第10回・霧立越シンポジウム 西南戦役130年
「西郷さんの歩いた脊梁山地を探る」
明治10年3月、田原坂の戦闘で破れた薩軍は、4月21日に矢部町(現在の山都町浜町)へ集結し、酒蔵で軍議を開きました。結論は「ひと先ず人吉へ引く」でした。官軍の矢部追撃を目前にして西郷隆盛は側近の村田新八、池上四郎を伴って4月22日に矢部を発し、九州の屋根、脊梁(せきりょう)山地を越え人吉に向かいました。宇野東?(はるかぜ)編「硝煙(しょうえん)弾雨(だんう)丁丑(ていちゅう)感舊録(かんきゅうろく)」の4月27日、人吉の項では「西郷隆盛は土手町永國寺に在りて人に面せざれども、時に潜行して近山に兎を狩り、或は夜間網を球磨川に投じて楽しみしことあり」との記述が見えます。ところが、矢部から人吉までの退路については、他のどのような文書にもその足取りを伝える記録を見ることができません。
西南戦役から130年、この空白の区間をそれぞれの地域に言い伝えられている話しを辿りながら、あの日あの時の日程に合わせて訪ねることにしました。
シンポジウムは、薩軍が矢部に集結した130年前と同じ日に同じ場所の酒蔵へ集結することから始まりました。
現在の浜町の割烹料理屋「本さつま屋」のご主人は、「矢部に駐屯した薩軍に仕出しを行ったため「薩摩屋」の屋号をもらったと言い伝えられている」という。その後「角薩摩屋」、「奥薩摩屋」など紛らわしい店がでてきたので、本家を表すため「本さつま屋」に改称したそうである。矢部に薩軍が侵入した時、浜町の人々は、食料調達や炊き出しなどで便宜を図って協力した。なぜこの地域では薩軍を大事にしたのでしょうか。それでは、さっそくパネルディスカッションでそのなぞも探ってみることにしましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
パネルディスカッション「矢部軍議から」
とき 平成19年4月21日
ところ 山都町千寿苑
パネリスト
山下泰雄氏(通潤酒造社長)
井澤るり子氏(九州ハイランドインストラクター協会)
飯星時春氏(矢部郷土史会)
岩永 博氏(山都町文化財保護委員長)
コーディネーター
秋本 治(霧立越の歴史と自然を考える会)
秋本 治
先ほど、通潤酒造の山下社長さんのご案内で、130年前の今日、西郷さんたちが軍議を開いたといわれる酒蔵を拝見させてもらいました。酒蔵の佇まいも当時を彷彿とさせるようなものが大切に保存されており、座敷から西郷さんが眺めたといわれる鶴、亀、蛙の庭の石などを見ていると、まさに縁側に西郷さんが腕を組んで座っているようなイメージが沸いたところでございます。
そのようなところで、当時に思いを馳せていただきながら、矢部軍議の話、浜町の話、馬見原の話、それから一之瀬越、霧立越というようなことで、曾爺さんや曾ばあさんたちから聞いたお話など、最初は広く話題を出して頂きながら、しだいに深めていくことができればというようなことを考えております。
まずは井澤さんからお願いしたいのですが、井澤さんは、九州ハイランドインストラクター協会に所属され、地域の歴史などにも造詣が深いとお聞きしています。井澤さんの子供の頃に、西南戦役とか西郷隆盛とかいうお話を聞いたことがあったらお聞かせください。
井澤るり子
西南戦争といっても何もイメージがわきません。けれども、この「西南戦争130年」とか「西郷隆盛」という言葉を聞いた時、ふっと思い出したのが歌ですね、小さい頃歌っていたのを思い出したのです。
「一かけ、二かけ、三をかけ、四かけ、五かけの橋の上、橋の欄干腰掛けて、はるかかなたを眺むれば、17、8の姉さんが片手に花持ち線香持ち、姉さん姉さんどこ行くの、私は九州鹿児島の西郷隆盛娘です。明治10年戦争で切腹なされた父親のお墓参りに参ります。お墓の前に手を合わせ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ジャンケンポン」って言っていたようなことをちょっと思い出しましてね。子どもの頃この歌を歌っていたかはちょっとわかりませんけど、なんか遠くにあっても、そのときは西郷さんっていう人が、自分の近くの所に墓を持っている人だなーぐらいの感覚だったんですよね。
それが大人になって、教科書で見るようになり、あちこち出かけると西南戦争に関係のあるような所に出会います。いろんな話を聞きます。今日ここに座っているのは、皆さんの話を聞けるから参加しますと言っただけなのでちょっと緊張しています。一緒に楽しみながらお話していただけたら、と思います。よろしくお願いします。
秋本 治
ありがとうございました。すごいですね、全部ちゃんと歌えるというのは。私も子供の頃聞いているのですが、その歌は地域によっていろいろ違う部分があるのでしょうかね。続いて飯星さんお願いします。飯星さんは、地元の矢部郷土史会に所属され、西南戦役に詳しくていらっしゃいます。
飯星時春
今日は、なんでん知っとることをしゃべってくれ、ということで、なんでん知っとることを話をして、それをまとめていろいろ検討されると思いますので、なんでん知っとる分だけお話させていただきたいと思います。
私たちは老人大学で、ここにおいでの林先生に10年間いろいろ勉強させていただいて、西郷隆盛が戦陣を起こした あるいはまたその街道を人吉にたどった道を歩きながら、本当に一生懸命その道を探したり、歩いたりしたことがございまして、そういったものから西南の役に非常に興味を持つようになった一人でございます。
私が西南戦争を知って初めてむごいなと思いましたのは、御船の戦いに「御船で戦争があったげな、そらぁひどかったそうですよ。」というふうな話からいろいろ御船の戦跡を見てまいりました時です。駒返とか盗人塚山とか、本当に戦闘で山々が連なっとるところに陣取ったと言われます。
まず、皆さんご存じのように田原坂で負けまして、田原坂をぶんどられましてから、木山に退いた桐野利秋は、どうでん、もういっぺん、どげんかせないかん、ということで 戦いを挑んだそうでございまして、それが益城の戦いであったり、御船の戦いであったりしたそうでございます。
御船の戦いのことを、その戦地を見てまいりましたのでお話をさせてもらいますと、御船での戦いは非常にひどくて3月の20日午前7時から 10時ごろまで、戦いがあったそうでございます。
