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霧立越ガイドブック


.霧立越の概要


気呂犬瓩
 霧立越トレッキングは、五ヶ瀬町側のゴボウ畠から椎葉村側の松木登山口まで霧立山地の稜線伝いを約12km辿るコースです。昔、馬の背で物資を運んだ「駄賃付け道」といわれる古道で、ブナの巨木が茂る天然林に覆われています。道中の白岩山は、九州では最も標高の高い石灰岩地帯で、石灰岩特有の希少植物などがお花畑をつくります。
 歩行時間は平均約5時間で、昼食休息時間を含めて6時間が目安です。途中、扇山の山小屋から扇山山頂(1661)へ登ってみましょう。駄賃付け道を外れますので直登の斜面もありますが山頂は360度のパノラマが広がり九州の脊梁山地が見渡せます。山小屋から往復約1時間です。扇山山頂登山を含めると全行程約13.5辧¬7時間となります。
 トレッキングコースは、松木登山口へ下山の他に内の八重登山口へ下山するコースもあります。扇山山頂から北東方向の不動冴三角点に向かって尾根を辿り、途中から右に折れて内の八重林道に降ります。シャクナゲ群落や数千年のイチイの古木、チャートの岩山、落葉松の森、烏帽子岩からの眺望など素晴らしい景色が楽しめます。難点は、急こう配の長い下り坂が続くため、膝に負担が掛かるなどがあります。登山歴の浅い方は、扇山山頂から山小屋へ一旦引き返して松木へ下山したほうが無難でしょう。
 霧立越は、稜線の縦走コースのため登山口と下山口を結ぶ公共交通機関がないことが最大のネックとなります。そこで五ヶ瀬町側のホテル、旅館、民宿、椎葉村側の旅館、民宿等では宿泊のお客様を登山口から下山口まで無料送迎サービスを行っている施設もありますのでこうした施設を足がかりに利用されると便利です。また、日帰りの場合霧立越の歴史と自然を考える会(キリタチネット)ではガイド送迎付きのプランも企画していますのでお問い合わせください。

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玉故越へのアクセス


01-霧立越の宿場町「馬見原」 (馬見原の屋並み)

 熊本県松橋から宮崎県延岡を結ぶ国道218号線と同阿蘇から同小林を結ぶ国道265号線、この二本の国道が交差している県境の町が山都町馬見原です。昭和初期まで霧立越で物資を輸送する駄賃付けの馬がたくさん集まってきたことから馬(を)見(る)原です。町では往時を偲び日向往還として伝統的町並み修景事業を行い昔の宿場町の家並みと石畳の商店街づくりを進めています。
 国道218号から国道265号椎葉方面へ分岐してすぐ右側に駐在所がありその隣に広い公共駐車場とお手洗いがあります。ここに車を乗り入れて小休止、古い家並みの馬見原の商店街を散策してみましょう。駐車場を出て右すぐ先の道路左側に馬見原パビリオンと表示された真新しいグリーンを基調とした事務所があります。ここは脊梁山地の登山ツァーなどを開発している寺崎彰さんの旅行事務所です。彼はもともと役場の課長でしたが脱サラして旅行業を起業しました。ガイドステーションとして町並みガイドも行っていますので事務所に立ち寄り声をかけてみましょう。詳しい資料がそろっていますし、かつての馬見原の豪商や西南戦役の史跡、日向往還の歴史など一番詳しく案内できます。

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2-鞍置村から鞍岡村へ (九州島発祥の地祇園山)

 馬見原から国道265号線を南下して椎葉の方向へ6kmほど進むと突然視界が開けて村の佇まいが見えてきます。ここは鞍岡の中心商店街です。鞍岡の地名の起こりは鞍置村がなまって鞍岡村になったと伝えられています。その昔、平家の落人や平家を追討に来た那須大八郎宗久などが椎葉を目前にして、ここで馬の鞍を下して休んだといわれています。民家には、霧立越を越えて椎葉に分け入った那須大八郎宗久が乗ってきたといわれる馬の鞍が保存されています。また、眼前にそびえる山は祇園山です。九州で最も古い地層の山でシルル紀(約4億3千万年前)の化石クサリサンゴがでています。地層が九州で最も古いことから九州島発祥の地なとどもいわれています。その祇園山の麓には素盞鳴尊(すさのおのみこと)をご祭神とする祇園神社が鎮座、祇園神楽や人吉の剣豪丸目蔵人の流れを汲むタイシャ流が演武される夏季例大祭、源義経の安宅の関の問答を思わせる山伏問答などを行う秋のおくんちまつりの臼太鼓踊りなど、源平ゆかりの民俗芸能が伝承されています。

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03-本屋敷・やまめの里(霧立越入り口)

 鞍岡から更に6km程進むと、本屋敷集落に到着します。左側に森の宿「白岩」と書かれた旅館が見えます。道路の上には「五ケ瀬ハイランドスキー場」の案内板がオーバーハングで大きく出ていますので、その案内板に沿ってスキー場の方へ右折します。すぐに小さな橋があり、この橋を渡って本屋敷集落を抜けると上り坂となり、100mほど進むと「霧立越登山口」と書かれたアーチが道路上にかかっています。ここを通過すると道路左側の川向うに広い駐車場が見えてきます。ここはスキーシーズンにシャトルバスが発着する駐車場です。更に200mほど進むと左下にやまめの里のコテージなどの建物が点在しているのが見えてきます。
(やまめの里)
 やまめの里へ立ち寄ってみましょう。表示に沿って左に進入するとホテルフォレストピアや料理旅館「えのはの家」が見えてきます。ここは標高700m、右のホテルロビーに入ってみましょう。ログハウスの高い天井には、直径1m以上もある大きな樅の木を輪切りにして電球を埋め込んだシャンデリアが頭上に吊り下げられています。冬は石積みの暖炉にあかあかと火が入っています。このロビーには、脊梁山地トレッキングのコース図や発見した化石などを展示、霧立山地の自然や民俗文化などの文献や書籍、地域情報が満載です。セルフで抽出する100円コーヒーもあるので情報収集がてらに寄り道して一休みするのもお勧めです。登山は、ここでお手洗いを済ませておきましょう。
 駐車場の左、川端に佇む民家風建物は「えのはの家」です。やまめと山菜料理の店で、ホテルのレストランを兼ねています。駐車場から少し下り、古びた重い引き違い戸を開けて中に入って見ましょう。大きな空間の部屋には囲炉裏が切ってあります。見上げる天井は高く、真っ黒に煤けています。そうです、ここはもともと茅葺き屋根なんです。今では、茅葺きを保存するため上から鉄板の屋根を被せてあります。お昼には炉端を囲んで会席膳で山の幸を堪能しましょう。12cmやまめの天ぷら黄金イクラ丼イワナの刺身会席膳などが自慢のお店です。もちろんこちらに泊まることもできます。

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04-登山口の波帰集落

 やまめの里から更にスキー場へ向かって2kmほど上がると大きな橋がかかっており、標高800mの波帰集落が見えます。スキー場に一番近い村で民家25戸、内民宿が二軒あります。明治時代に書かれた日向地誌によると波帰は人家19戸となっていますので過疎とはいえ明治時代より多いようです。
橋を渡ると道はしだいに狭くなり急なカーブや坂路が続きます。やがて落葉広葉樹の自然林の中を上るようになるとガードレールに多くの傷を見るようになります。「この道は大きな事故が多いのですか」などと聞かれることがありますが、これは冬期のスキーシーズンにガードレールが見えなくて除雪車がガードレールもろとも雪を外へ押し出した時に曲がってしまったのです。九州では最も降雪量の多い村でスキー場への道は1mを越えます。日本最南端のスキー場が立地する所以でもあります。波帰から約5km上ると標高1300mのカシバル峠駐車場に着きます。

