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つ疉找杏:晩餐会編

行程 
平成20年7月20日 
【夕食懇親会】 鶴富屋敷 
      総合司会 秋本 治 
18:00〜18:10 開会挨拶 黒木勝実(実行委員長) 
18:10〜18:20 歓迎の挨拶 甲斐真悟(椎葉村教育長) 
18:15〜18:20 乾杯 椎葉大和氏(椎葉村商工会長) 
19:10〜19:20会場設営 


開宴の挨拶
黒木勝実
 どうもお疲れ様でした。ここが『ひえつき節の里』椎葉でございます。僕の大好きな椎葉村であります。しかも椎葉のシンボルと言うべき鶴富屋敷でこうして皆さんと出会うことが出来ましたことは、まことに幸せであります。感激一杯です。
 今日は、神門から笹の峠を越えまして松尾の庄屋、松岡久次郎邸を自分の目にしっかり焼き付けてここまでやってきました。約10キロ近く歩きました。もう、こんなに長く歩くとは思いませんでしたが、身体に全然応えませんでした。5年前に病を患って、歩くことも大変無理でしたが、今日、このようにして元気に歩けたので、だいたい自信が出来ました。今回の旅は併せて僕の快気祝いの旅にしたいと思います。
 お陰様で、後期高齢者も何人かいましたのでサポート車のお世話になる人がいらっしゃるのではないかと思っておりましたら、無人のサポート車を見てびっくりでした。そのことに驚いています。(拍手)
 今宵は、この宿舎に着きましてから、とっておきの話がございます。柳田国男先生が民俗学の扉を開きましたあの『後狩詩記』の、その神髄を語る人がおります。尾前善則さんです。それからもう一人、ご存知の方も多いかと思いますが、焼き畑農法では椎葉の顔として、もう世界何ヶ国も走り回っております椎葉クニコばぁちゃんも駆けつけております。いつもならトラック3台分の話を持って来るんですが、今日は軽トラぐらいでいいよと話してありますから、後ほどまた焼畑農法、まぁそれ以外にも植物なんかでも非常に詳しくて「おばちゃんの植物図鑑」という本まで出しました。もう椎葉の草花で知らんものはありません。そういう人ですから、またお話がそっちに集中するんではないかと思いますが、どうぞ今宵はゆっくり椎葉の里の風情を味わって頂きたいと思います。それでは後からのシンポジウムをお楽しみにして下さい。有難うございました。

歓迎の挨拶
甲斐真悟(椎葉村教育長)
 皆さんこんばんは、よくぞ椎葉にお越し頂きました。先ほど紹介賜りました教育長の甲斐でございます。柳田国男先生が椎葉にお出でになってから100年目ということで、本日催しが開催されておりますが、心からお喜び申し上げたいと思います。
 本村における民俗学の認知は、昭和53年にこの鶴富屋敷の傍、災害で無くなりましたけれども、歴史資料館が建設されてからでありまして、開館当時「椎葉神楽」などが民俗芸能かどうか理解された村人はほとんどいませんでした。当然、柳田国男先生の存在などご存知の方は皆無に近かったといっても過言ではなかったと思います。
 ただ、私は、昭和49年に椎葉の役場に入りましたけれども、当時の仲間の一人に気の利いた人がおりまして「あんたも椎葉で暮らすとなら『後狩詞記』だけは知っといたがいいよ」というふうに言われました。でも、そう言われても何のことか全く分かりませんでした。それでも、そういう意識を持つ人が一人でも居た、ということが救いだろうと思います。
 歴史民俗資料館の建設と時を同じくして、当時、早稲田大学の演劇博物館の学芸員でありました現在、昭和女子大学の教授をしております渡辺信夫先生という方がいらっしゃいますが、この方が椎葉を訪れまして、椎葉の神楽調査に入りました。入りましてから民俗芸能、山岳宗教、それから民俗音楽、それから柳田国男先生の「後狩詞記」、「山の神祭文」、「狩猟伝承」、「焼畑」とかですね、広く椎葉の民俗文化が認知されることになりました。
 これを受けまして、昭和60年に本日の仕掛け人の一人であります黒木勝実さんが深く関与致しまして、本村と宮崎日日新聞社で調査いたしまして「民俗の原点、椎葉シンポジウム」というものがここで開かれました。この村に、あるいは宮崎県に柳田国男民俗学が広く認知され周知されました。
 以来、多くの研究者や学生の皆さんがお見えになり、今に伝わる民俗芸能や狩猟儀礼、年中行事など椎葉の民俗を実体感して頂いております。そして、渡辺教授が手掛けた神楽は平成3年に国の重要無形民俗文化財として指定を受けまして、現在の椎葉民俗芸能博物館が登場するきっかけとなったところであります。
 柳田先生が来訪されたことは、本村の文化が見直され、村人の大きな想いとなった事は改めて申し上げるまでもありません。『世の中の うきたひことに思ひいつる 椎葉の村は千とせにもかも』。またもう一つ『立ちかへり 又みみ川のみなかみに いほりせん日は 夢ならでいつ』。このように、今なお柳田先生の思いが残るこの村の民俗文化を継承し、後世に伝えていくことが、この村で生きる私達の使命ではないかと思います。本日は本村を訪れて頂いたことに心から感謝を申し上げ、ご挨拶としたいと思います。

乾杯
椎葉大和(椎葉村商工会長)
 皆さんこんばんは、「柳田国男100年の旅」の計画をされた秋本先生そして勝実先生、ほんとにご苦労さまでありました。こういうことが民間から湧き出てくる大変素晴らしいことだと、感謝を申し上げる言葉、それ以上はありません。今日はなんだか皆さん涼しいようで、大八郎さんも鶴富姫もこの屋敷に皆さんが来てくれてほんとに喜んでいるような気が致します。
 私が乾杯の音頭を、ということでございますので発声の音頭をとらせていただきます。スタッフの方々、本当にご苦労様でございました。今日はゆっくり召し上がっていただければ幸いだと思っております。それでは「柳田国男100年の旅」がますますご盛会でありますように、そしてご参加の皆様のご健勝をご祈念申し上げて乾杯します。『乾杯!』


セッション1 卓話 ―狩の作法―「のさらん福は願い申さん」

講師 尾前善則氏 (狩猟儀礼作法伝承者)
聞手 秋本 治(霧立越の歴史と自然を考える会会長)