古閑俊雄あるいはさっきお話がございました 佐々友房という方が兵糧なり、あるいは兵器を全部ひとところに山のように積んでおかれましたので、それは、もし負けたときはどうしますか、ということでずいぶんなだめたけれどもそれが聞き入れられずに、全部そこに置いて戦争がおっぱじまりまして、そして10時頃までにけりが付いたそうでございまして、その足で全部矢部町に引き上げたということでございます。
そのときの模様をちょっとお話します。御船側に御舟神社がありますね、その神社の左に広い渕がありまして、その渕を通るときに官軍の銃弾がカモを撃つように川の岸からねらいを定めており、あの川が血の海となるように、皆んな怪我を負って矢部に逃げざるを得なかったひどいひどい戦いだったそうでございます。
御船の墓地の上に、こんなにたくさんお果てになったのかというぐらいに、たくさんの墓が御船の墓地にありますけれども。この犠牲は薩軍だけでも80名死んでおる。あるいは80名負傷しておるというような記録があり、それはそれはひどい戦いで帰って来たそうであります。
田小野に行きますと三人墓地というのがありまして、小さなお墓ですけれどもお花が生けられて大事に供養してあります。それからまたそこの上に登ってみますと、十田里というところの和田さんという人のお墓に、三人の人たちが葬られているというようなことで墓札が立っております。これは林先生からご指導を受けて見てまいりましたが、そのころ非常に賊軍と官軍ということのけじめがひどくて、賊軍をかくまうことの御法度は本当にすごいものだったということでございます。それをあえて自分の墓に葬ったということはすごい勇気のいることだったと思います。それをちゃんと和田さんという人は自分の墓に三人墓地というようなことで、きれいにお奉りしてあります。
そのようにして、御船の戦いに敗れた人々が、矢部にどーっとなだれ込んできた。田小野に行ってみますと、ここには鉄砲もありました。その墓地のすぐ前でありました。そういったことを学んでまいりましたが、それはそれはすごい血まみれになって、矢部に逃げて帰られた模様が言われています。
その人たちはどのようにして治療が行われたかということは、いろいろ現地で私が見た限りでは、農家の畳を全部上げて、そこに皆んな寝かせて、そして皆さんたちが介抱したというふうに言われておりますが、どこでその介抱がなされたかはわかりません。皆さんたちがご存じだったら教えていただければありがたいと思っております。
このようにして矢部の人たちはそういう傷だらけの人たちを葬ったり、あるいは治療したり、あるいはさっきお話がありましたように今後の行きようを考えたりしたそうでございます。以上知っている範囲で長くなりましたが、失礼しました。
秋本 治
非常に生々しいような、具体的なお話をいただいてありがとうございました。薩軍は、そういうことで浜町に集結して逃げ切るわけですけれども、後ほど、また詳しくお聞きしたいと思います。ここで、先ほどの井澤さんの歌のことを少し押さえておきたいのですが、歌は地域によっていろんな歌詞が違うのでしょうか。
会場(江口)
実は私は南州残影という本をネットで買いました。この本の後ろの方に井澤さんが歌われました歌が載っているんですね。これを見たとたんに、これは小さいときに実際に私どもが歌ったり聴いたりしていたと思ったものです。これを歌っていた方が私の横にいる方の奥さんで、出身は大阪の方なんですね。大阪なんで「えっ、何で」と。今、井澤さんが歌われたように同じフレーズの歌詞なんですね。これは全国にわらべうたとして広がっていたんではなかろうかと思いますね。
会場(松村)
父の祖父が右足に重傷を負ってということで、霧立越のシンポジウムの時に申し上げましたが、こんなに大きな会になって大変嬉しく思っております。今の歌なんですが、大分の方で同じ唄を歌っていました。「姉さん姉さんどこ行くの?私は九州鹿児島で切腹なされた父上のお墓参りに参ります。」と歌ってました。
秋本 治
いろんな地域で全国的に歌われていたというのはいったいなんなんでしょうね。このことでまた何かありましたら、後ほどコメントをお願いしたいと思います。
今、会場からお話頂いた方ですが、先ほど飯星さんの御船の戦いのお話の中で盗人塚の戦いが出てきました。ちょうどそこで松村勝三という人が被弾したと佐々友房は書いていますが、その方が、お父さんのそ祖父に当たられる方ですか、実際銃弾を被弾したまま霧立越を歩いたということですが、松村さんすみません、続けてお願いします。
会場(松村)
今大分に住んでおりますが、先祖は熊本の京町におりまして、熊本城が焼ける直前に鹿本郡の植木町の方に移転しました。そういうことで田原坂に近い方に移転したようなことで、そのころ松村勝三は私の祖父になりますが、23歳で石工をしておりまして、田原坂と吉次峠、高瀬それと戦況が悪くなりましたが、熊本とここを石工として走り回っておりました。御船の戦いで、さきほども非常に戦闘がひどかったというお話がありましたように、ここで右手を撃たれまして、それからずっと馬見原の病院に入院しましてその後、峠を越えて人吉の方に行ったんですが、それから最後は延岡の方に行きまして、そこでも腿と右腕を2回もやられまして、そして残念無念にも降参したという記録が東京の市ヶ谷に監獄がありまして普通は10年間ということでしたが情状酌量で2年間、市ヶ谷の監獄におりまして、その間に戦中の記録を残そうということで獄中記を書いた記録がございます。
秋本 治
どうもありがとうございました。本当に遠い昔のような気がしますけれども、そういうようなお話を聞くと、ほんとにそんな昔話ではないのですね。血みどろになってここに集結してですね、今日見学してきました酒蔵でこれからどうするかと軍議を開いて話し合われたわけですけれど、そのへんのことを、何か聞かれていましたら山下さんお願いします。山下さんは、当時、軍議が行われたといわれる酒蔵、当時は備前屋と呼んでいましたが、そこを引き継がれて通潤酒造株式会社を経営されている社長さんです。
山下泰雄
先ほどから私の自宅の方を見て頂きまして、あの時お話ししたのがほとんでございますけれども、私の祖父がですね、祖父の祖母から聞いたという話で、なんしろ大きな人が輿に乗ってこらしたということでですね。どっかが大きくなってしまって馬には乗れなかったという話で輿に乗ってこらしたと、よく子をどもの頃祖父が話しておりました。