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05-カシバル峠 (スキー場パーキングセンター)

 カシバル峠はスキーシーズンの駐車場で、冬期はここから登降リフトに乗ってスキー場へ向かいます。リフトはペアリフトで延長は910m、毎秒1.3mのゆっくりした速度で標高1600mのゲレンデへ運びます。施設は、スキーシーズンのみ稼働していますが、館内のトイレは登山者のためにグリーンシーズンも開放されています。トレッキングは、ゴボウ畠登山口まで車で登れますが、ここから先は国有林林道で路面も狭隘悪路、駐車スペースも少ないのでここに駐車してトレッキングをスタートした方が無難です。
 このパーキングから北を望むと眼下に登ってきた道路や本屋敷集落などが見えますが、その奥には4億3千万年前の地層を持つ祇園山、天孫降臨の伝説をもつ高千穂の二神山、遠くには祖母山など神話発祥の雰囲気を醸し出す山々が遠望できます。
 カシバル峠の地名の由来は、峠の下方にカシバルの地名があることからここを峠としたものです。カシバルは、昔「カシキトリバ」とも言われていました。これは、古語の「炊く=かしく」(穀物を煮たり蒸したりして飯をつくること)からきていると思われます。ご飯を炊く薪などを採っていたことから「炊(かし)き採り場」がカシバルになったのではないかと思われます。カシバルは石灰岩交じりの肥沃な土地です。昔は、こうした土地を「ほんち}と呼び、痩せた土地を「あおやま」とも呼んでいました。
 また、カシバル峠は別名「キンザギリノヨケエ」とも呼ばれていました。「ヨケエ」とは方言でヨコイ=休憩を意味します。「キンザギリ」のキンザは江戸時代の金座=小判鋳造所、またキンザギリは鉱山にちなむ言葉ともいわれます。さすれば、鉱石を探しにきていた人たちが休憩をしていた場所ではないかと思います。この峠の先をカラタニと呼びますが、そこでは磁石にくっつく石があります。当地方は古生層で金山やマンガン鉱を探して試掘した跡があちこちに残されています。
 カシバル峠から国有林林道に入るとブナやミズナラの巨木が見られるようになり、その先の沢には清水が流れています。この付近をカラタニと呼びます。昭和30年(1955)頃までは鬱蒼としたシオジの巨木の森で、林床にはキレンゲショウマの大群落が沢を埋め尽くしていました。大正4年8月、植物学者の牧野富太郎先生の指揮のもとに行われた九州山地の植物調査で熊本の徳永眞次という人の記録「BOTANY」NO43によると、ここのキレンゲショウマの大群生に驚き「これは、分布上もっとも珍種であって、牧野氏はこれが産地を発表しないと云う。」などの記録があるほどです。けれども、しだいにその群落は伐採等により衰退しておりましたが、平成10年頃から突然に鹿の食害により姿を見せなくなりました。現在は、森林管理署において登山口から300m程スキー場よりの沢をフェンスで囲んでキレンゲショウマ群落の保護が行われており、見事に再生して7月下旬から8月中旬まで黄色の可憐な花々を咲かせています。
 カラタニの沢から300mほど坂路を登ると湧水地帯が見えてきます。五ヶ瀬川の水源となる処で、いたるところから清水が湧き出しています。このような湿地帯にはオタカラコウが群落をつくります。ゴボウ畠の由来は、このオタカラコウの群生地がまるでゴボウ畠のように見えたことから呼ばれるようになったと思われます。近年鹿の食害でオタカラコウも絶滅が危惧されるようになり、湧水地帯を鹿防護ネットで囲み保護しています。
 このゴボウ畠には、不思議な現象が見られます。それは、鹿防護ネットで囲んだ湧水地帯の中に水の作用で丸くなったと見られる石、「円礫」が出土することです。その岩石は霧立山地を形成しているチャートや石灰岩、泥岩、砂岩等の堆積岩とは異なり、この地にあるはずがない火山性の岩石、それも握りこぶし大の粒ぞろいのものばかりです。この現象は、学問的にも説明がつかないのでミステリースポットとされています。
 鹿防護ネットで囲んだ湧水地帯を左に見て急坂路を70mほど上がれば林道が分岐しています。ここを右にとればスキー場への管理道路で、50mほど先にゴボウ畠登山口があります。分岐から左にとれば白岩林道で、その先の木浦林道に進入すれば平成13年(2001)5月17日霧立越の歴史と自然を考える会が発見した落差75mの幻の滝へのルートになります。この林道は、極めて悪路のため道路状況が確認できなければ乗り入れしないでください。

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轡肇譽奪ングコースのご案内


06-ゴボウ畠登山口

 ゴボウ畠登山口には、林野庁と記した大きな案内板などがあります。季節ごとに霧立山地の情報も掲示されていますので確認しましょう。ここから、昭和初期まで馬の背で物資を運んだ駄賃付け道を約12km歩くことになります。道中は、距離を標した道標が要所ごとに設置してあります。この登山口は標高1430m、ここから登る日肥峠は標高1558mでその間の約600mはウッドチップで舗装されていますので快適に歩けます。平成20年(2008)に森林管理署により敷設されました。
 スタートに際しては、再度ザックの中や手回り品をチェックしましょう。不要なものは省いてできるだけ軽くしたいですが、山の天気は急変することも多いので雨具や寒さ対策に必要なもの、水分補給など長時間の歩行に必要なものは欠かせません。忘れものがある場合は同行者にその旨伝えてカバーしてもらえるようにお願いし、安心して入山できるようにしましょう。
 スタート前には、ストレッチ体操を行って体を柔軟にし、ねん挫などの怪我がないように備えましょう。できれば自然を感じる感覚のウォーミングアップも試みでください。先ず、目を閉じて標高の高さによる空気の違いを感じてみましょう。次に目を閉じたままで東と思われる方向を向いて立ち、目を開けて確認します。次に東を向いて立ったまま目を閉じて北と思われる方向を向いて立ち、目を開けて位置を確認しましょう。太陽の位置など正確に体がその方角を感じていたでしょうか。目を閉じて耳を澄ませ風の方向を感じたり、風に揺れる木々の音、沢の水の音、野ネズミなどの足音、野鳥の餌を探す音や鳴き声、獣の吠え声など、大きな声からかすかな音まで聞きとるなどして五感を研ぎ澄ませれば山歩きがより一層深くなります。
 それでは出発時間を確認してスタートしましょう。上り坂が続きますのではじめは呼吸が乱れてきつくなりますが、体調に合わせて歩幅を短く無理なく登るようにしているとしだいに楽に歩けるようになるものです。ゴボウ畠から150mほど歩くと歩道の右左にえぐれた溝がくねくねと曲がって歩道を横切っているのが見えます。これは昔の馬道の跡です。一か所ばかり通っていると土壌が軟らかいところではしだいにえぐれて深くなり、馬に積んだ荷物が両側の土手につかえるようになります。このためあちこちと道をつくり替えた跡と思われます。こうしたところからはよく馬の蹄鉄が出てきます。
 ゴボウ畠から約20分で日肥峠に到着します。歩道のウッドチップ舗装は、先端の尖ったストックで強く突き立てると固めたウッドチップが壊れますのでウッドチップ舗装の上では尖ったストックの使用はやめましょう。また、歩道は全コースがブナやミズナラの貴重な天然林で九州の水がめとなるところです。自然界に負荷をかけないように、持ち込まない持ち出さないの原則を守りましょう。今日見ることができるものは、昨日までの人に守られていたからです。