秋本 治
 それでは、第二部に入らせて頂きます。卓話、狩の作法「のさらん福は願い申さん」と題して、尾前善則さんにお話を伺います。柳田国男は100年前に「後狩詞記」として狩の作法を書き残されたわけですが、尾前善則さんは、今日まで、狩の作法を実践伝承されていらっしゃるわけでございます。そうした狩のお話をじっくりお聞きしているとそれはまさに自然界で人間が生きるための作法でもあるような気がします。
 尾前善則さんの猟師ぶりは、お宅に伺いますとよくわかります。先ず、皆さんびっくりされると思うのですが、部屋の「鴨居」には、猪の「カマゲタ」、下顎のことですが、牙や歯の付いた白骨の「カマゲタ」がずらずらずらーっと天井下の「鴨居」に架けられているんですね。とてつもない大きい牙を持った猪であったり、亥子と見られる小さな「カマゲタ」が並んでいたり、ぐーっと極端に反り返った牙であったり、猪もそれぞれが独特な牙を持っていて、それをうまく武器として使いこなしているんだなあ、ということがよくわかります。そうした猪の「カマゲタ」が部屋中をぐるりと取り巻いているのです。
 これらは、特に犬と大格闘して愛犬を傷つけた猪であったり、手負いとなって突進してきて間一髪でしとめた怖い猪であったり、印象深い狩となった猪の「カマゲタ」がこうして架けられているのですねえ。私も、子供の頃には、叔父に連れられてよく狩の手伝いに出かけたものです。その時、叔父の家の「鴨居」にも猪のカマゲタがかけられているのを見て育ちました。ですから、お話伺っていると、とても興味が沸き2〜3時間はすぐ経ってしまうのですねえ。
 尾前善則さんは、高齢のためつい先年狩をおやめになったばかりですが、立派な猟犬と狩の後継者を育てられ、伝統的な狩猟儀礼作法の伝承をしっかりと行われていらっしゃいます。
 タイトルの「のさらん福は願い申さん」というのは、獲物はすべて山の神からの授かりものであって、山の神を大切にしていれば山の神が獲物を与えてくれる。だからそれ以上のものは求めません、と。そういう謙虚な姿勢で狩を行うとおっしゃいますので、そこから引用したタイトルです。それでは、狩の作法の真髄を語っていただこうと思います。尾前善則さんよろしくお願いします。

尾前善則氏
 皆さんこんばんは。狩の話をしてくれんかということでやってまいりました。皆さんは、猟はやらんでしょうけれども、これは猟師のことですが、皆さんが山に入る上においては、そういうこと知って伝えてもらえば幸いだと考えております。宜しくお願いします。
 私は、子供の頃、14歳で父を亡くしましたが、それまでの父の後姿を見て教わったことを皆さんにお話します。私は14歳で父と別れましたが、それまでに、私が小学校2年生頃から父に連れられて山にも川にも行っておりました。父は、大変几帳面で山猟だけではなくて川漁も非常に腕が立ち、子供のときからいろいろと教わっておりました。
 そもそも、山に入る猟師というのは、何を一番先に知っておかなければいけないかということから、お話したいと思います。猟師は、山に入るときは、山の神様にお願いして猟をして良いか悪いか、それを伺う為に山の神様に『スワの祓い』という唱えごとをしてから山に入ります。
 そして、山に入ったら今度は『さかめぐり』という掟がある。これはどの方向に狩に行ったらいいのかということがあるわけですね。その『さかめぐり』というのは、農家暦には干支が載っていますが、その干支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥とありますね。そしてその干支には方位が位置づけられております。その干支の中に『きのえきのと』などというものが入っとるわけです。今は、11月15日から猟期に入りますが、暦の11月15日を見ると『きのえきのと』が15日になるか、18日になるか分かりませんが、11月15日が『きのえきのと』を過ぎていれば、前の月から見るわけです。そして『きのえきのと』の日から次の「きのえきのと」まで12日間ありますが、その12日間は、その方向には狩に入らない。これは左回りになりますから「さかめぐり」となるわけです。時計回りとは反対で、その方向には猟には行ってはいけないという昔からのシキタリがあります。そういうことが、今の猟師さん達は多分判らんだろうと思います。昔は、こういう猟をしておったということを皆さんからお伝えをしてもらえれば幸いじやがと思います。

秋本 治
 はい、先ず狩を始めるには、山ノ神に「スワの祓い」を行って狩の安全を祈願し、獲物をくださいとお願いするわけですね。そして、狩の作法では「サカメグリ」をしないようにすることが狩の基本であって、というお話でした。今、鹿の異常繁殖による食害などは、人間が作り出したことであって、自然界からのしっぺ返しのようなものですが、もともとは、暮らしのなかで動物の保護区をつくりながら、育てながら獲っていく、必要な分だけ獲物を獲るという、人間と自然との共生の基本がこの作法の中に入っているように見えるのですね。「今のハンターは猟師ではない」ともおっしゃっているわけですが、山の神を大事にして、というお話は「山ノ神」を「自然」という言葉に置き換えるとよくわかるような気がします。それでは、そんなお話をさらに深くお聞きしたいと思います。猟期に入ると先ず何をなさいますか。

尾前善則
 私は、山に行く日も、行かん日でも、朝起きたら必ず庭に出て、東の方を向いて柏手を打ってお参りします。これは、そうしたからどうということではなくて、自分の気持ちを落ち着かせるためにそうしてお参りをします。そして、今度は、氏神さんに向かって柏手を打ってお参りする。そして、今度は、家に入って仏さんに参る。これを私は毎日必ず行います。皆さんはやらなくていいですよ。だけど、こうしてお参りすると、そりゃあ気分がいいですねえ。東の方に向かって柏手を打って、今日も一日無事であるように、山に入ると猟があるようにとお願いします。そして、夕べ夢見たことを反省します。夢は、時たま見ますが、「はあ、夕べはこういう夢だったがねえ」と、「ほんに、今日は、お参りした上にこういうことがありやせんか」と。すると非常に楽しみがあって、非常に猟が効くことがあるのですがねえ。それが一番気持ちがいい。人間は、人それぞれに好きな道を歩んでいるわけじゃから、私はそれが一番の楽しみなんです。
 それから、氏神さんにも、山に入る時は山に入りますからとお願いする。そして自分ところの山の神さんにも必ず出発前に御幣を切って、山の神さんには七五三、コウザキどのには「しぃしぃの四段幣」というのを上げます。私とこの尾前部落には、下のコウザキと上のコウザキと、コウザキというのが二つあるわけです。そして、今だに祭りの時には、下のコウザキと上のコウザキのところが一番最初にいち神楽を舞うわけで、私が思うには、コウザキがこれだけあって、山をこれだけ大事にしよったもんじゃなぁということをしみじみと思うわけです。