そういうかたちで西郷さんが来られたということは認識はしておりましたけれども、それがどういうことかというのはですね、あまりよく聞いてはおりません。その軍議とか、書き物が残っているとか、そういうことはございません。ただ御成の間という事で町の中心でもありますし、それからうちの隣の隣ぐらいに赤星病院ということで病院がございました。ちょうど浜町の中心でございますし、横町というところに高札場がありましてですね、馬を繋いだところでありますとかですね、一種の官庁的なところがございましたので、そこの中心をまず押さえて、病院とか町屋の大きな建物や蔵がいっぱいありましたので、そこら辺に皆さんお泊まりになったということではないかと思います。
残念ながら大きな人が来なはったということ以外は何も残っとらんで、書き物とか残っとればですね非常に活気があって今頃お宝鑑定団とか出せたんでしょうけども、残念ながらそういうのは何にも残っておりません。以上でございます。
秋本 治
ありがとうございます。今日拝見させて頂いたカエルとか亀とか座ってご覧になったんでしょうかね。西郷さんは、なかなかの大酒飲みだったというようなことも聞いたりするんですが、酒を実際飲んだんでしょうか。
山下泰雄
是非飲んでいただいてうちの宣伝に使いたいところですが、多分飲んでいらっしゃらないと思います。残念ながら細川公は当時、赤酒制限をしておりましたので、熊本の酒はほとんど赤酒でございました。今も正月にはお屠蘇は赤酒でございまして、細川さんあまり酒飲んで暴れるような人間は熊本にはおったらいかんというか、非常に熊本は武断の国でございますから、お酒についてはそういう制限を加えておりました。
私も田舎の方だから造っているのかなと思いましたけれども、ちょっと瑞鷹の吉村さんとかいろいろ聞いてみましたけれども、やっぱり県下隅々まで赤酒しかなかったというようなことでございましたので、赤酒を造っておってですね、多分西郷軍の口には、焼酎好きにはあの赤酒は合うとは、ちょっと無理ではなかったかなと思います。
それより田舎の方では、どぶろくとか造っておりましたので、そっちの焼酎の方が合ったのではないかと。ちなみにその後、官軍がいっぱい入ってきましたので熊本の酒造業は非常に衰えましてですね、その後、熊本の酒造研究所に野白さんという方がですね来られまして、その方が赤酒を改良して清酒に転換したと、これも西郷軍のおかげというか西郷軍が来てこんな酒は飲めるかと、その後官軍も熊本に来ましたらさすがに赤酒は飲めんということでですね灘からどんどんお酒が来たということで、そういうことで私ども酒造業にとりましても、西南戦争というのは非常に大きなエポックメーキングでございます。
会場(江口)
ちょっとすみません、鹿児島もですね赤酒の文化圏ですから、多分飲まれたと思います。
秋本 治
西郷さんも赤酒を飲まれた筈という説が出てきました(笑い)。焼酎を飲む人からすれば、甘ったるい水みたいなものかも知れませんが、他に無いわけですから、飲まれたかも知れませんね、なんたって酒蔵の中ですから、赤酒といえども酒のいい香りが漂っているはずですよね。山下さん、宣伝にも使われてよろしいのではないでしょうか。
ところで、浜町では、薩軍は食糧をどういうふうに調達したのでしょうか。
飯星時春
私の聞いている範囲内ですけれども、いろいろ会議のときには、ちゃんと薩摩屋で料理を作って差し上げたというような話を聴いております。いろいろ話を聴いてみますと、兵隊さんは町一帯にたむろしていたと思うんですが、この人たちは、あるいは民家でおごちそうになったりしていたんだと思います。その証拠はわかりません。もしそういうのがあればお聞かせください。
秋本 治
鶏を隠していたのが鳴き出したんじゃないかとか。
飯星時春
そうですね、これは林先生の本の中にある浜町の西南戦争という中でお読みしたことですけれども、鶏を盛んに追っかけ捕まえておる。「なんすっとね」と言ってただすと、「腹減った、こん刀と代えちくれ」と言って赤い鞘の刀を差し出して、鶏を追っかけたというような話が残っておるそうでございます。
あるいはまた、そういったことを聞いて、鶏を隠しておこうと思って、樽に入れて蓋をして隠していたら、そのときに限って「クックックッ」と鳴いて鶏を隠しているのがばれて、いろいろ騒がれたというような話も聞いております。ずいぶん兵隊さんたちは腹が減ってそのようなことをしていたんだと思います。
秋本 治
あの、林先生の書を読まれたということでございますが、実は西南戦争100年の時に、矢部町の広報紙に西南戦争を連載されていた林先生が会場に見えていらっしゃるということでございます。いらっしゃいますか。林先生にお話していただきたいと思います。
会場(林)
ちょっと、私は耳が遠くなりましたので、話がうまくかみ合わんかもしれませんけれども、お話させて頂きます。私は西郷さんが亡くなるまで最後の最後までを見に行きました。西南戦争がどうして起きたかというのはもう皆さんも十分ご承知と思いますが、この西郷さんの趣旨に賛同して、たくさんの熊本県人が、熊本隊、熊本共同体が参加をしました。
これは皆さんご承知と思いますが、この時の戦線は、大津から御船までの長い線で、西郷軍はめった切りに滅ぼされてしまいました。それから西郷軍がこちら矢部に来ましてから、皆さん十分ご承知のように、午前中にあったようにこれからどうするかということになったですね。やっぱりしょうがない。たくさんの味方が亡くなりましたけれども、自分の方の鹿児島から援軍を得て体制を整えてもう一戦やろうと、それには、どこが一番良いかというと人吉ということになりました。
話はまた変わりますが、官軍はもうすでに、三角にもおるし日奈久にも上陸するし、もう、本土の鹿児島にもおります。官軍は、浜町におるときに一気にここを攻めておりましたら、そのときに西南戦争も終わったかもしれませんけれども、やっぱり官軍の方も相当被害を受けていたので、帰るかという会議をしましたね。