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07-日肥峠

 ウッドチップの舗装が途切れると歩道は平坦になり、100m余りで日肥峠に到着します。ここで水分を補給して小休止しましょう。日肥峠は、日向の国(椎葉)と肥後の国(熊本県馬見原)を結ぶ峠であることからそう呼ばれたものと思われます。また、日肥峠の別名は杉越です。杉の木が数本あることからそう呼んでいました。霧立山地に杉の自生地はないので目印として何者かが杉を挿木にしたものでしょう。もうひとつ別名ができました。国土地理院の二万五千分の一図では、いつの間にか白岩峠になりました。白岩岩峰と紛らわしくて困ります。
 日肥峠に着いて右側を見上げると尾根を登る歩道が見えます。これを進むと1.5kmほどで霧立山地の主峰「向坂山」(1,684m)に着きます。向坂山から更に西に6kmほど進むと三方山(1577)です。また、向坂山山頂から北に尾根伝いを600m降りると五ケ瀬ハイランドスキー場になります。
 この峠には霧立越関所と書いた鉄板の箱が設置してあります。箱の中には登山者名簿が備付してありますので登山日時、名前、行先、連絡先などを記載しておきましょう。霧立越での事故、遭難等万一の場合に役立ちます。 この箱に書かれた絵は、霧立越に関する歴史を表わしています。正面は、駄賃つけの馬方さんが、馬を引いて通るところを狸が狙っている絵です。その昔、馬見原から馬を引いてこの峠に上がるまでが一苦労でした。ここからは尾根伝いで登りが少なくなり椎葉も近づいてほっと一安心、心休まる峠です。その油断を狙って性質(たち)の悪い狸が出没していたというお話です。馬にはお酒が二斗(36)入った木の樽を両脇に二本積んでいたそうですが、ここで一休みしてまどろんでいると狸に化かされて樽の中のお酒が減ったり、薄くなったりしたといいます。また、魚などを積んでいれば知らぬ間に取り上げられていたと言われます。
平成7年(1995)に開催した第一回霧立越シンポジウムでは、かつての馬見原の造り酒屋の御主人、明治生まれ84才の工藤平次郎さんらをパネリストにお願いしました。そこで「狸に化かされるとどうして酒が薄くなったり減ったりするんですか?」を聞き出すことにしたのです。最初は、なかなか明かしてもらえなかったのですが、会場から「何があっても当事者は誰も生きていませんし、時効だと思うから話してください」という声に「それではお話しましょう」としぶしぶと話し始められました。それはこういうことです。空になった樽を駄賃付けさんが酒屋に運び込みますと酒屋では樽の蓋をこじ開けて中をタワシで洗います。それからたぎり湯(熱湯のこと)を入れて消毒し、お酒を詰めていました。この時、洗う桶のタガの内側に木の枝を打ちこんであってそれがタワシに引っかかって洗うのに邪魔で仕方がなかった。あれは馬方さんが抜き取ったに違いない。と。
馬方さんは、手ヨキと呼ぶ小さな斧を馬の鞍にいつも結わえており、道々の修理をしながら駄賃付けをしていました。手ヨキとは、片方は刃物でありその裏は金槌にもなる道具です。これで杭をつくって打ち込んで道の土留めをつくったりします。こうした手ヨキの裏で酒樽の桶のタガを強く叩くとタガは動きます。そうしてタガの跡へ堅木の枝を槍先のように鋭く削って打ち込むと木の樽は簡単に打ち抜くことができるのです。酒を抜き取った後は、再び木の枝を削って打ち込み、その上へ桶のタガを叩いて元に戻せば外からは何もなかったように見えるというわけです。あまりにも多くを抜きとった時には水場で水を加えて何食わぬ顔をしておったということです。ま、遠い道のりを運んでくれるのであまり詮議もできなくてタヌキのせいにしたのではないだろうかというお話でした。
 箱の左側の武者の絵は那須大八郎です。鎌倉幕府の命を受けて椎葉に逃げ込んだ平家追討に赴き、この峠を越えて行ったと伝えられています。もう一つの絵は西郷隆盛です。日本最後の内戦となる西南戦争で薩軍は明治10年(1877)4月下旬にこの峠を越えて人吉に向かいました。右側の絵は、人吉の剣豪丸目蔵人のタイシャ流です。 波帰の天狗神社に伝わるタイシャ流文書の伝尾判によれば、正保2年(1645)鞍岡の山村四兵衛が伝授し、山村善兵衛、八田長右衛門と続き、享保14年(1729)椎葉の尾前権八から尾前で安政2年(1855)頃まで続き、その後鞍岡の羽木村(波帰村)佐吉となっていることからこうした秘伝書を持った武芸者が霧立越を行ったり来たりしていたことが伺えます。

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07-1鹿防護ネット

 日肥峠の右側に狭い範囲で鹿防護ネットが張られています。この付近は、平成10年(1998)頃まではツクシノダケナルコユリユキザサクリンユキフデハスノハイチゴなどが一面に群落をつくっていました。それが近年の鹿の異常繁殖による食害で姿をみせなくなったことから森林管理署では鹿防護ネットを張って希少植物の保護が行われました。ところがこのネットの中では希少種のみならずスズタケも生き生きとして成長を始めました。反対に、ネットの外側では鹿の食痕が見られ、すべて枯死してしまいました。この現象は、九州脊梁山地のスズタケ枯死の原因が鹿であることを証明することになり、鹿説に疑問を持つ方もここに見えて納得されるようになりました。
 かつては、この付近の尾根道はスズタケが密生していて、春から夏にかけてはウグイスやソウシチョウ、コマドリなど野鳥の涼やかな鳴き声がブナの新緑にこだましていました。時折、スズタケの笹葉で営巣したウグイスの巣が雛の巣立った後に風で飛ばされて歩道に出てきたり、ソウシチョウの巣で雛が餌を求めているところに遭遇することもありました。ところが、スズタケが枯死してからは、ウグイス、ソウシチョウ、コマドリなどの鳴き声が聞こえなくなりました。笹の葉を使って営巣する野鳥は笹が無くなると巣造りができなくなり姿を消したようです。ウグイスがいなくなるとウグイスの巣に托卵するカッコウ科の鳥たちも飛来しなくなります。
霧立山地の植物について記録した「霧立越花の旅」(書肆侃侃房)によると草本類は約130種です。これをもとに比較するとおそらく100種以上の草本類も鹿の食害によって消えたのではないかと思われます。すると、それらを食草としていた多くの昆虫類も姿を消してきたはずです。虫媒花の植物は、それぞれ特定昆虫に合わせて花の形状を造っているのでその昆虫が減少すれば受粉できなくなり種の継承に支障をきたすことになります。
ブナ帯の林床で水分の蒸散を防いでいたスズタケや草本類が消えると、地表面は乾季には乾燥化が進み、樹木の樹勢が弱まります。そこへ野鳥が少なくなるとブナの葉を食べるブナハバチやキクイムシなどが増えて樹木は乾燥化と虫の被害で枯死倒木が続出して森林は枯渇の一途をたどっていくことになります。土の中では、縦横に引っ張りあっていた植物の根張が枯れて無くなると土は張力を失ってひとたび雨が降ると一気に流出しています。岩場では強風が吹くと土が舞い上がって土煙りとなって飛散しています。岩の割れ目に浸透した水は冬期には凍って膨張し、岩石の破壊が進みます。こうして保水力が低下した森林は、日照りが続くと河川の水量が極端に減少し、ひとたび大雨が降れば鉄砲水となって水害を引き起こし、いつまでも濁りが続くようになります。河川に設置されたダムはどこも土砂の堆積が増し、河床はしだいに埋め尽くされて高くなりつつあります。自然界のこうした現象が、人間の目に見えるようになった時には、既にその奥には相当根深いものが進んでいるものと思われます。一部の生態系のバランスが崩れると次々と負の連鎖が起こります。鹿の食害は脊梁山地の生態系に深刻な影響を与えていることが分かります。