秋本 治
 尾前善則さんのお家は、村を見下ろすような斜面の中腹にあります。したがって日の出も村の中で一番早いのではないかと思いますが、朝起きたら庭に出て東の方を拝むというお話にぴったりのお家でもあるような気がしますねえ。
 そこで、コウザキ様をお祀りしてある家が村の上と下に二軒あるということですね。そうして、コウザキ様の家がお祭りのときも最初の神楽宿になるということでコウザキさまを皆んな大事にお祀りするということですねえ。それで、コウザキ様とはどういう神様でしょうか。

尾前善則
 コウザキというのはですね、猟師が大事にしている猟犬なんです。猟犬を祀ってあるわけです。ここに山ノ神さんがあるとその傍にコウザキさんはあるのです。それじゃから、コウザキさんは山の神さんのお供役と自分は考えております。それじゃから猟師は犬を大切にします。大切にするが、大切にするそのやり方は、今のハンター達とは違うと思います。
 犬は、私達より頭が良いわけですよ。そして犬は何回も教える必要はない。自分の子供は何回教えてもわからんけれども、犬は、もう2回くらい教えたら絶対分かります。そういうことがどうしてわかるかというと、犬は生まれてから爪がすぐでてくるですね。そしてすぐヨチヨチ歩きするようになる。そうすると玄関口に来て戸を開けると最初は必ず入ってきます。親犬は入ってきませんが子犬はどんどん入ってきます。その時がしつけの一番始まりなんです。その時、怒っても犬はわからんわけですよね、叩いてもわからんわけです、どうして入っていけないかということは。それで、入って来たその時は水をかけるのです。そうすると犬は「ははぁ、ここに入れば水をかけられる」ということがわかるのですねえ。それを二回くらいやったらもう絶対玄関には入ってきません。そうしたことを育つにしたがってもちろん親犬には親犬のしつけをいろいろとやるのです。
 そうしても他の人が玄関に入ってきて、「入れ、よしよし、こっちへこいこい」というたら、入ってくることがある、その時が叱る時なんです。「こらっ」と、犬の名前を「なになに」というのです。そうしたらもう絶対ですよ。このようにしてしつけて、「人にやさしく、獲物に厳しく」という育て方を猟師は考えてやらにぁいけません。
 それだから、私達の犬は、狩に山に行ったら、私の犬が5匹、弟の犬が5匹おるとしますね。弟の犬とは別々に育っていますが、今はドックフードというのがありますから、それをここに置くですね、そして、みんな一緒に犬を放すですね。そうすると私どもの犬はみんな仲良く食べますよ。そういうふうに子が親の後姿を見て育つように、犬も主人を見て育つようにしこまにゃいけません。それが猟師の秘訣なんです。我先に餌を取り合うのが犬じゃない、そこが一番ですね。
 親父の時代から「チョン」という名前のいい犬がいました。私の代になっても同じように「チョン」と名前をつけていましたが、どうも寿命が短いので名前を変えてみたことがあります。やっぱり犬は名前ではありませんねえ。どんな名前でも結構です。躾けしだいですねえ。

秋本 治
 尾前さんのお家に行くと、おっしゃるように犬は玄関の外から中を覗いたりしますが玄関の中には決して入らないですね。私達に初めて出会っても決して吠えたり逃げたりもしない。人に対して非常におとなしいようにみえます。犬どうしで喧嘩することもないですね。なぜこういういい犬が育てられるのかなあと秘訣をたずねましたら、今の猟師はメス犬を飼わないからといわれました。よいメス犬を育て系統のいい猟犬を選別淘汰していくことだといわれました。
犬は、もともと土の上で育つものであるといわれます。猟犬というのは、家に上げたりコンクリートの上ばかりで育てるとダメになるとおっしゃいました。爪が伸びたり、足の裏が薄くなるそうです。そして野生の本能が退化するのでしょう。また鎖で年から年中繋いでばかりいると、放したときには犬同士が喧嘩してかみ殺したりするようになるそうです。それで尾前さんところの犬小屋は広くて土の上で放し飼いです。犬をくさりでつないだことは無いとおっしゃいます。
犬は飼い主に似るといわれていますがまさにそのとおりだと思いました。獲物を仕留め、犬が手柄を立てた時は、ひざの上にきてアゴを乗せ、やったよというような顔をしているが、狩に失敗した時は遠慮して来ないといわれるのですね。今は、ハンターは外国の犬などいろんな犬をつれてきますが、やっぱり地犬で仕込みしだいだといわれます。なるほどと納得したものです。
さて、そこで、先ほど、狩の始めに山ノ神に「スワの祓い」を行うとありました。「スワの祓い」とはどのような唱えごとでしょうか、差し支えなかったらお話いただきたいと思います。

尾前善則
 狩の始めには、「スワの祓い」というて、山の神にお祓いをします。
「そもそもスワ大明神と申するは、弥陀の三尊にてまします。ううおう元年庚戌の年、東山ぜんしょうぜが嶽より天下らせ給うては、千人の狩子を揃え、千頭の鹿を射止め、ふいかま、ないかま、はやいかまとて御手に持ち、右にはかまの大明神、左には山宮大明神、身をつく杖は残りきて、雨は降りくる高天原を通りきて、諏訪の原で会うぞ嬉しや、南無阿弥陀仏」
 これが「スワの祓い」ですねえ。最後に「南無阿弥陀仏」が出てきたでしょう。これは、獲物を、生きているものを殺すわけですから、今度は葬ってやる、それだから神に唱えた後に、今度は「南無阿弥陀仏」が出てくるのですねえ。
 私のところの尾前という部落には「ししまつり」というのがあります。それで「スワの祓い」から、イノシシを獲ったときのフャアフリの切り方からさばき方からいろいろといわれがあって、そういうのをいろいろしていって最後には「奉り」がくるのです。だから詞の最後で「奉り申す」となるんですが、「南無阿弥陀仏」と奉り申すが繋がるわけです。仏教もあり神道もあり理屈は同じなんです。
 御幣を切る時、切り方を知らない人は紙を破ってあげても結構ですよ。そのときは「しまんやへえ」といってあげればいいのですね。ここの民俗芸能博物館ができて1年ぐらい経った時、永松さんが来て展示してある御幣を見くれというので行って見ました。その時私は、「ははぁ、永松さん、これは私と合わんねえ」と話したことです。今の御幣は飾り方が違います。色とりどりでしょう。赤もあれば青もある。昔は白だけなんです。中には赤もありましたが、それは祭りのときに紙染めといって木で染めるわけです。夏祭りの時は、紙一枚で御幣を切ります。御幣は神様の着物なんです。それで秋になると寒くなるから「合わせ」として二枚で切るのですねえ。それについているものは冠というものです。神さんの上の方に、御幣の上の三角にたたんだものですね。そういうことは、ところによって違いがありますねえ。