そして西郷さんは、沢津に行きました。私はちょうど西南の役の100年に行きました。そして、沢津にある道具をおばちゃんが出してくれました。茶器と長い6尺くらいの杖を、西郷さんはなんとか言いましたか、といいますと、西郷さんはなんとも言いませんと。それからあの山を越しまして鞍岡のお寺に行って泊まりましたね。そういうところを私は老人大学というのを連れて、ずうっと人吉まで行きましたが、いろいろ眺めてみて、こういうところを霧立越というのをどうして通らならんかったか。それはみんな周囲から官軍がみんな囲まれている、日奈久にもおるし、本国にもおる、宮崎にもおるからあの険しいところを通ってまいりました。
私はバスで行きましたが、当時は高いところで標高1000メートルもあるような高いところを越して向こうに行きました。
一番最初はこういうはずではなかった。政府に物言うというようなことがあるというわけで、熊本を攻めまして、そうして敗退をしてだんだんだんだん、こちらに逃げてきました。ということで本当に霧立越を越すところの西郷さんは、何回も危ない目に合われて、皆んなが守って歩いたというところです。
秋本 治
今、お話し頂いたところは、実は明日、明後日にかけてその道を訪れようというようなことでございます。またそのときにるるお話を伺いたいと思います。
ということで、熊本隊はこの先の男成神社に集まって、そこでいろんなことがあったようですけれども、そのお話をしていただきたいと思います。
飯星時春
明日いろいろと、そこでお話もあろうと思いますから、かいつまんで要点だけ申し上げます。4月の21日は、西郷隆盛はお成りの間であります。23日には、さっき申し上げたようにたくさんの人たちが傷を負ったり、あるいは死んだりしましたので、熊本隊は男成神社で慰霊祭を行いました。昔は鳥居のところに壕がいくつもあり、今は茶園になっておりますがそこで防衛戦を敷きながら慰霊祭が行われたと聞いております。
古関俊雄、佐々友房の戦袍日記の中にありますように、ここで慰霊祭をして、さらに夕食を共にして、歌ったり叫んだりして、とにかくやりばなし歌ったり、騒動したということが書いてあります。だから慰霊祭と共に、そういう志気を高める行動をしたと思われます。今まで19小隊あったのを戦死者が多かったので、5中隊に編成変えして、そしてだいたい1個中隊が200人ぐらいだと思いますので、約1000人ぐらいがあそこに集まりまして慰霊祭をし、軍議をし、あるいは編成変えをしたと言われます。
その中で宮司、今の男成さんのご先祖であろうと思いますが、明日いろいろ宮司さんからお話があろうと思いますけれども、阿蘇家というのは惟という名前が付きまして、ちょうど35万石を擁した時代は、阿蘇惟豊の時代でございます。その兄貴が惟長という方でございまして、この方は九州の守護職ということで菊池家に養子に行きました。惟豊に大宮司を譲ってそして養子に行ったわけでございますが、なかなか折り合いが悪く、また帰ってまいりまして、今度は惟豊を追い出して大宮司になったという経緯がございます。
そういうふうな例を聞いて、あなたたちはここで一旦は負けたけれども、必ずこのお宮のご加護で、復興をしてまた敵討ちに出られますよ、元気を出しなさいというようなことで、宮司がなぐさめてくれた、勢いづけてくれたという記録が残っております。阿蘇家の姿をみなさんに伝えて元気を出させたというようなエピソードが残っておりますので、ご紹介しておきます。
秋本 治
ということで、明日、男成神社で飯開さんからまた詳しくお話をお伺いすることにしております。さて、それから今度は佐々友房の熊本隊は馬見原にやって来るんですね。なにか、ものすごい雨が降ったそうですが、その馬見原の模様を岩永さんにお話ししていただきたいと思います。岩永さんは、山都町文化財保護委員長でもあります。
岩永 博
馬見原と言いますと、記録的にあんまりないんですね。言い伝えが少しあります。私の祖母が慶応3年生まれなんです。西南戦争の時は、ちょうど10歳。ある程度記憶もできてくる頃ですね。よく言っていましたけれども、あの10年の戦争の時には西郷さんが来らす、て言うて、大人は炊き出しをした、子どもはみんな山へ逃がしたと。そしたところが西郷さんは緑川さんはっていかしたもん。そっで馬見原には他んもんが来たもんな。っていうようなことを話していました。
いろいろと、その後西南戦争のことを馬見原で聞いておりましたところ、馬見原に龍専寺っていうお寺があります。これ、清雲山龍専寺と言いますけれども、浄土真宗ながら禅宗寺で永平寺の末寺ですね、ここでちょっと話がそれますが、皆さんも聞かれたことあると思いますが、熊本に慶徳さんがあります。あそこに順正寺ていうお寺があります。馬見原の龍専寺がどうも禅宗のお寺だもんだから住職がいなくなって空き寺になっとったんですね、そこに入り込んで浄土真宗を広めたらしいんです。
慶徳さんっていう人は大分県の緒方の人です。あちこち馬見原あたりに住んで、ほかの所に行って布教をして、最後に熊本の河原町に順正寺というお寺を作ったんです。その馬見原の龍泉寺に薩摩軍の負傷兵がどやどやと来て、一番最初秋本会長が言われましたように、「病院にするから貸せ」というようなことで、畳を上げ、床だけにして病院として収容したんですね。
ところが2、3日したらまたどやどやと一人もいなくなった。その龍専寺にまつわりまして、龍専寺の前は今空き地になってますけれども、家が1軒建ってました。そこに亡くなった方を仮埋葬して逃げていったんです。戦後だいぶ後になって鹿児島から来て、ほじくり返されたということです。
それとずっと後になりますけれども、木を切って家を建てるときに、鉄砲の弾が食い込んでいて、カンナをかけると刃が欠けるというような木があったらしいです。戦争松なんかいう名前が残っておりまして、その松の木の周りにも薩軍の亡くなった方をかなり埋葬したらしいです。
最後の話になりますけれども、日向往還の最後に加勢群という部落がありますが、ここの部落の男はほとんど招集されまして薩摩軍の人夫にされまして、ずいぶん長い間帰って来んだったと、で家は大変難儀したと、住んでいたおばあさんから聞いたことがあります。