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07-2かめ割り

 日肥峠のすぐ先、歩道の左側に白っぽい硬そうな岩が突っ立っています。この岩の上にはホツツジが張り付いていて夏には長いめしべを出して穂状の花を開きます。ここを古来からかめ割りと呼んでいました。駄賃付けさんが馬を引いてこの岩の前を通りかかると突然狸に化かされた馬が暴れ出し、積んでいた焼酎がめが割れたと言われています。酒は樽に詰め、焼酎はカメに詰めていました。かめ割りも酒樽のお話と同じように、こぼさないような割り方があったのではないかと思うことです。岩場の前を通るとまさにかめが割れるイメージが湧くところでもあります。
このかめ割りの岩はチャートと呼ぶガラス質で非常に硬い岩です。元々は海底深くに堆積した放散虫などが石になったものです。海底の太平洋プレートは広がり続けていると言われますが、このプレートの上に乗っかって移動して大陸の下に沈み込むとき、引っかかって地上高くに押し上げられたので圧力により曲がった褶曲面が見えます。褶曲面の層は数万年ごとに生じたものではないかともいわれています。1年に1センチづつ移動しても一億年経てば千キロメートルになるという気の遠くなるようなお話で、ここに人類が生きているということもほんの瞬間的なことのように思えてしまいます。九州脊梁山地は、このようなチャートやサンゴ礁からできた石灰岩、陸地に近付くと泥岩、さらに近付くと砂岩などの堆積岩が尾根を形作っており、柔らかい部分が浸食されて谷になったものと言われます。

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08-白岩山石灰岩峰

 日肥峠から稜線の右側にほぼ>等高線上に続く歩道を進み、西に下る尾根を二つ越えるとやがて正面に白岩山が見えてきます。近付くと鹿防護ネットが張られ、歩道には扉が付けられています。白岩山は九州で最も標高の高い石灰岩地帯で岩峰一帯は希少植物が多く、宮崎県により昭和17年(1942)に「白岩山石灰岩峰植物群落地」として天然記念物に指定されました。ところが、近年鹿の食害でその多くの希少種が絶滅の危機に瀕してきたため、平成17年(2005)4月から森林管理署とボランティアグループなどで岩峰一帯をネットやフェンスで囲んで鹿の進入を防ぎ、植物群落の保護が図られるようになりました。このため、白岩山に入るには入り口の扉を開けて入り、その後はきちんと扉をしめるようにしてください。出る時も同様です。一度入った鹿は追い出すことがとても困難で、一夜にして被害が拡大します。扉の開閉については再度の確認をお願いします。入り口の扉を入ると左右に道が分かれています。右に50mほど岩場を登れば眺望の良い岩峰に出ます。左に深くえぐれた歩道が霧立越です。岩峰から降りたらこの左の歩道を辿ってください。足元の植物を踏まないように注意して歩きましょう。
 岩峰ではよく突風が吹きます。帽子はきつく被り直すか紐をかけるなど風対策をしてから岩峰に出ましょう。岩峰に出て右手西側を向くと、右から左へ順に、三方山(1577)、林道の椎谷峠(1460)、高岳(1563)、国見岳(1739)、五勇山(1662)、烏帽子岳(1691)、白鳥山(1638)とパノラマのように広がって見えます。こうした向うの山々を称して向霧立山地、こちら側の向坂山(1684)、白岩山(1646)、扇山(1661)などの山体を称して霧立山地と呼び、これらを総称して九州脊梁山地と呼ばれています。天気のよい日は高岳の右側奥に雲仙普賢岳(1360)が見えます。振り返って後の東側を見れば左から右へ順に、阿蘇山(1592)、九重山(1791)、祖母山(1756)、傾山(1605)などが見えます。右手奥の方に見える台形の山は延岡の行縢山です。
眼下の石灰岩峰一帯では、春から秋まで多くの希少植物がお花畠をつくります。固有種ではキリタチヤマザクラ(Cerasus sargentii var.akimotoi H.Ohba&Mas.Saito)、シライワアザミ(Cirsium akimotoi Kadota et Masami Saito) があります。その他にも白岩山を南限とする植物や新種や変種の可能性のある植物も多く、専門家による調査が続けられています。中でも春のヤマシャクヤク、初夏のキリンソウ、夏のイブキシモツケシモツケソウシギンカラマツソウソバナ、秋のイワギクなどは登山者の目を和ませてくれます。
 岩峰から降りて歩道に戻り前方に進むと崖の上を通ります。昔の石垣が今では壊れて馬道にしては足場が悪いですが、昔の馬方さんはこの白岩の岩場がとても怖かったと言っていたそうです。その先には再び網の扉があります。鹿防護ネットの出口です。ここも入り口同様開けたら後の戸締りをしっかり確認しましょう。ここから緩やかな上りの歩道が稜線の右側に続きます。携帯電話はこれから見晴しの丘まで使用できないところが多くなります。

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09-水呑

 白岩山から緩やかな上がりが終わると左に水呑の頭と表示した案内標識があります。ここから134メートル上ると水呑の頭の山頂で、地図にいう白岩山(1646)です。三等三角点があります。この山には石灰岩はなく日肥峠と同様にいつの間にか国土地理院が白岩山と称するようになった山です。これにより古来から称していた白岩山と水呑の頭は地図の上から消えました。
水呑の頭は、白岩山ほど眺望は良くありませんが、南側に視界が開け天候が良ければ遠くに霧島の山々が霞んで見えます。その手前左にもっこりと頭をもたげたように見えるのが江代山(1607)、その左が市房山(1724)、石堂山(1547)と並んで見えます。
 山頂から東の方向に尾根伝いに続く歩道が降りています。ここを行くとシャクナゲの大群落があり、4月下旬から5月上旬にかけて大輪の花を咲かせます。シャクナゲの中の歩道を更に降りると木浦林道に出ます。木浦林道から左へ辿れば白岩林道の分岐、更に左に上がればゴボウ畠に戻ります。木浦林道を右奥に進めば幻の滝入口へと続きます。
水呑の頭への上り口から100mほど歩道を下ると右に「水呑」の表示があり、その先には湧水地があります。ここは駄賃付けが馬に水を飲ませて休息したといわれる水場です。日肥峠でタヌキに化かされ、運ぶ酒が薄くなったというお話は、ここで減った酒に水を加えたのではないでしょうか。水呑の頭は、この水場の真上になるところから付けられた名称でしょう。
 水呑からしばらくは稜線の右側を辿りアップダウンのない快適な歩道が続きます。途中から稜線の左側へと歩道が変わります。左側を歩くようになると左手前方に扇を広げたようにみえる山脈が正面に横たわって見えます。その山の一番高く見える中央部が目指す扇山の山頂です。