秋本 治
 なるほどですねえ。それでは、今度はいよいよ猟に入るわけですが、山に入るには、一番最初に地名を覚えることから始まると思うのですが、地形などその場所を相手に伝えるための名前は山の上からいいますとどんな名前があるのでしょうか。

尾前善則
 一番上につながっている山を『タオ』と言います。ずーっと稜線が通っているのを『タオスジ』と言います。そして、下からずーっと上がっている尾根のことを『オバネ』と言います。そして「なになにのオバネ」とそれぞれ尾根に名前が付きます。秋本さんがしておられる「霧立越」、あれは扇山から杉越えにずーっと続く、あれがタオスジです。どこでもずーっと一番頂上をぐるりと回っておるのがタオです。一本一本谷から上がっているのが「オバネ」です。そしていろいろ名前が付きます。「サシオバネ」とか「シンナシオのオバネ」などです。これはずーっと続いている「オバネ」が、ぽこっと途中までで消えて尾がないわけですね。上のほうは大きな「オバネ」がですよ。そういうのを「シンナシオのオバネ」といいますね。
 それから、「オバネ」と「オバネ」の間を「迫」といいます。大きさによって大迫とか小迫と呼びますね。「ヒラミザコ」というのは、迫が広く続くところです。ところによっては「ホーバザコ」ともいいますね。そして「ナカヒラ」があります。これは中腹のことですね。「カマサキ」と「カマデ」というものもあります。これは、「鎌」をもっている手の側を「鎌手」で、鎌の先の方を「鎌先」と呼びます。つまり右側が「鎌手」で左側が「鎌先」となります。こういう説明をしますと屁理屈をいう人は、左利きの人はどうか、とか、下を向いて鎌を持っている人はどうかなどという人がいます。鎌は、水の流れに向かって持つもので、下を向いて使うことはありません。左利きは、日本人の平均からすると少ないですね。標準でいうわけですね。そして鎌は反対に向けては切ることができないですよ。だから「カマサキ」は左になります。
 それで、使い方としては、「シンナシオ」の「カマサキ」に居った、と。そしてな「ナナマガリ」を横切って「ヒラミザコ」に出た、などと使いますね。

秋本 治
 先ほど「ホーバザコ」という言葉がでましたですね。「ホーバ」とは、木が立っている中で林床にスズタケがなくて見通しのよい広場を指す言葉ですよね。実は、ここは猟の狙い場で、獲物を狙い撃ちできるところですね。ところが、獲物は「ホーバ」を避けて逃げるのです。このように地形をあらわす言葉はいっぱいあって、それで、獣を追い出し役の「勢子」と、待ち伏せ役の「マブシ」の意志の疎通が図られるのです。それで、いよいよ狩に入るわけですが、団体の狩の場合は、先ずトギリが立つのですね。

尾前善則
 トギリというのは、カクラといって一定の範囲があるんですが、その一定の範囲を獲物が入っとりゃせんかというて見て回るんです。ぐるっと踏みまわして、そして、足跡を見つければ、入った足跡と出た足跡を数える。そうするとカクラにおるかどうかがわかります。また、たとえば「五右衛門まぶし」からシシは入っとるよ、というと猟師さんたちは、「五右衛門まぶし」から入ったなら「ふたりまぶし」のところにおるねえ、ということがちゃんと分かるんですよ。大体予測がたつわけです。だから、トギリの人達は一回り早く行って調べて、帰ってきて全部話します。すると、「勢子」はどこから入って、「マブシ」はどこに立ったらいいかを決めて手配をするのです。
 私達は、大体兄弟二人で狩をしますから、仮に、犬を私が三匹、弟が三匹連れて山に行ったなら、トギリをやらんでもいいわけですよ。私は「カマデ」の方から、弟は「カマサキ」から入って、今、何処何処におると連絡を取る。連絡が取れん時は、連絡の取れる所まで行って時間を計っておる。猪を起こしてから、もうどれぐらい経つから何処に来ると、犬はどれが先に付いとるよと(どの犬が先頭かということ)。ははぁ、あれが付いたら、もう、どれくらいの時間にはこっちに来る、というのが分かるんですね。そこが一番秘伝ですよ。どの犬が付いて来るか分からんようでは行きようがない。だから、犬によりけりというのはそこなんですよ。

秋本 治
犬の鳴き声で獲物の状態がわかるのでしょう。

尾前善則
 そうです。犬がもう接近していたなら、ひきつけるような声がする。キャンキャンいうて行かんですよ。キャンキャンいう内は、獲物となんぼ離れているかも分からん。ひきつけるような声がしたら、もう鹿なんかだと「ギーッ」というて鳴き出します。そしたら、よおし、これからもういくらも行かんでいいいと、それからは100メートル位しか行かんうちに、そこで捕まえておる。もういい犬になってくるとそうなる。そういう犬を持ったなら何十万かけても分けてくれといわれてもやれんですね。私達はそういう犬をつくるから犬を買ったことも売ったこともないです。

秋本 治
 今は、犬に無線をつけて、猟師さんたちもお互いに無線で連絡を取り合っていますが、昔は無線がありませんから、勘と笛ですよね。その笛の合図のしかたを教えてください。

尾前善則
 笛は、「タカウソ」と我々ではいいます。「タカウソ」というのは、「よーい、よーい」ていうと吹くわけですね。すると相手が聞こえたなら「よーい」と返す。それだけで分かるんです。「ははあ、どこにおるねえ」、と。「ははあ、どこで鳴ったからどれくらいのところに居るねえ」、と。そこが勉強していかなければわからんとこです。

秋本 治
 その「タカウソ」はどうやって作るのですか。

尾前善則
 「タカウソ」は、しの竹の節を切り取って作ります。桐の木に穴を開けて作ったりします。桐の木はいいですよ。あとは鉄砲の薬莢のケース、私どもは薬莢のケースばかりです。ケースも今のような自動銃のケースはだめですね。昔の真鍮のケースで、一番鳴るのは30番ですね。私たちは30番の銃ばかりを使ってきました。30番で猪は死ぬどかという人もいます。普通は24とか20番とか16番という口径の大きなものですね。でも、大砲で撃っても当たらにゃ猪は死なんですもんね。
 今は、皆んな自動の連発銃を持ちますが、どうも不思議ねえと思うのです。そして、獲物を見てから弾をこめて撃つ余裕がなからんと。それだけの技量を持って、腕を持って狩をする。私たちも、当らん時は当らんのですよ。やっぱり猪を起しだちなんかは、目にもとまらんような速さで逃げますからねえ。それを撃つわけですが、それが『のさらん福は願い申さん』というのですねえ。獲れんでも楽しんで幸いと思うし、獲れたら獲れたで幸いということなんです。だから、一つも危ない目に遭わんで、危険な目に遭わん、事故も起さんですね。それで、やっぱ獲物が見えてから弾をつめて確認して撃っていいわけなんです。そこが今は変わってきている。