そのようなことでこの馬見原という所は、どうか祖母の口振りからしますと、薩摩軍の方に非常に肩入れしているような感じなんですね。ところが後からですね官軍の、いわゆる政府軍の川口武定という人が来ているんですけれども、この人は今の記帳兵、会計係で、この人が従征日記を残しているんですね。この日記によりますと、どうもこの人は片志田の方から浜町に来まして、浜町にしばらくおって、それから今度は馬見原の方に薩軍を追っかけて来たらしいんでけれども、その途中、道中記に日向往還を歩いていることを書いているんですね。
その印象として、この道は東海道にも勝るとも劣らないような立派な道であるということを書いているんです。この日記にはっきり書いてあります。今日は会長さんもお見えですけれども、日向往還顕彰会で毎年それは歩いているんですけれども、確かに昔はいい道だったんだろうという印象があります。
明日、山越えするグループと本道へバスで行くグループと分かれるそうでございますけれども、本道へ行かれる方は明日ご覧になられると思います。その川口さんという会計方の人が陣取った所は、新吉野家という、今、馬見原の熊本バスの停留所になっております。それと官軍の本営というのが新八代屋、これもお手元に写真が出ておりますけれども三階建ての立派な建物です。これは明治27年に建て替えた建物で、それ以前は向かい側に本営があったわけです。その本営の新八代屋と新吉野屋、これが隣り合わせで、馬見原は山中の小都会なりという印象で書いてありますね。馬見原は非常に栄えた町であったと。
それからもうひとつ、その新八代屋の本家に本八代屋というのがあります。ここに先代の工藤善蔵さんという方が私に、「ここに佐々友房が泊まったもんな、それから辺見十郎太が泊まったもんな」というようなことを言われたことがあります。佐々友房は後から代議士になったときに、お礼ばと言ってきて書を残したというようなことを聞いておりますけれども、その書は今どうなっているか私は存じません。それともうひとつ、薩摩軍を実質上指揮したの桐野利秋こと中村半次郎ですね、人斬りで有名な、この人が馬見原に泊まっているらしいんですが、どこに泊まったかわからないんです。で、今それを探しているんですけれども、とうてい探し出すのは不可能だろうと思います。というようなことでございます。私の知っている範囲ではこのくらいのことでございます。
秋本 治
是非どこ辺に泊まったか知りたいですね。兵卒は、野宿のようなかたちかもしれませんが、武将はそれぞれの家の中に泊まったはずですね。
それで日向往還の話が出ましたが、山下さんは観光協会でもご活躍をされて、日向往還の顕彰もされていると伺いましたが、この日向往還のルートをちょっと説明していただけますか。
山下泰雄
日向往還はですね、この中の方の資料に御船から馬見原まではマップがございましたので、このマップが一番詳しいと思います。今、第2回目のウォーキングをやっておりますけれども、八勢の眼鏡橋というところがスタートでございます。御船の八勢眼鏡橋からでございまして、御船からそれまでの道は今の445号線ではなくてですね、御船に門前川眼鏡橋というところがございまして、御船の街から熊本バスの自動車学校の横を通って出たら、そのまま吉無田高原の方へ上がって行く道をそのまま来まして、軍見坂というところをを通ってですね七滝中学校のところに来まして、八勢眼鏡橋に来ます。山の中をずっと通っておりますので、昔の旧道ですからあまり下の川沿いを行かずに、山の尾根をずっと歩いております。どっちかというとちょうど矢部の高速道路ができますけれども、その高速道路に近いような感じのルートになってくると思いますけれども、御船から行くと最短の距離になると思います。
それから矢部の眼鏡橋を通ってですね、途中には、先ほど飯星さんが言われましたけれども、薩軍の兵隊さんが亡くなられた方をですね三人の墓と言いまして、一緒にお奉りしてですね、自分の墓に入れられたところのお墓もございまして、途中でそのような薩軍の史跡もございます。それから途中赤子谷の石畳とかですね、ここら辺はなかなか野砲隊が通らなかったんで分解して登ったとかですね、そういう大砲軍が登れなかった坂のところもございます。
途中、石橋が結構ございます。この石橋は話がちょっとそれますけれども、熊本の肥後の石工が鹿児島に行きまして、甲突川の橋とか架けておりますんで、ちょうど薩軍が行った道というのは、薩摩の甲突川の石橋とかああいうところと、薩軍にとりましてはふるさとの石橋と同じような石橋がですね、この日向往還にはずっとありまして、それを見ながら薩軍は登っていったんではないかというふうに思います。
それから話がまたちょっとそれますが、日向往還は先ほども話がありましたように非常にいい道が馬見原までありましたけれども、西郷さんは残念ながらこの浜町から馬見原までの道は通っておられない、熊本隊はこちらの方で行かれたと思います。
それからもうちょっとご紹介したいのが、矢部に西南の役の歌というのがありまして、これは佐野幹雄さんという方が酔っぱらったときだけに歌われますので、なかなかちょっと録音するのが難しくてですね、言葉だけご紹介しますけれども、日にちがちょっとおかしいと思いますがご勘弁いただきたいんですが、「9月23日は麻山破れ、山路伸吾どんな、わらじ片一方しょいのいで、西郷どんな籠から、辺見どんな馬から、桐野利秋は進めラッパでいけいけどんどん」っていって最後の「いけいけどんどん」っていうのは大きな声で歌われますけれども、山路伸吾どんなわらじ片一方かたげながら来なはったと、それから西郷さんは籠に乗って来なはった、辺見どんは馬に乗ってやってきたと、最後に桐野利秋は負け戦だったけれどもラッパ吹きながらいけいけどんどんと元気良くやってきたという歌をですね、酔っぱらったら歌われますんでですね、こういう歌も地元にございます。このように薩軍とも非常にゆかりが深い土地でございます。
秋本 治
(会場の声に)今の歌のことでしょうか。
会場(倉岡)
人物往来社が発行している「歴史と公」という本があります。あれに今から15年ほど前にですね、西郷さんの逃げ道を紹介してあったんですよ。今も少し覚えているんですが西郷さんは4人持ちのかごで沢津を登って行ったと書いてございました。そして沢津にですね金玉袋を置き忘れたそうです。明日はどうでも沢津までは行きたいと思っております。
秋本 治
はい、それでは明日、沢津で詳しく聞きましょう。それで、浜町に入って来たルートの一つに日向往還があるわけですが、そうすると西郷さんはどっちから入ってきたんでしょうか。日向往還だと思いますか。