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10-小屋場(コヤンバ)古道分岐点

左に扇山を見ながら稜線の西側を進むと、水呑みから25分〜30分で日肥谷の小屋場に降りる古道の分岐点に到達します。右に曲がって降りる古道はスズタケが生えていて今は通行できませんが、昔の馬道の跡が深くえぐれてくっきりと道の跡が残っています。この古道を辿ると昔の製材所跡に出ます。大正から昭和初期にかけて日肥川の水で水車を回して製材所をつくり、シオジやケヤキ、アオダモなどの銘木を製材して馬に積んで鞍岡まで運び出していたということです。一工場(いちこうば)と二工場(にこうば)があり、その二工場に通じる馬道がここです。一工場は二工場の上流にあり、日肥峠(杉越)から降りて行けます。昭和30年頃、一工場の跡に入りましたが、その時は、集落跡にはすくすくと伸びたマダケが林立していました。その後、平成15年5月に再度行った時には竹林は消えていました。 人が住まなくなると猪や鹿などが筍を全部食べ尽くして竹林が消えたものと思われます。住宅跡とみられる付近には鍋、やかん、焼酎カメなどが落ち葉の中に半分埋まっているのが見えて、つわものどもが夢の跡というような、印象的な場所でした。
 鞍岡本屋敷在住で昭和2年生まれのOSおばあさんが面白い替え唄を聞かせてくれました。「日肥職工さんは嫌ですよ〜、金なし、暇なし、甲斐性なし〜」と。当時は、唄になるほど日肥の森に人が住んでいて鞍岡と交流があったということでしょうか。原生林を択伐する伐採山、集材するコバ山(谷川にブナなど木材の利用価値の低い木を敷きつめてシラを張り、その上を有用な材木を滑らせて下流に落として運ぶ仕事)、途中には木馬で運ぶ木馬引き、工場では職工たち、そして駄賃付けまで含めると相当な人々が暮らしていたようです。ある時、工場に火災が発生して大勢の住人が波帰に避難してきたという話も聞きました。また、ここで生まれたといわれる波帰のTSおばあさん(大正9年生)からお話を聞くこともできました。
 昭和30年頃までは、波帰からカルイを背負って時々一工場跡に食料調達に行きました。春は谷川一面に白いワサビの花が咲き、ヤマメも手づかみで獲れました。岸にはトクサが生えていて、秋には沢一面に敷き詰めたようにシラを張った跡の朽ちた木々にムキタケやナメコが背負いきれないほど生えていたのです。今では、シラは腐って土になりワサビは鹿の食害で全滅し、トクサも無くなって人の生活痕は消えてしまいましたが日肥の森は地形的にも日当たりが良く、冬は根雪にもならず、タラの芽やウド、ワサビ、フキなどの山菜やシイタケ、ムキタケ、ナメコなどのキノコ類、葛や栗などの木の実。川にはヤマメ、森には猪、鹿、キジや山鳥、ウサギなどワナをかければいくらでも獲ることができ、塩と少しの米があれば充分暮らしていけたのです。
日肥の森は、一時期佐藤じゅうえんという人が所有したそうですが、戦後国が買い上げて国有林になりました。製材所の住人は事業所が閉鎖されてもそのまま住みついた人もいたようで、営林署は住人たちの追い出し作戦を行いました。山の尾根から谷間に回り込みながら鐘と太鼓を打ち鳴らし「この山は官山になったからここに住んじゃいかんぞおー」と叫びながら大勢で追い出しを図ったということです。それでも出て行かずに住んでいる人がいました。私の記憶に焼き付いている人で、日肥のトクさんとキイチさんと呼ぶ二人です。昭和30年頃、日肥の森を訪れた時、谷川のほとりに小さな差掛け小屋がありました。布団も無く、冬は大きな焚火を焚いて背中をあぶって暖をとります。このため背中には、アマメ(低温やけど)の跡が大きくただれたように見えました。壁には串に刺したヤマメの焼き枯らしと串刺しにしたキノコが立ててあったような気がします。
犬が数匹いました。日課は犬と大声で話し合いながら連れだって、あっちの山、こっちの山に仕掛けた罠を見回りしていたようです。思えばその時の犬は最高に幸せなときが流れていたのではないかと思うことです。今では猟犬も年中鎖に繋がれて運動不足ですが、本来犬は人とこのように自然の中で暮らすために存在していたのかもしれません。山のあちこちに大きく突っ立ったチャートの岩場があります。そこには竹筒に塩か米を入れて岩屋の中に立てかけてあるのを見かけたことがあります。途中獲物が罠に掛かっていればそこの岩屋で解体して食べ、そのまま泊まってもいいように準備してあるのだろうと思ったことでした。時々、波帰の村に出てきて米や塩などを調達されていたようです。その頃は、テンの毛皮は高価で、キンテンと呼ぶ黄色の毛をした美しい毛皮1枚あればひと月は生活できたといいます。
 ある冬の日、村の一人が日肥を訪れてキイチ爺さんを連れて来ると言って出掛け、翌日帰る予定になっていたがその日は大雪となり夕方になっても帰りません。村の衆が心配して交代で雪をラッセルしながら峠まで迎えに登りました。夜遅くなって二人は村人に囲まれて無事下山しましたが、その時の夜の光景を覚えています。広い顔の頬骨が角ばったキイチ爺さんは、ひげもじゃで口が大きく、唇が口の内側へ曲がり込んでいました。歯があまりなかったのかもしれません。焼酎のせいでしようか顔が赤く光っていました。「山の上から日を見るなちゅうもんじゃがのう、うわっはっはあ」と助けられた嬉しさでしょうか顔を紅潮させて話す表情が印象的でした。
その後、年と共に体が動かなくなってのでしょう、山を下りてきて波帰の木炭を焼く炭ガマの中に入り込みました。村人は心配して病院に連絡、白衣の先生と看護婦さんが炭ガマの中に入っていきました。とてもびっくりされたそうです。その後キイチ爺さんは病院へ運ばれて行きました。当時は医療保険も無い時代ですのでその後はどうなったのでしょうか。
 思わず昔語りになりましたが、ここまではアップダウンのない快適な歩道です。ここから霧立越の尾根の最鞍部に向かって降りて行くことになります。ここで休息して水分を補給しながら昔の日肥の森に思いを馳せてください。女性は古の道を少し入って花つみに行くのに好都合のポイントです。

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11-国有林境界石標

 小屋場古道分岐から16分ほど細い尾根を下って行くと、歩道沿いに15センチ角位の石標が埋め込まれているのが見えます。これは、国有林と民有林の境界石標で片側に山と刻まれており、その反対側に数字、上面には十字が刻まれています。この意味は、山と書かれた面の方が民有林を表し、数字は測量の測点番号、十字は交差する中心が測点という意味です。民間の土地から入ってくると、これから先は官の山であることから「山」と表示されています。昔は国有林の事を官山と称していました。脊梁山地の国有林の境界や林班堺の測点は、塚と呼ぶ盛土ですが、重要なポイントにはこのような石標が設置されています。今、新たに地籍調査されたところは、コンクリート製の小さな標柱に変わりましたが設置のルールは変わっていないようです。
 それでは、この境界石標に山と記した側の民有地は一体誰の土地でしょうか。広大な森林面積を有する椎葉村で一番の山持ちはどなたでしょうか。これをひも解くと長い歴史があります。椎葉村史によると昭和初期に次のようなことがあったと記述されています。「かねてから電源開発に意欲を有する住友は水源涵養のために広大な山林を確保する必要があった。昭和2年4月29日、村は電源開発と道路開設とを同時に進めている住友合資会社との間に実面積約8,000町歩に及ぶ山林の80年限地上権設定の契約を締結するに至った。更にこれを足場として住友の自家山林として村民の私有地の買収が村当局の斡旋によって実現されたのであった。」と記されています。住友の8,000町歩(8,000ヘクタール) の土地とは、椎葉村の広大な面積537.35平方劼量15%に当ります。こうしたことから椎葉で一番の山持ちは住友林業さんということになります。電源開発については、昭和23年に上椎葉ダム計画が承認され、昭和25年に日本発送電が建設所を設置したが、昭和26年に九州電力が引き継ぎ、昭和30年に日本で初めてのアーチダムが完成して出力九万キロワットの運転を始めました。
 霧立越の歩道は、大部分がこの住友林業の土地を歩いていることになります。また、椎葉の那須橋から諸塚にかけての国道327号線の元になる道路の開設は、住友から百万円の寄付を受けて昭和2年に着工し、昭和8年に開通しました。その道路を今日でも地元では百万円道路と呼んでいます。昭和初期の百万円とは今では数十億円となるでしょう。こうした道路の開通までは、すべて馬の背で物資を運んでいました。それぞれの道のルートを神門口、球磨口、米良口、馬見原口などと呼んでいました。この霧立越は馬見原口にあたります。