秋本 治
 最近の猟銃事故は、そういう基本がなっていないことが原因と思われるものが多いですね。安全装置をかけておけば安全と思い込んで弾を抜かずにいる。それがそのままで、手が滑って銃をストンと落としただけで暴発したなんてことを聞きますですねえ。
 それで、獲物をしとめて「ヤマガタナ」を当てて唱えごとをして、「フャアフリ」を切り取って、山ノ神に「ヤタテ」を撃って、解体して内臓を取り出して、「サンジン」を山の神にささげて、犬に内臓を食べさせて、持ち帰ってコウザキさまにささげて、このように食べるまでの一連の作法を詳しくお聞ききしますと、それだけでもう1〜2時間かかってしまいます。後は、椎葉クニ子さんも控えいらっしゃいますので、ここで大事な部分、「オコゼ祀り」について伺いたいと思います。

尾前善則
 オコゼまつりというのは、先ず、猟師にはウウリュウシとコリュウシというのがおったんですねえ。私が、何処でだったかウウリュウシとコリュウシというのは、どっちがいい猟師かと聞いたら、ウウリュウシの方がいい猟師という人がいたんですねえ。ウウリュウシは欲が深い人で、コリュウシは欲が無い猟師のことです。オコゼまつりの始まりはそこからなんです。ウウリュウシとコリュウシの分かれ目は。
 昔、あるところにウウリュウシとコリュウシがおったのですが、ウウリュウシが先に猟に入ったわけです。その時、ちょうど山の神のお産の場所へ通りかかったのです。山の神は女の神さまですからお産をするのですねえ。そこで、山ノ神は、「私は、こういうわけで、今お産をして、食べ物が無いから何か授けていただけないか」と尋ねてきた。するとウウリュウシは「貴方のような汚れた人にやる物はない」といって過ぎ去って行った、と。その後にコリュウシが来た。山の神さんは同じように尋ねた。するとコリュウシは、「貴方のような人に出会うかもしれないのでこういう物を持っている」と差し上げた。それが今で言う「どぶろく」なんですね。甘酒。それと「ごくうもち」という団子を一緒に差し出したのです。
 そしたら山の神さんが、「先に来たウウリュウシは何も出さなかった」と。「貴方は、そういうふうにしてもらったから、毎日これから猟に行きなさい」と。「毎日猟に行けば毎日獲物を差し上げます。先に来たウウリュウシには鹿の子一匹差し上げません」と、そういうふうにいったということです。
 それから、ウウリュウシは毎日山に行っても猟はなかったそうです。そしてコリュウシは、毎日猟があって全部食べきらんから、余りを売りに行ったわけです。コリュウシの奥さんは、ショウケに肉を入れて頭に乗せて売りに行っていた。そういう暮らしが続いたわけですが、ある時、その途中に川があって橋が架かっていて、その橋から川を覗いてみたら、自分の姿が水鏡に映っていた。よく見るとショウケの竹でこすれて頭の毛は抜けてしまい醜い姿になって映っていた。その水鏡を見て、こんなに頭の毛が抜けて、女でありながらこれは恥ずかしい、みっともない姿になったということで、奥さんが身投げをしたということです。その身投げをした亡き骸が海に流れ着いてオコゼの魚になったんです。それでコリュウシは毎日毎日、妻が帰ってこないと探したけれど見つからなくて、それでその醜いオコゼを持って帰って祀ったのがオコゼ祭りになっとる訳です。まぁ私も親父さんから聞いた話しですけれど。

秋本 治
 このお話は、獲物を多く獲り過ぎたから奥さんはオコゼになったのですねえ。サカメグリしてもいけない、育てながら獲りなさいという中で、暮らしに必要なもの以上を獲ってはいけないと戒めたものではないでしょうか。自然循環の中の暮らしの作法を示しているように思います。
 さて、それでは、最後にもうひとつ「ネコと隠し玉」についてもお願いします。

 はい、それではネコの話をします。ネコは、ネコの日はないですね。干支に入ってないのはネコだけでしょう。ネコは昔から魔物というてあるのです。私は、今年から猟は止めましたが、弾を造る道具は鋳型から何まで持っています。全部弾は作っておりました。囲炉裏のところで鉛を溶かし、鋳型に流しこんで一発一発造るのですねえ。そこにネコがおって、一つ弾を造ればコクリとやって弾遊びをする、弾を数えおったと。そして最後の弾を作るまでネコが見届けていたので、今度はネコに見られないようにして隠し弾を作ったわけです。隠し弾というが、鉄の弾ですね。チョカの尻、鉄瓶の尻に「チ」がついておるんです。あれで隠し弾を作った。
 そして、猟に行ったらそこに大きなモノがおった。それで、なんぼ撃っても、当たってもなんともない。倒れないのですね。それで、今度は向かってきたので隠し弾の一発弾で撃ったんですね。そしたら倒れた。そして、帰ってみたら木戸口から血がずーっと垂れておったという話なんです。それが自分とこのネコだったということなんですね。それだから、ネコに見られたら危ない。だから弾を作る時は、ネコがおる家では、どこにいるかとネコを探して捕まえて、ネコを押さえておって弾を作りよったとですよ。

秋本 治
 つまり、ネコは魔の世界に通じている動物だということですね。だから弾を作るのをネコに見られると、魔の世界にいくつ弾を作ったという情報がもれているということで、ネコに見られないようにして、ネコをシャットアウトして弾を造っていたというのですね。もっといろんなお話を聞きたいのですが、このあと椎葉クニ子さんのお話もありますので。

尾前善則
 皆さんに、お話したいことは、まだまだ一杯あるのですよ。猟は犬ですよ。私は、猪と格闘する犬を見るのが好きです。格闘している犬を見て、「うーん、この犬はまだまだ十両じゃねえ」と見る。「この犬は関脇にいったねえ」と見る。そういうふうに犬の成長を見極めること、これが非常に楽しみなんですねえ。
 そして、獲れた時は、まず内臓を出して犬にソーヤ(血液)をやる。飯ごうの蓋で汲んで、最初に一番の年犬から、一番先輩の犬から順番にやるわけです。そして、今度は自分が飲む、湯飲みひとつ位飲みます。獲ってすぐの猪の血はそりゃあきれいなものですよ。内膜より内にしか血はないから。飲むとちょっと脂がうすく浮いていて生温いですね。そうしたら、もうヒビ、アカギレなんかはつるつる。体はぬくぬくですよ。猪の血が嫌な人は鹿でもいいですよ。だが鹿の血はもう何の味もせんです。ま、そんなところで。(拍手)