飯星時春
御船の戦いで、矢部に逃げて来たのはどの道であろうかと、いろいろ本を読んでみたりしましたが、やっぱり木の倉から軍見坂、あの凱旋門のある所ですね。あの道をやっぱり登って行ったようでございます。
秋本 治
そして、いよいよこの脊梁山地に入っていったんですけれども、季節はちょうど今頃で、古閑俊雄さんの歌なんかも書いてありますけれども、皆さんこんなときに、命からがらに、生きるか死ぬかというときに、その自然を見てどんなだったんですかね。
井澤るり子
正直、見る余裕があったかどうかはわかりませんが、ただですね、私が聞いたことなんですけれども、薩摩に落ちて行くときに、まず様子を伺いに子どもを行かせたそうです。男とか大人が行くと逃げられるから、まず子どもをやって様子をうかがわせて、よかったら全部で行ったと。
行軍では、餅をついて持たせたとか、焼き米を持たせたとか、実際記録とか読むと薩軍の方が餅をつかせて持って行ったとか、焼き米を持って行ったとか、あるんですけれども、地元の人たちの話の中には自分たちで餅をついて持たせてあげたとか、何かをしてあげたというような言い方をされる人がいるんですね。私の自分の感覚では、その薩摩軍に対する印象としては好意的な記録が残っているんですね。
だから霧立越を行ったのか、どの尾根を行ったのかわからないんですけれども、たまたま雨が降って本当に大変だったという記録が残っているんですけれど、明日、明後日も雨が降りそうなんですけれども普通だったらそんなに歩きにくい道ではなかったんじゃないかなと思います。
極端に言えば気持ちだけが負けて歩くんで、季節的にはいい季節ですし、歩くのにも汗もかかないしシャクナゲとかあったりとか、雪があったと言われてますが歩く道としてはいい道だと思うんですよね。今、車で通ったらいろいろ超難所とか言われるんですけれども、官軍の方がずっと海べたの方を歩いて行ってたからとか言われるんだけれども、なんとなくあっちの道を行くって決めたときに、最短距離で行ける距離ではなかったかなとは思います。どこを西郷さんが行ったのかわかってしまうのもいいんだけど、「どこを行ったかな」っていう残ってる部分のロマンというのを私としては少しは残してほしいと思います。
秋本 治
なるほどですね。シンポジウムでは結論を出さないことにしておりますので、いろんなところを経験しながら、それぞれが思いを馳せてもらいたいと思いますが、子どもを先にやってという話がありましたが、記録によると子どもを連れて行っているんですね。子どもが泣き叫んだりと書いてあるんですけれども、戦争でですね奥さんも子どもも連れて戦うということがあるんでしょうか。
飯星時春
私も疑問で戦袍日記の中に、特に佐々友房の書の中には、子供あるいは女の人たちのことがずいぶん克明に書かれております。やはり介護、あるいは今、井澤さんがおっしゃったようなことに必要だったようですけれども、なぜ女や子どもがいるんだろうかというようなことで、私はわざわざ林先生に聞きに行ったことがあります。
なぜ戦袍日記の中に女やら子どもがいるんですかというようなことを聞きましたら、先生のお答えの中に賊軍と官軍とのけじめ、その違いは非常に厳しかったんだろうというお話で、そういった部落の中で賊軍に加味した人たちは居られなかった、居られなかったから一緒に逃げたんだというお話を聞きました。ちょうど林先生もおいででございますので、もしお聞きができればありがたいと思いますが、私も非常に疑問に思ったひとつでございます。
秋本 治
やっぱり、内戦ですから敵味方というのに色分けされて、家族共々というようなことじゃないかというようなことですが、このことでどなたかなにか情報ありますとございませんか。
会場(甲斐)
熊本から来た者ですが、今までのお話を聞いて、昔からの言い伝えなどいろんなことがあるようですが、実は私は、西郷軍の日記をもっております。これは実は先生が書いた心証概略精錬日誌という、いわゆる本人が熊本隊に属して、そして同士と共に進んでいくと、初めから終わりまで従軍し、また第三者の立場で記してあります。そういうことでちょっと資料を持ってきているんですけれど。だから今まで、何らかの形での記録という物がこちらの方にはない。御船から椎葉にかけては、それを実証する記録がないということで、大変関心があると言われているんですよ。その一部でですね、実は今日ご紹介申し上げたいと思うのはですね、御船の戦いの実際の状況の記録があるんです。(記録を読み上げられる・・略)
秋本 治
その男成神社で30石とか、お餅をついて、わらじを3足ずつですか、それを持って山を越えたと、まあそれに焼き米というようなことですね。先ほどから酒蔵から来るときに見ました「さつまや」という屋号だとか、その薩摩を大事にしているとか餅をついてあげたとかですね、非常に西郷さんを大事にしているような感じがするわけなんですが、それはなぜなんでしょうか。ここ特有の何かがあったんでしょうか、浜町でですね薩軍を大事にしているという、なにか理由があればお願いします。
飯星時春
私の感じですけれども、やはり薩軍が勝つことに非常に期待をする人たちが多かった。それだけ西郷さんの人気が高かった。西郷さんを迎合する人たちが多かった。西郷さんのためなら命を捨ててもいい、というようなことがはびこって、男成神社で餅をつかせて、焼き米を持ったりしながら旅に出たというような記録が残っております。急な場合だからなかなかできないと思いますが、餅をつくぐらいのことは1日ぐらいありましたので、何とかできたのではないかと思いますから、そういった餅とか焼き米をたくさん持って24日に旅立ったというふうに書いてございますから、その人たちに命じてというかお願いしてそういったものを作らせたと思います。それだけ西郷さんが人気のよかったというふうに私は思われてなりません。
秋本 治
なるほど、先ほど思想的なものに西郷さん非常にこう尊敬していたと、そういうことなんですかね。
会場(工藤)
馬見原の本八代屋の八代目工藤ですが、西郷さんを崇拝してたということは熊日新聞に西南戦争130年史ということで赤報隊のことで書いてありました。いわゆる当時の士族とかいう人たちが、当時の国に対して不平不満を持っていたので、西郷さんが立つことで、というふうに書いてあったので私はそうだと思っております。