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12-灰木の頭

 境界石標から更に13分程稜線の右側を進むと小さな尾根を左に回ったところで急に視界が展開して眺望の良い丘に出ます。この上部が灰木の頭です。灰木とは、ハイノキのことであろうと思います。ハイノキは、ハイノキ科の常緑樹で葉はやや革質で表面には光沢があります。5月頃白い花を密に開花します。和名の由来はこの木を燃やしてその灰を染色に利用したことからハイノキと呼ぶようです。乾燥しやすい崖地に多く、この付近にはハイノキが多いことから灰木の頭といわれるようになったのではないかと思います。当地では方言でイノコシバと呼びますので当初はハイビャクシンにちなむものかもしれないと思いましたが、この付近には石灰岩がなくハイビャクシンが見当たりません。尚、近年はハイノキが洋風建築の庭に合うということでハイノキを植栽するのがブームになっているということです。
さて、右手遠くに向霧立山地の山々が見えてきます。この山の中腹に白い物が見えます。よく目を凝らして見ると民家であることが分かります。ここは尾前集落の最上部の高砂土で標高900mほどにあります。更に良く見ると庭先に田圃が見えます。もともと昔の道は尾根伝いにあり、その尾根の近くに住居があり、周りが焼畑となっていました。それから長い歴史の中で庭先に田圃ができたところは、車道ができて電気が導入され生活インフラが整備されました。地形が急で田圃ができないところは下の方の平地に移転されたのです。焼畑伝承者の椎葉クニ子さんはNHKなどのテレビ番組で「クニ子おばば」として全国的にも有名ですが、そのクニ子さんのお話によると、昔は毎年3反から5反位(30から50アール位)森を伐採して焼き畑をつくっていました。初年にソバを蒔き、二年目に穂物と言われるヒエやアワを蒔き、3年目に大豆や小豆などの豆類を蒔きます。それ以降は地力が衰え、雑草や木の芽が増えて作物が育たなくなるので放置し、他の場所で焼畑を始めます。そうして再び20年ほど経つと森は回復するので元の場所に戻ってくるのです。毎年、ソバ畑、穂ものの畑、豆類の畑という風に三か所で作物を育てます。このように、焼畑による暮らしは、広大な森林面積が必要です。それでも子だくさんのお家は、食いぶちをへらすため下の子供は小さいうちから子守奉公に出すことが多かったといいます。
椎葉では「隣半道そこ一里」という話を聞きます。隣のお家は次の尾根にあるので半道(2km)先、誰それさんのお家は次の次の尾根にあるので一里(4km)先だということです。こうした暮らしが一変したのは黒いビニールパイプが出現したからだそうです。住まいは尾根の近くですから庭に田圃を作ろうとしますと沢の水を急斜面に水路をつくって水を連れてこなければなりません。素掘りの長い水路は途中から水が漏れてしまいます。ところが、化学製品の黒パイプを使うと水路は作る必要がなく、沢の水が100%漏れずにどこまでも引っ張ってくることができるようになったのです。こうして庭に田圃ができると焼畑の暮らしは一変して食料の確保がしっかりできるようになりました。けれども急傾斜の土地には田圃ができません。そのような場所では立派な無人の民家が今も残っているところがあります。

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13-見晴しの岩

 椎葉の民家が見える灰木の頭を下りて13分程進み、稜線の西側を上がると左手にシャクナゲが見え、歩道は小さな岩山を越えて稜線の東側に回り込みます。この上が見晴しの岩と呼ぶ岩峰です。以前は灰木の頭と錯誤していましたので訂正します。天気のよい時はぜひここにも登ってみましょう。向霧立山地が見渡せます。正面右から左へ順に五勇山(1662)、烏帽子岳(1692)、時雨岳(1546)、白鳥山(1639)、遠くに江代山(1607)、市房山(1721)などが見えます。霧立越ルートに続く尾根の前方に目指す扇山も見えます。
この岩山はチャートといわれる岩で南に面した崖にはイワタケが着生しています。イワタケは古来より不老不死の食べ物として珍重されてきました。岩の茸と書きますがキノコ類ではなくて地衣類にあたります。表面は薄い黄緑色をしていますが、裏面は黒くて柔らかい針のような小さな突起が並んでいます。食用にするにはぬるま湯に漬けて柔らかくしてから、汚れや黒い汁が出てしまうまでよく揉み洗いし、天ぷらや三杯酢等で食べます。成長が遅く食用には数十年経ったものを使います。採集は、乾燥しているときに行うとパラパラと壊れてしまうので雨後のぷりぷりとしている時に行います。イワタケは、岩の中腹の風通しがよくて日当たりのよい面に着生しますので手の届く場所にはあまりありません。採集にはザイル等を使って岩場に入ります。この岩峰にも、手近かなところで観察するには小さなものはありますが、食用となる大きなものは崖の中ほどにあります。けれども崖下を覗き込むのは危険ですので充分注意してください。岩峰を下りてつづら折りの歩道を少し進み岩峰基底部近くから見上げると着生している様子を見ることができます。

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14-馬つなぎ場 (池のくぼ)

