というのは若者が大都市に流出した歴史ですね。それが終わったわけです。終わって大都市に行った若者が、自分の人生がお先真っ暗になった時なのです。だから、暗いままで大都市にいたいという人もたくさんいるのですが、どこか光のあるところがあっていいはずだと、探す時代が現在なのです。だから、私はよくわからないけれど、こうした会を全国で開く時に、司会者が大抵思いの外たくさん来たって言うんですけれども、それは光を求めて迷っている人たちが来るんじゃないでしょうか。
そういう時代なので新しい日本列島に、若者たちがどう住み着くかという基本的なテーマが、まず、出てきたと思うんです。その時に私は、高等学校というものをここでやっているように中高一体として、学生を大都市から募集したらいいと思うんですね。大都市の金持ちの親からいっぱい学費を取って、子どもを預かったらどうですかね。そうすると、学校経営も助かるんじゃないでしょうか。
そして、子どもたちもこういうところで中学高校時代を過ごすというのは絶対にプラスが大きいし、全寮制で自分の食い物ぐらい自分で作れという怖い寮監がいて、生活を共にしてくれたらいいなあと。そういうものがあると、ひょっとするとこういうテーマに対応するような人材ができるかなあって言ってたら、九州の私立学校の校長先生の集まりに何故か突然呼ばれまして、そんな話をさせられました。そうしたら、「やっと経営の目途がつきました」なんて言った校長先生がいましたが、それでいいんじゃないでしょうかね。それでメシを食うということも重要ですよね。
それから、今日出た話題で、観光というのが人材教育として大テーマだと思うんですね。学校へ来るだけではなくて、観光に何しに来るの、というと、私の時代には酒と女と温泉が要るっていうのが観光で、あとは学校の修学旅行しかなかったでしょう。最近は、景色が良いとか、ちょっとリンゴやミカンを穫れるとかというのも入りましたけれども、観光業の方々と話していると、先行きが暗いって言いますね。観光ホテルが「商売が成り立たない、何かいい知恵はないでしょうか」っていうので、観光ホテル屋さんに呼ばれまして、どうしようもない時だけ私は呼ばれる癖があって、自分に知恵があるわけじゃないので困ってますけれども。
そこで言ったのは、「明治の人というのは偉い」と、江戸時代まで観光という言葉は無いんですね。明治に観光という言葉を作ったときには、光を見るという字として作ったのです。だから、日本にとって光とは何かを問うたのです。そして、明治の最初の観光の対象は、海軍の軍艦だったんですね。軍艦を見て、観光と思ったわけです。
ですから、今、ここで観光と言う以上は、光とは何かを問わないとだめなんですね。そうしないと、うまいもの食って、夜はポルノじゃ、観光で光を見に行ったことにはなりませんよね。だから、観光を言う以上は、光を語らなければならない。それを、近藤さんが最初に、いみじくもおっしゃったけれども、却って、文化とか人間とか健康とか環境ということを語り合える情報や知恵がもらえることが、観光の光だという時が既に来ているのではないでしょうか。けれども、来てみると説明してくれる人がいないんですね。五ヶ瀬にフラッと遊びに来て、役場のボランタリーの人が一緒に遊んでくれるというようなことをやれば、来て学んでもらうことができるでしょう。だけど、簡単な観光パンフレットなんかを渡されても、見方さえわからないようなものですね。
そういうことで、人材教育というのは、観光という光の情報論のところまで行く、ということが重要なんじゃないでしょうか。これは、今、沖縄を手伝っていて、沖縄観光が完全にそうです。「復帰後、一年間に二○○万人観光でメシ食おう」って言ったときは、復帰の時、二○○万人来るって信じた人は沖縄県人にはいなかったですね。それを、でたらめな我々が、他でメシ食えないんだから、二○○万人観光で行こうって言ってたわけですが、復帰後の計画の中で数字を達成したのは観光の二○○万人だけです。三○○人だったか、数字をちょっと忘れましたが。それで、今度は、新しい計画を作るので、県庁が五○○万人観光って言ってきたわけです。
それで、私はダメって言いました。何故ダメかというと、三○○万人観光が、一年ごとに増えて、五○○万人を達成するという例の調子の計画なんですね。そのためには、運賃下げてくれなんていう話にしかなっていないんです。私は、「三○○万人観光は、むしろ減らして下さい。沖縄の環境破壊につながっていて、こんな観光を続けることは、沖縄の環境にとって駄目なのです。
しかし、環境を語る人たちが観光化するなら、五○○万人観光の可能性はとても高い」って言いました。そしたら、それやろうってなりましたが、まだ全然駄目ですね。そして、ハワイの人たちと共同提案をしようという用意を今、し始めていまして、世界的な規模で沖縄観光論をやる時代に来ましたね。新しい観光の芽を持ちたいわけです。今、お聞きしていて大体そんなことを感じました。
藤井 今のお話で、幕府でしたか、最初の国産の軍艦の名前が確か、観光丸と言いました。それだけの、大きな意味があって明治には使われていたことなのかもしれません。観光が大テーマになったというお話でしたが、確かに、もう一度地域の光をどう造りだし、どう磨くかということが基本になってきたように思います。光と言っても歴史的な光とか色々な光があります。今日ここに、「四億年のしずく」という、祇園山からでてきたおいしい水が置いてありますが、それも歴史の光かもしれませんし、自然の光の一部かもしれません。
それから、もう一つ、人の光といいましょうか、光り輝く心を持った人たちを見るために、人々がやってくるのではないかと思います。沖縄の話など、もっとお聞きしたいのですが、ちょうど予定の時間となりました。今日の日本上流文化圏会議は、光を求めて集まった人たちがこれだけ揃ったわけです。先ほどから、日没前の最後の光があそこに当たっております。あの看板の見事な木はきっと五ヶ瀬の木ではないかと思いますが、日本上流文化圏会議の看板の光を見ながら、このセッションを終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
秋本 只今からタイシャ流の棒術を、地元の村おこしグループのメンバーが行います。すみませんが、こちらにお掛けの方は、椅子を持ってご移動下さい。
タイシャ流棒術は、この祇園神社の夏のお祭りの時に、御神輿がでますが、その御輿を警護していくものです。その中でも、白刃という真剣の刀と棒を使いました打ち合いがございます。実はこのタイシャ流は、熊本県人吉に隠居した丸目蔵人という武芸者が編み出した剣法で三百五十数年前この鞍岡の地に伝承されました。
その秘伝書をご神体としてお祀りしてありますが、免許皆伝の伝尾判は、鞍岡の人から椎葉村の人に移り、また熊本県側の馬見原の人の名前となり、鞍岡、椎葉、鞍岡などと行ったり来たりしています。つまり私達が行っいる霧立越を行ったり来たりしているのです。九州山地の尾根伝いの道は、人吉から椎葉、そして五ヶ瀬から熊本県馬見原まで繋がっていて、物資だけではなく、こうした武術の交流も深かったということでございます。それでは演武をご覧いただきます。