秋本 治
 どうもありがとうございます。まあ「後狩詞記」も、こうしたお話をまとめてあるのですが、あれに書いてない部分もこのようにたくさんあるのですねえ。「オコゼ」まつりについても、「オコゼまつりという奇習がある」というくらいにしかなかったように思いますが、その内容は、まさに暮らしの作法であり、哲学の世界のような気がします。再度尾前善則さんにお礼の拍手をお願いします。(拍手)


セッション2 卓話 ―椎葉の焼き畑― 「これよりこのヤボに火を入れ申す」

講師 椎葉クニ子氏(焼畑伝承者)
聞手 秋本 治(霧立越の歴史と自然を考える会会長)

秋本 治
 お待たせしました。それでは「椎葉の焼き畑農法」ということで椎葉クニ子さんにお話をお願いします。椎葉クニ子さんは、尾前善則さんと並んで椎葉を代表する顔でもありますが、今でも焼畑農法を実践継承されています。古来から伝承されている椎葉の焼畑は、これも狩の作法と同じように、季節の見極め、唱えごとから火の入れ方、種の保存や植物の知識など深い技術が伝承されており、それらは、暮らしの作法や自然と共生するための哲学の世界を感じます。柳田国男は、椎葉の焼畑農法に大変感銘を受けて「椎葉ユートピア」なんて言葉も出てきたわけです。現在は「焼畑」という民宿も経営されています。それでは、椎葉クニ子さんよろしくお願いします。

椎葉クニ子
 皆さんこんばんは。どうもお世話になります。私は、焼畑は小学3年の頃からしておりましたが、嫁いでから、昭和22年から去年まで一年も休まんで61年間連続して焼畑をしてきました。焼畑は5500年前の農法といわれていますが、山を切って、枯かして、焼いて、そこに一年目はソバ、二年目は穂ものというてヒエ・アワ、三年目はアズキ、四年目はダイズというふうに輪作をする農法です。
 8月10日前後から標高に合わせて種まきをせんといかんから、標高が1000メートルなら、今土用に入っているでしょう。土用を4日位かけないと実に入らんです。秋になって一番霜が降りたら霜に合うから、そういうふうで、標高によって作業をしていく農法です。
 焼畑は、椎葉では傾斜がこんなしてきついから、さっき猟師さんもいったように、鎌を持った右手のほうがカマデ、鎌の刃の先のほうがカマサキ。焼畑もカマデ、カマサキ、ヨコガシラ、ヨコジリでいくからね。
 天気予報を鳥の声とか「アオバイ」とかで見たら今日はものすご多いから、今日焼こうかなぁと、「明日焼こうかと思うヤボは今日焼け」という言葉があるから、昼間に行ってカダチ(防火線のこと)をつくるんですよ。そして夜、主人と二人で行ってヨコガシラの真ん中から一人はカマデに火をつけて下る。もう一人はカマサキから火をつけて下る。ずっと両方から一の字になるように火をつけて降りて、どんどんどんどんつけてヨコジリまでつけたらもう真ん中ごろまで焼けとるから、なんぼヨコジリから火が荒くなっても上の山には火が点かん(山火事にならない)というような仕事をするんです。それをしたら残り火があるうちに、あくる日はソバの種を蒔きます。また、火入れの時は、山の神様や水神様にちゃんとお願いをします。朝、弁当を持って、秀行じぃさんは焼酎が好きだったから焼酎を持って行って、朝の内に「山の神様、水神様、火の神様にあげ申す」と上げておいて作業をしよったです。
 火を入れる時は「火入れの詞(ことば)」があります。「これよりこのヤボに火を入れ申す。ヘビ・ワクドウ、ムシケラども早々に立ち退き給え。山ノ神様、火の神様、どうぞ火が余らぬよう、また、焼け残りもないように御守りやってたもうれ」という詞(ことば)をしてから二人で両方に火をつけて、さっきいうたようにして焼くのです。ワクドウとはガマガエルのことで、早々に逃げてくれちゅうことです。
 ソバは75日の夕飯に間に合うちゅう作物で、成長が早いから8月10日前後に蒔いても10月の末から11月にはもう収穫があるんですよ。そして種蒔きするとソバの種が「俺が恥隠すより我が恥隠せ」(私の恥を隠すよりあなたの恥を隠しなさい)というそうです。木の株とかに種があっても手でこうして動かしたらもうそれで発芽する。だから、今、息子達は、若い者を頼んでホウキで掃わくだけです。そしでもちゃんと発芽する。
そして、二年目はどうして「穂もの」を蒔かにゃいかんかちゅうのは、まだ土地が固いからです。ソバは、耕さんでホウキで掃わいただけだから。稗が発芽する時は土地が固いところでないと夕立なんかがきたら抜けるんですよ。だから二年目の焼畑では一本も抜けん。だからこの順番は変えることができません。そして、斜面が急で木の株やらあるから機械が全然使われん。やっぱこの手でしないとダメですね。こうして二年目には穂ものを蒔く。
三年目はアズキを蒔きます。二年目には雑草がないのに三年目は旧暦の五月に蒔きますが牛を追い込んでも見えないほどに、もの凄く高い草木が茂ります。タカイチゴ(クマイチゴ)ちゅうて、いちごのこんな大きなものが繁殖して、親牛が入っても分からんくらい茂るんです。それを唐鍬という鍬で全部抜いてとってしまいます。そして、アズキは「ねこぶく」八枚刺し通すという力があるのです。
「ねこぶく」というムシロは、縄を縫うて縄で編んだムシロです。人吉の人ならよう知っとりますよ。私達の若い頃から「ねこぶく」は米なんかの収穫の時に使いよったですよ。それを八枚重ねても刺し通すということです。なんでアズキはそんなに強いかなと思ってよく見ると、深い枯れた雑草が積み重なっている中を見ると自分の頭を曲げて出てきますよ。下からずーっと上がって、上にでても、まだ上に枯れ草が積み重なっていれば、頭を曲げたまま上がる。そうして一番上にでてからこうべを上げる。だからねこぶく八枚でも十枚でも刺し通しても、上に上がらんうちは芽が開かない。それで小豆は三年目でないとどうしてもダメです。
 そして四年目は、ダイズです。焼畑は三年目は雑草の高いものが殖えて牛を追い込んでも分からんようにありますが、今度は四年目になると雑草の高いのが無くなります。ジシバリという植物が地面を這い回ります。摘み切ったらミルクが出るような草です。だから今度はダイズにします。ダイズは、最初、地上に出るときは、豆が二つに分かれて双葉ができます。だから箸ぐらいのものがあっても、この材木をどんなにして担ぎ上げようかというのがダイズの言い分。だから雑草がもう少なくなってからでないとダイズはダメですよ。上畑でも、減反の田ん中でもダイズはものすごよくできますよ。このようにして焼畑の灰の力で四年間はようできますよ。
 そういう焼畑は、毎年四枚(四ヶ所)無いといかんから、ソバ、ヒエ、アズキ、ダイズと。年間四枚無いと輪作出来ない。穂ものはアワとヒエですからアワはアワ、ヒエはヒエとして作りよったです。だけど今はもう種を切らさん為に50アールある時はヒエをちょっと作って、アワをいっぱい作るとか、一枚の畑に全部蒔くなどしています。でもこのヒエちゅうのは、こういう木造の蔵に穂だけちぎって入れて置くと100年でも保存が利きます。入れ物に入れたらダメですよ。私とこの蔵にはまだ50年ものから入っとりますがどんなにもないですよ。
 それでヒエは、アマという竹で編んだものに入れて、下から焚き火で乾燥させるのです。焚き火の木も選ばんといかんです。木はシロモジちゅう木が一番。毒でないから皮を食べてもいいし堅木です。ヒエの乾燥にはそれが一番もってこいなんです。それとかカシノキとかクリノキのコウソン(枯れて芯だけが残ったもの)なら、ちゃんとヒエが乾燥できる。もの凄く手もかかるけれども血圧にもアトピーにもいいから大切にします。
 終戦後の食糧難の時、お金をサックに一杯入れてかるう(背負う)ほど持っとっても、何も無い時代が来たのです。病院の先生だって土地を借りて人を雇うて焼畑でヒエを作っていたですよ。そんな時も私とこの実家の蔵には何石というヒエが詰まっちょったから。焼畑農法をみんなが知っていたら、どんな激動の時代が来ても飢えることはないですよね。ヒエは、ほんとにものすごく保存が利きます。全然虫が付かん。そして焚き火で乾燥するから何十年経ったものでも香ばしくて美味しいですもんね。