イワナバ岳から約13分程進むと歩道も平坦になり霧立越の鞍部となる「馬つなぎ場」へ到着します。稜線が低く下がったところでこのような地形のところを地元の猟師言葉では垰(たお)と呼んでいます。ゴボウ畠を朝8時半から9時頃出発するとちょうど馬つなぎ場がお昼時となります。腰を下ろすに当っては、地面の落ち葉の中にダニなどの虫がいないか良く確かめて、ビニールの風呂敷など敷物を敷いて座りましょう。近年は山にヒルが増えたとの話を聞くことがありますが、この霧立山地では標高が高く冬期の温度がマイナス10℃を下回りますので越冬できないと見られて確認されません。ヒルは基本的に標高の低い照葉樹林帯に生息し、標高の高いブナ帯には生息できない生物と思います。尚、食事の跡はきっちり片づけて、持ち込まない持ち出さないの原則を確認してください。
馬つなぎ場は、別名「池の窪」とも呼ばれています。大きな窪地があることから人為的に土を突き固めて天水を溜めたものかもしれません。付近をよく観察しますと茅の株が僅かに残っているのが見つかります。これは草原であったことの証です。また、大正4年(1915)8月、熊本の徳永眞次という方の霧立越の植物調査記録「BOTANY」のNO43に次のような記述があります。
「尾前から、道は白岩山の方向に上がっている。日が照りつけて非常に暑苦しい。行けども行けども上り坂で、いつ頂上につくのか分からぬ。東西の両面がようやく開けてきて諸山の姿が見えた頃には山の九合目ほどのところに来ていた。(中略)広い原野を越えると道はほとんど平坦で更に森林の中をうねっている。」この項にある広い原野とはこの馬つなぎ場が草原であったことを物語っています。 水場があり、餌を食べさせる草原があり、まさに駄賃付けの馬を休ませるための馬をつなぐ場であったに違いありません。時代の進展とともに霧立越は廃道となり、今はかつての草原が森に変わっています。草原を維持する必要がなくなり野焼きが行われなくなったからです。草原を維持するには毎年早春に火入れを行って枯れ草や樹木の若芽を焼き払うことが必要です。熊本県の阿蘇の草原がなくなるなどの話は、野焼を行う面積が少なくなったことによるものと思われます。
牛馬の餌を確保するだけの狭い草原は草場、家の屋根を葺くためのカヤを育てる広い草原は茅場、こうした森の中の広い草原を少人数で火事を起こさずきっちり焼くには、尾根を囲んだ地形が必要です。火入れは、草原の一番高い位置から左右二組に分かれて下に向かって内側に火をつけて燃やしはじめ、燃え下がるころ合いを見ながら両側から同じ高さで内側に火をつけながら下っていきます。すると最下部で火をつける時には上部は焼けてしまっているので再び燃えることはありません。但し、火勢は風を呼びますので飛び火には充分気をつけなければなりません。神話にヤマトタケルノミコトが草原で火に囲まれた時、手前から草を薙ぎ払って迎え火を点け、迫ってくる火を消して助かったという話があります。火は火でもって消されるのです。この時草を薙ぎ払った刀を草なぎの剣と称して三種の神器のひとつとされています。
 駄賃つけは、朝暗いうちに家を発ち、峠に上がってから朝日を迎えるような行程で行動していたといわれます。馬つなぎ場で朝日を迎えたり、夕日を見たりしたのでしょうか。馬つなぎ場は駄賃つけさんたちの憩いの場であったのでしょう。こうした駄賃付け唄は、今でも椎葉村で歌い継がれています。
駄賃つけの唄
1.おどま13から駄賃つけなろうたよー  ハイハイ
  馬のたずなで日を送るよー      ハー、シッカリ、シッカリ
2.朝もはよから峠にのぼりよー     ハイハイ
  お日の出を待つ入りを見るよー    ハー、シッカリ、シッカリ
3.駒よ暗いぞ足場はよいかよー     ハイハイ
  鈴の音(ねおと)についてこいよー  ハー、シッカリ、シッカリ


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15-中尾の尾三角点

馬つなぎ場の南側へ稜線を進むと三角点(1443.3)があります。古い地図にはここを白水山と記してありますのでこの三角点を白水山と呼ぶことにします。国土地理院の二万五千分の一の地図を見ると歩道の西側、歩道そばに三角点を記してありますが、実際には歩道の東側の山頂にあります。このため三角点を探して見つからないというという話を良く耳にします。原因は、地図には稜線の中心に歩道があるように記されているため現地とのギャップが生じているからです。三角点に行くには、馬つなぎ場から稜線を辿って南へ進み、一旦下がった稜線がまた上がるまで進むと山頂に三角点を確認できます。スズタケが密生してその上鹿の食害に合って竹が途中から折れているので藪こぎは実に大変です。次の木浦古道分岐から辿ると楽に行けます。

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16-木浦古道分岐

 馬つなぎ場から稜線の右手東側を進むとやがて稜線の真ん中に出ます。ここで振り返ってこの稜線を北に向かって上る地点が木浦古道の分岐です。木浦古道は、歩道の形跡が残っていないので馬で荷物を運ぶ駄賃付けはあまり通らなかったのかも知れません。この木浦古道を辿って少し登ると楽に白水山三角点に辿りつけます。ここから西側に降りる尾根がありますがこの尾根を木浦へ通じる古道が下っています。但し、未整備なので通行できません。  この木浦古道の尾根の両側は深い谷で崖地が多く地元の人たちも谷には入りません。けれども滝壺には尺やまめが棲息しているとの情報もあります。地形図を見ていると白い布を引いたように見える瀑布が多いことが想像されるので、その頂きを白水山と呼ばれるようになったのではないかと思います。台風などの時、扇山山頂に水の音が聞こえるといわれるのも地形的に納得できるような気がします。

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17-二本ぶな

 再び、木浦古道分岐より13分程進むと稜線の西側から垰(たお)に出ます。ブナの巨木が並んでいる尾根で奥の方の二本のブナは樹形が美しく目を引きます。ブナはもともと幹が高く伸びて高木となりますが、稜線の風の強いところではこのように幹の低いところから大きな枝をたくさんつけて横に広がります。この二本のブナを「夫婦ブナ」と呼ぶ人もいますが、ブナは雌雄異株ではありませんので二本ブナと称することにしています。
ブナの枝の下には、殻斗と呼ぶブナの殻が落ちています。この殻斗の中に三角錐の形をした実が二個づつ入っています。実にはアクがなくて人間が食べてもおいしいです。ところが、ブナは数年に一度しかたくさんの実をつけません。ブナが豊作の年は猪も肥えて脂がのっていて美味しいのです。動物は栄養状態がよいと数が増えます。数年に一度だけ豊作になるブナは、ブナの実を食べる動物の数をコントロールしていることになります。不作が続き動物を間引いた後に豊作にすれば、獣たちがいくら食べても食べ尽くせないのでブナはブナだけの森(純林)を作ることができるのです。大正時代から昭和にかけて伐採した跡地に育つ長野県カヤの平のブナの純林がその好例です。また、毎年実をつけないということは,動物たちが実のある場所をマークできない。ブナはそういう種の戦略を持っているのではないかと思われます。
ブナとは対照的な種にヤマザクラがあります。サクラは毎年花が咲いてたくさんの実を付けます。けれどもサクラは枝の下では発芽しません。サクラの木の下を良く観察するとノネズミの巣が多くあります。サクラの実が落ちる場所を知って近くに巣をつくっていると思われます。サクランボの落ちるシーズンにはその場所を猪やテンなど獣たちにもマークされるので種をたくさん落としても食べられてしまい枝の下には発芽できる種がなくなってしまうのです。そこで行動範囲の広いテンや野鳥に食べられて遠くへ運ばれぽつんと落とされ、そこがたまたま裸地状態で発芽できる環境にある時、そこに根を張り、他の植物との競争に勝って初めて桜が育ちます。このためサクラはサクラだけの森(純林)をつくることができないのです。

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18-三方界古道分岐

 二本ブナから坂道を4分程上ったところに右に下りている古道が見えてきます。この馬道の跡は未整備のため通行できませんが、地図ではこの道を下ると三方界から尾前集落の上流側へ出ます。狩猟儀礼作法の伝承者として有名な尾前集落の尾前善則さんは、この古道が本来の霧立越の馬道であるといわれています。尾前地区は、その昔は椎葉で最も大きな集落であったので通行量も多かったのであろうと想像されます。平成19年(2007)4月に行われた「西南戦役130年」の記念シンポジウムで西郷隆盛の人吉への退路はこの道ではないかと調べたところ、尾前集落には西南戦役の記録や言い伝えがないこと、不土野越には滝か松木に下りる方が近いことなどから三方界古道は西郷さんは通らなかったと見られています。この道は、霧立越の鞍部からそのまま上らずに尾前に降りることになり、上りの少ない一番楽な椎葉へのルートかもしれません。いつの日かこの古道も整備して尾前集落に下りてみたいものです。