それで、その中に赤報隊のことが書いてありました。実は2~3年前に、家から家内が鎧を見つけだしまして、その下に赤心報国ということが書いてございます。これは慶応2年のものということが書いてございますが、そこで延岡の北川に西郷資料館がありますが、そこで、最後に和田越の戦いの後、軍議を開いて退却、その館長さんで児玉さんという方がおっしゃったのが赤心報国隊というのがあったということを聞きました。私がわかりませんのはここに皆さんは昔のことを知っとる方が多ございますから、赤心報国というのは熊本隊にも加味しておるのか、明日、馬見原の私の家に来られる方でどなたか知っておられたら教えていただきたいと思います。
秋本 治
実は、馬見原の工藤さん宅には、明日お伺いするわけなんですが、鎧甲からですね貴重な資料をたくさん所蔵されていらっしゃいます。そこで、その赤心報告隊でしたかね、明日その書き込んであるもをご覧いただいて、またいろいろと現地でお話をしていただきたいと思います。
明日は小峰、それから沢津、栗藤へ辿りますが、そこでは奈須昇さんにご説明していただくことになっているんですけれども、まずここから男成神社まで約2Kあります。そして男成神社から沢津、泊まったとされる沢津まで10Kですね。だからここ矢部から沢津まで12Kなんです。ということは1里を1時間歩いたときに3時間、3時間ぐらいを移動して泊まるんだろうか、という思いがしたりするんですけれども。そして手前の小峰でお昼を食べてということなんですが、そこへんで本当にこの人吉に向かって退却するわけですから、2、3時間歩いてそこ泊まったりするのがなぜなのかなという思いがあるんです。明日ご説明の中で質問等もして聞いていただければと思っています。
例えば2千人、西郷さんは2千人連れて行ったわけですから、1m間隔で行くと1列縦隊では2Kmになるわけですね。だからここから男成神社まで並んでしまうわけですよ。そんな部隊で10Kとか12K行って、またそこで泊まるということになるのかなと、行くときはバラバラになって歩いたのかなとも思いますが、こういうことを明日、見ていこうということなんですが、このことについてこう思うんだということがございましたら教えていただければと思うんですが。
井澤るり子
この前、聞いたんですけれども、西郷さんには影武者がいたという話を聞いたことがあります。事実かはわかりませんけれども、あちこちにあるのは、そういう話があるんだなというような話を聞いたことがあります。似ているような方がいたというような話も。
秋本 治
なるほどですね。私どもの所では、波帰という村でですね、村人が夫方に呼び出されたと、そして着物を取り替えられて、そして明け荷を担いで人吉まで行ったという話があるんですね。それを聞いて、私は影武者ではないかと思ったものでした。桐野利秋か誰かがですね、お前似とるから影武者になれていうようなことがあったかもしれませんですね。そうするとなかなか難しくなってきますけどね。
そんなことで明日からいよいよ現地を歩いていくわけでございますが、もう時間がありませんけども、話し足らないところたくさんあると思うんですね。もう関連したことでなくてもいいですから、思いを少し。
岩永 博
一番最初に出ました歌でございますね、これが全国的な、今で言う童謡と言いますかね、子どもの手まり歌ていうかジャンケンポイの歌かわかりませんけれども、私どもも子どもの頃歌った記憶がございます。この歌が全国的だったということは、西南戦争の意識にですね、西郷隆盛が亡くなってから星になったと、西郷星というそういう錦絵があるんです。これは東京農業大学の先生で日本の起業家の社長の8割は教え子だという先生のコレクションに西南戦争の錦絵があるんですが、その中に入っています。西郷星というとこうやっぱり西郷さんは全国的に人気が高くて、あの人は亡くなっても天に星として輝いております。というような考えがあったんじゃなかろうかと思うんですね。
それからこれは直接関係あるかどうかわかりませんが、日本の軍隊が空に関心を持ったのは西南戦争からだと言われています。と申しますのが、田原坂で薩軍に阻まれて熊本城内との連絡が途絶えて、谷村計介の話は有名ですけれども、官軍側としてはなんとか熊本城内と連絡を取りたい。ひいてはフランスのパリで、ドイツと戦ったときに、パリから気球に乗って城外と連絡を取ったということがありまして、日本人もそれを使いたいと。それで手数を取ったらどうかというようなことで、陸軍が誰か使える者がおらんかと。その時、陸軍の方は気球を造る技術は持っていなかったらしい。海軍の方がその技術を持っていたらしいですね。それでまず気球を造って、実用的に使えるというようなことでそれを戦場に送ろうとしたところが、幸いに熊本城の囲みが解けて必要がなくなったということでお蔵入りになったんですけれども、その後その気球が元でいろいろな武器を日本陸軍が造り始めたというのが、結局西南戦争にはそういう近代化と言いますか、なんと言いますか、そういうような話が残っておりますね。つい最近私もそれをある本で見たんですけれども、へぇーと思いまして、なかなかおもしろい話だなと思いました。
秋本 治
偵察衛星とか最先端の軍事技術のヒントがそこへんにもあったということですね。
飯星時春
ちょっといいですか。私、御岳ですけれども、皆さんの書類の中に「文字のない墓石」という題名の詩が入っていると思います。これは坂本常人さんが書かれた文章でございますが、非常に感動するというか、涙なくしては語れないような文章でございまして、是非このことをお話をしておきたいと思います。
奥様に、この場で話しをしてよろしいでしょうか、というようなことはちゃんと了解を得て来ましたので、この冊子の中にも入れていただきました。どうぞお帰りになりましたら読んでいただきたいと思いますが、あらすじを申し上げます。