秋本 治
 焼畑の焼く時期とか種蒔きの時期は何を目安にされますか。

椎葉クニ子
 ソバは、旧暦の6月23日前後です。新暦では8月の10日前後に火入れしたらOKですよ。ヒエの蒔きどきちゅうと、私とこ辺では「やまゃもやし」という鳥がおりますよ。「オトトー、オトトー」ちゅうて呼ぶ声がするのが。その鳥が鳴き出したらヒエの蒔きどきなんです。
 その鳥はなんで「オトトー、オトトー」という鳥になったかちゅう昔話もついでにしましょうか。それはね、兄弟がおって、弟が山芋を毎日掘ってお兄さんに食べさせよったそうです。そしたら、お兄さんが「俺にこういう山芋を毎日食わせよるが、弟はもっといいところを食いよるはず」というた。そうしたら弟は首ちゅうたのです。山芋の首ちゅうところは硬くておいしゅうないところです。そうして弟が山芋を喉に詰まらせて亡くなった。それでお兄さんが弟のお腹を解剖したら山芋の首ばっかり食べていて、喉に詰まらせて亡くなった。だから鳥になって「すまじゃった」(すまなかった)ちゅうところで「オトトーオトトー」いうて鳴くということです。それで、「オトトー」が来たら稗の蒔きどきちゅうてから種を蒔きます。さっきから話しがあったように山奥の峠のことをタオ、そこの下がサエ、そして標高が900くらいあるとこをコウマとそういうふうにして呼び方があるんですよ。そこにオトトーが来たから稗蒔こうかなぁちゅうことです。
 今度は、雨が降る時には山鳩が悲しい声で鳴きます。「オヤーォヤーオ」ちゅうて奥山で鳴きます。そうすると本鳩は「デデッポッポ」って恐い声で鳴きます。山鳩の悲しい鳴き声がしたら稗の蒔きどきちゅうてですね。あと明日の天気予報は「アオバイ」ちゅうのが戸を開けちょったらブンブンちゅうて家に入ってきたら、明日は必ず雨ちゅうことですね。だから焼畑なんかも明日焼こうかと思っても、「アオバイ」が出たきたら今晩焼こうかちゅうて、秀行じいさんと二人で行って焼いていたです。昼間にちゃんとカダって(防火線を作って)こしらえとるから、「アオバイ」の天気予報が出たので、焼いておくと、あくる日は雨が降って、「良かったねー」ちゅうことになる。

秋本 治
 鳥や昆虫が季節や天気予報を知らせてくれるということですが、先ほどの「アオバイ」とは、あの青い色をした大きいハエ、「キンバイ」のことでしょうか。それと「オヤーォヤーオ」と寂しそうに鳴く山鳩は「アオバト」で、「デデッポッポ」と鳴く本鳩とおっしゃる鳥は「ドバト」ではないかと思います。分からないのは「オトトー、オトトー」と鳴く「やまゃもやし」ですね。この鳥は何でしょうか。「フクロウ」でしょうか。

椎葉クニ子
 「フクロウ」かな、「フクロウ」ちゅうのは「ゴロクトゴーシュー」と晩方鳴くじゃないですか。「ゴロクトゴーシュー、ハナクソクワンカイ」ちゅうて、そんないうて付け加えて笑いおったですよ。「ムギツキ」ちゅう鳥もいるから、ものすごく羽が広くてパウワパウワして舞う、「ムギツキカモン」ともいうですね。「クワンサンカケタカ」という「クワンサン鳥」も鳴くですね。
 私ところの方言でブナのことを「クミァ」といいます。「ワサグミァ」というて一番早いのが先ほどからいう「タオ」に行ったときが「サエ」も「コウマ」もないヒエ蒔きの実時というています。(※ブナの若芽・新緑が峠まで芽吹いた時のことか)
 そうして私たちは、鳥の声とか虫ケラとか木の芽とかで季節を決めてきましたよ。暦より合うからね。自然で生きてきた焼畑は皆がしてきたから。世界中ですよ。私とこには25カ国から来ました。インドネシアなんかはカダチ(防火帯)もなんもせんで、いきなり火を入れて山いっぱい焼けていくとこまで焼くそうですよ。25カ国から来た先生は、農学博士とか村長さんとかばっかしだけど、どこもやっぱり一緒です。焼畑は肥料なんかいらんから、また四年間しか作らんから焼灰の力だけでよかです。

黒木勝実
 今、農学博士の話が出ました。かなり前のことですが、宮崎大学の先生が来てヒエの実っているのを見て農薬も肥料も使っていない焼畑の話を聞きました。すると「おばあちゃん、肥料を使うともっと収量が上がるはずよ」と提案したのです。おばあちゃんは「とんでもない、うちは昔から農薬も肥料も使わないから、先生がされるならどうぞ自由にうちの山を使ってやってみてください」といいました。すると先生は喜んで学生たちを連れてきて焼畑の収穫の競争をしたわけです。今度こそは勝とうと10年くらい続いたでしょうか。それでも全然勝ちませんでした。それから「この焼畑農法はすばらしい」と、それ以来その先生はどこでもこの話をされるようになった。古代の「循環農法」には現代の農法では絶対勝たないと今もいわれています。

秋本 治
 お話の最初の方で、「カダチを作って、ヨコガシラからカマデとカマサキに分かれて火を入れて一の字になるように降りてヨコジリまで火をつけると荒火になっても大丈夫」、というようなことをおっしゃいました。広い山に火を入れるのですよ、しかも二人だけで。火を入れるには火を消すことができなければなりません。インドネシアは焼けていくとこまで焼くというお話でしたが、山火事をおこしたら大変です。
 実は、この「ヨコガシラからカマデとカマサキに分かれて火をつけて一の字になるように降りていく」ということは、凄い技術だと思うのです。カダチとは防火線のことですが、いくらしっかりと広い防火帯を作っても、勢いよく燃える火は防火帯を一気に越えてしまうでしょう。だから、火は火で以て消していくというやり方ですね。
 神話にあります。ヤマトタケルノミコトが火責めにあったとき、火の手が近づいてくるのを、自分側の方から草をなぎ倒して火をつけ、近づく火を迎え火で消して助かったお話があります。このとき草を刈り取った刀のことを「草薙の剣」といいますね。一旦燃え尽くした後は燃えないのですね。こうした技法だと思います。

椎葉クニ子
 そうです。もう61年になりますが一回も火事を起こしたことがないですよ。ムシケラも焼き殺しとるところを見たことがない。一回だけ、こんな大きな木の株に上っていた小指くらいの蛇が一回だけ焼け死んどるのを見ただけ。やっぱり唱えごとが聞こえたようですよ。(笑い)
 千年コバちゅう例えがあります。この山は千年経っちょるよというとこを焼き畑にしたら、もう草も何も生えんで作物だけさらさらしてものすごうよくできます。虫もつかんですよ。  終戦後の食料のない時代は、三・一づくりちゅうのがはやりました。土地がない人は地主さんから土地を借りて三分の一は地主さんにやる。全部収穫して三俵あったときに一俵地主さんにやる。私達も四軒でスギ山を切って出したところを共同で焼畑をしたこともあります。ソバとかアズキ蒔きちゅうのは一日で終らないといかんから、10人で焼いて40人で耕していくのです。お父さん達が3人で種を蒔いて、植えるとじゃない、ただばら蒔いて、後ろから40人で土を掛けて追うて行くんです。あれはほんと、今でもそこを通ると思い出します。私がちょうど18歳の時でした。そして分配は三分の一を地主さんにやって、残りを4軒で分けてました。
 嫁いできてからは、主人と二人で焼畑を続けましたが山が広いので、最初に焼いたところにまだ戻ってきません。この焼畑農法を知っていればどんな食糧難の時代が来ても大丈夫ですよ。

綾部正哉
 今日皆さんこの鶴富屋敷でご馳走を頂いた中で、先ほど「メロンとビールだけはこの椎葉でできた物ではございません。」という女将さんの説明がありました。全てがここでできた物、この村で採れた物、そういう素材での豪華なグルメでした。
 ところが今、日本は自給率の問題もありますが、外国から輸入する物に殺虫剤などいろんなものが入っていたり、大変な問題が起きています。「もうウナギも食えんか」と。肉も野菜も魚もどうだとか、やれウソの表示だとか。今、日本は大変な時期に来ているぞということですね。
 そのような時、この椎葉では、そういうことに対して微動だにしない村であるというふうに思ったところです。それで、実は食事をしながら話していたんですが、どんどん危険な食物が日本中を駆け巡ればいいと、その時やっと椎葉の、このスローフード、こういう物がもう一ぺん見直されるんだと。そうでない限りこういう自然を相手にした、また鳥の声や、あるいは草花と自然と一緒になって作っていく食文化というのは、これが日本の良さなんだけど、我々日本人はまだそこまで気付いていないのじゃないかと思うんですね。
 やがて21世紀は、食料難の時代がくるかもしれません。足元をしっかり見つめたらどうだろうかという話しをしていたところです。

秋本 治
 はい、ありがとうございました。まだまだお話は尽きないのでございますが、明日も大川内の庄屋、中瀬淳邸、不土野の庄屋、鶴千代邸跡、総括のパネルディスカッションなど予定がいっぱいありますので、この続きは、また明日の道中にでも引き継ぐことにして、本日はこれで締めさしていただきます。尾前善則さん、椎葉クニ子さん、長時間にわたり大変すばらしいお話しを頂きありがとうございました。盛大な拍手を持って締めたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)


※ 参考
■平成六年三月、椎葉村発行の「椎葉村史」において自然保護の項で焼畑については以下のように記載されている。
・幕藩時代は、幕府が用材を伐り出す目的から、焼畑用の山林は一定の範囲が決められていた。
・明治時代になり、体制の変化から村民は競争的に焼畑をした。

■焼畑による森林の荒廃を心配した村は、明治25年に以下のような「椎葉村森林保護法」を制定した。
一、良材ノ叢生セル森林ヲ愛護し、焚焼セザル事
一、水源涵養ニ必要ナル森林ヲ、焚焼セザル事
一、将来焼畑トスベキ地所ト、木材林とナスベキ地所トノ区域ヲ確立スル事
一、森林地ト規定シタル場所ハ、植林ノ方法ヲ講ズル事

■明治37年には、宮崎県も焼畑を禁止するよう郡役所に指導方を命じた。これに対して郡役所は、次のように答申している。
「椎葉・諸塚ノ如キハ、県下一〜二ニ位スル山地ニテ、熟畑極メテ少ナク其民有スル山林ハ、凡テ焼畑トナリ居レリ。仮ニ彼等ニ焼畑ヲ禁シタリトセハ、其結果ハ労働ヲ禁ズルト同一ニシテ、焼畑ノ事業ニ従事セサレハ、他ニ植利的ノ途ナク、遂ニ生活シ能ハサルニ至ラン。」

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2009.03.10〜