侍が戒刀令、断髪令とかで、もう昔の武士が非常に貧乏をしたという時代がありました。なんと言いますか、いよいよ侍が侍でなくなった時代に、熊本の中下級武士の人たちは非常に困ったそうでございます。食べるものも食べられないほど貧乏だったそうです。その時に、もう食えないので子どもを田舎に差し上げるという例がたくさんあったようでございます。うちの隣にもそのような人があったようですので、坂本常人さんの記録を見ると、もう一人二人ではありませんよというふうなことが書いてあります。有名な人ですけれども、その侍の子供さんを田舎にやったところが、上川井野にお嫁に行って、その人が養子をもらって、子供ができて、その子供さんがたまたま御岳村長さんを10何年もされたという方なんですが、その人にまつわる話です。
娘を里子に出して、その弟がこの西南戦争に16歳で加わりまして、薩軍の一人として負傷をしたんです。熊本隊か協同隊であったかはわかりませんが、その方はたしか御船で負傷されて、そしてケガした体で矢部に逃げてきて、そして姉に会うためにいろいろ工夫をされたようでございます。もちろん自分でそういったことはできなかったかもしれませんけれども、同僚の人たち、あるいは同士の人たちが「お前の姉さんがここらに来ているならば、会ったらどうか」と勧めて会わせたようでございますが、上川井野というところで、官軍の人たちにお茶を出すためにお姉さんは身支度を整えて出ていられたようでございまして、そこでその16歳の弟とお会いになった。そして負傷しているもんだからそのお姉さんの家に連れて行って、さっき申しましたように賊軍の一人でございますので、おおっぴらにはできませんで床の下に隠して食べさせて介抱したようでございますが、40日後にお亡くなりになったということでございます。
本来ならばちゃんと墓にもそういった名を書いておきたいけれども、賊軍であるためにできない。それで題名は文字のない墓というふうになってます。それにまつわるいろいろなエピソードも書いてございますけれども、その人の、その里子になられたお母さんの子どもが、山下常記さんという村長さんだったと、その方は3期10何年も村長を務めた大変優秀な方でございまして、私たちはその村長さんを存じ上げており本当に身近な話ですけれども、その弟さんがお亡くなりになったのはこれに書いてございます。どうぞお帰りになりましたら読んでみてください。
以下、申し上げたいのは制度が改革になりまして、一番困ったのは侍さんたち。中下級武士の侍は本当に仕事もなくて食えなくてどうしようもなくて里子に出したそうでございますが、私の隣に来ているお雪おばさんていう人は非常にいい人で、私が4つぐらいのときに母と一緒に行くと必ずお茶を出してくれました。お茶のみ茶碗に米をてんこ盛りして、それにお茶をかけて、それを4つの私がいただいたんですが、そのおばあちゃんは、生活が苦しくて、秋に稲こぎをしますと、そこに籾殻が捨てられていますので、それをほうきを背中にさして、あるいはちりとりを持って、籾を掃いて、それを洗って乾かして、それを瓶に入れて突いて、それを4つの私に食べさせてくれる。
その人は、きれいなおばさんで、元は侍の子どもだったそうでございまして、ご兄弟の中にお医者さんもおられますし、非常にいい人たちの連れ合いだそうでございますが、その人、お雪おばさんという人を思い出すたびに涙が出るぐらい感謝の気持ちで一杯でございます。自分で拾った籾を私に食べさせてくれる、4つぐらいの子どもに食べさせてくれる。欲も得もあったものじゃない、ただ喜ぶ顔を見たかったからに違いありませんが、みなさん考えてみてください。洗って干して瓶に入れて突いて、その米を仏様に差し上げる。それを私に食べさせる。何回掃けば茶飲み茶碗一杯のご飯ができるでしょうか。そういったお米を容赦もなく私に食べさせてくれたおばさん、その人はやっぱり侍さんの子どもだったに違いありません。
その人のお兄さんは軍人であったり、お医者さんであったりというようなことを聞きましたが、かなり知識の高い侍のお子さんであったかと思います。その方のご養子さんが私の友達ですので、いつも話すんですが、そういう人が、あるいは徳の高い人が、そういうようなことで里子にやられて来て、ひとつ申し上げたいのは、やはり遺伝子、あるいはF1の人たちは非常に才能がいいと聞きますが、砥用女に矢部男、いろいろ、よその土地の人と婚姻をすることによってすばらしい人が誕生するというようなことを聞きますが、そういうようなことで矢部にもそういうような人たちの子供さんがたくさんいて、そして矢部の人たちの知識を高めているというふうに私は疑いません。
そういうようなことで矢部の人たちは、非常に賢い人たちがたくさんいると思われてなりません。以上申し上げて、自慢話ではございませんけれども、そのおばさんに感謝の気持ちを申し上げました。これを必ず帰って読んでみてください。本当に悲しい思いですけれども、40日間も床の下で、最後はお果てになったことが書いてございます。
秋本 治
この戦争の中での、知られざるいろんな出会いや別れ、苦しみ、悲しみ、悔しさ、語りつくせない多くのドラマがあるわけですね。この資料の中に綴じてあるんですけれども、たくさんの資料をいただいて、そして今日のこのシンポジウムが実現できたわけであります。
この多くの資料は、そのものを転用できるような著作権をすべてもらってしているわけではありません。本日の参考として見ていただこうということで添付しておりますので、これを転用されるとか、そういうようなことはできないということをご理解をいただきたいと思っております。
こうした資料を集めて、このようにしっかりとしたファイルにしてくださったのは、山都町の企画振興課で、私の後ろに控えていらっしゃる寺崎課長さんはじめ、課の皆さん方が一生懸命作っていただきました。この会場の準備から、展示全般にわたって、何から何までしっかりフォローしていただき感謝しております。厚く御礼を申し上げたいと思います。また、パネリストの皆さん、貴重なお話を頂きまして誠にありがとうございました。そして、ご参加いただきました会場の皆さん、大いに発言して頂き、貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。
まだまだ、語りつくせませんが、明日以降もあさってまで、このシンポジウムは続きます。その中でいろいろとさらにお話を頂き、後世に残るようなシンポジウムにできたらありがたいなあと思います。それでは、これでひとまず、パネルディスカッションの部は終了させて頂きます。ありがとうございました。