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19-見返り坂

三方界古道分岐からしだいに上り坂が続くようになり約20分程歩いて稜線の右側から左側に越えたところに平坦な部分の歩道が出現します。ここで休息をとり水分補給などをしましょう。正面を臨むと木立の間にこれまで歩いてきた稜線と水呑の頭(白岩山)が見えます。朝のうちは水呑を過ぎたところで左手正面に扇山を見て「わー、あんな遠いところまで歩くのかあ」と思ったものですが、今度はその扇山の山体に移って、歩き始めた水呑の頭を振り返って「わー、あんな遠いところから歩いてきたんだ」と言えるようになります。このすぐ先の歩道の上にシャクナゲ群落があり、その一部の木は純白の花が咲く「シロバナツクシシャクナゲ」です。花の季節には注意して観察しましよう。蕾の時から純白で美しいシャクナゲです。この付近は秋になるとキノコの匂いがするところでヤマブシタケなどを確認しています。

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20-荒廃林

  見返り坂から10分ほど歩くと人工林地に出ます。ほとんどの杉は倒れかかったり、枯れて倒木になったりして異様な光景です。年輪を数えてみると15〜20年生くらいまでは成長を続けたようですが、その後枯れ始めています。こうした現象は標高が高く風の強い林地で見られる光景で寒枯れではないかと思います。植林した直後は周りの自然林が防風林となり成長を続けますが、樹高が伸びて直接風を受けるようになると枯れてしまいます。いずれも標高が高すぎて杉の植林に適さない土地であったということです。これを植林する頃は、国の拡大造林政策のもと老齢過熟林(天然林)を伐採して樹種転換を図り木材の生産性を高めるという目標を掲げ一本植えると一万円になるという勇ましい考え方で植林したものです。経済効果を狙ったつもりが最も不経済で環境破壊の何物でもなかったという悪の見本林となっています。

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21-平家ぶなの跡

 荒廃人工林から5分程のところに平家ブナと書かれた案内標識があります。今はそのブナは無く、朽ち果てた株だけが残っています。平成7年(1995)霧立越の歩道を初めて整備した時は、幹回りが5メートルを超える素晴らしいブナの巨木で霧立越の中で最も大きなブナであることから平家ブナと命名したところです。ところがその後に谷側の枝が折れ、その数年後には山側の枝が折れてしまい、その後の台風で幹の上3メートル程のところからぽっきり折れて倒れてしまいました。ブナの倒木が朽ち果てるのは意外に速く今では幹の原形も留めていません。こうして自然更新は行われていくのです。
ところで、この朽ち果てたブナの木からこれまで数匹のマムシを採集したところです。持ち込まない持ち出さないの原則から外れますが登山客がマムシにかまれる危険は排除しなければなりません。猪はマムシが好物で七谷追いかけるともいわれます。近年は猪が増えたせいでしょうかマムシは減ってきていますが、それでもこのような朽ち果てた古木にマムシは多いのです。朽ち果てたブナにはカブト虫などが卵を産み付けて幼虫が多く住みついています。マムシにとっては恰好の餌場となるのでしょう。特に雨の後によく出ています。保護色で目立たちませんが、小さくとぐろを巻いていて人が近付いたりすると警戒して尻尾を小刻みに振りますので落ち葉から震える音が聞こえてくることがあります。山歩きではブナの朽ち果てた木に近付くときはマムシがいないか特に注意しましょう。スパッツを着用していればマムシを知らずに踏みつけても咬まれる確率はうんと低くなります。また、ムカデやダニなどがズボンの裾から取りつくことも無いので安全のために山歩きはスパッツ着用を勧めています。余談ですが、マムシに咬まれたりスズメバチに刺されたりした場合はすぐに傷口から毒を吸い出さなくてはなりません。その場合の毒を吸い出す携帯用の器具を携行していれば安心です。洗髪のシャンプーの空になったボトルでポンプの部分だけをはずしてもその機能は充分あります。

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22-滝・尾前古道分岐

 平家ブナの標識地点から7〜8分程進むと歩道は稜線の真ん中から左、西側へ回り込むようになります。この地点から稜線の右手、東側へ滝集落への古道が分かれて下りています。この古道も整備されていないので通行不能ですが、地図を見ると滝集落と尾前集落につながっていたようです。えぐれたような道になっていないので人の通行に便利な道として利用され、木浦古道と同様に物資を運ぶ馬はつうこうしなかったので゛はないかと思われます。霧立越は長い稜線を辿る道ですが、小屋場古道、木浦古道、三方界古道、滝・尾前古道、松木古道など、地図を見るとすべての古道がこの稜線から長い尾根が伸びているところを尾根伝いに移動していたことが分かります。

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23-見晴しの丘

 滝古道分岐から稜線の左手、西側少し下がったところをここも7〜8分ほど進むと垰(たお)に出ます。この垰(たお)を少し下りれば急に視界が開けて見晴しの丘に出ます。ここは携帯電話が使用可能です。朝からブナの森の中ばかりを歩いて来たためか開けた場所に出ると実に爽快感があります。馬つなぎ場で昼食には少し早いなあと思った時はここで昼食をとります。ここはもともとは植林地でありましたが杉が枯れてしまい草原のようになっているのです。光をさえぎる樹木がなくなると草本類の出番ですが、悉く鹿に食べられてしまいますので今では鹿の食べないシダ類ばかりが繁茂しています。
右手遠くに見えるのは向霧立山地南部の山々で、稜線の一番下がったところが不土野峠、その左手の高い山が江代岳です。天気の良い時は、不土野峠の奥に霞む霧島の山や高千穂の峰などが遠望できます。秋には左手正面の山々が紅葉に染まります。それにしても、西南戦役では豪雨の中を草鞋を履いてこの霧立越を走り、向うの不土野の谷を上って峠を越え、水上村に下りて江代で本営を構えるなど想像を絶することです。草鞋が破れて裸足で走るなど人間命をかけるととんでもないような力が生じるもんだと感嘆することしきりです。
見晴しの丘から稜線を上っていくと歩道を塞ぐようにしてミズナラの巨木が朽ちて歩道の上に倒れています。以前はこの倒れた木の下を歩いて通れましたがしだいに支えていた枝が朽ちて落ち、今では下をくぐれないので木の周りを廻って通ります。ここから300mで山小屋に到着します。

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24-扇山山小屋

  この山小屋は、昭和54年(1979)に開催された「日本のふるさと宮崎国体」で扇山登山と霧立越の縦走が行われ、その時ヘリコプターで材料を運んで建設されました。その後老朽化が進みましたが霧立越トレッキングを始めるようになってから再びヘリコプターで材料を運んで建設されました。土台の鉄骨はそのままです。雨の日や雪の寒い日などこの山小屋は本当に助かります。無料でどなたでも利用できることから寝袋を持ってきて泊まる方も多く、登山者に喜ばれており、いつも利用者がきれいに掃除をしてあります。利用の後は各自掃除をしっかり行い戸締りを確認しましょう。トイレは小屋の床下に仮設トイレが設置されています。新緑の虫が多い季節などは使用に馴れない若い人達にとってなかなか難点があるようで、むしろ自然の中で用を足した方が良いかも知れません。
この先20mほどのところに水場があります。馬道をこのまま進むと松木登山口まで1,700mです。この山小屋から上へまっすぐ登りますと600mで扇山山頂です。道しるべは小屋の上に案内標識があります。携帯電話は小屋の外のベランダでつながります。ドコモよりAUの方が山ではつながる確率が高いようです。
ところで、この山小屋は下山口を決める重要なポイントです。小屋の前の馬道を真っすぐ進んで下山すれば松木登山口へ下山します。山小屋から扇山に登ってそのまま前へ進めば内の八重登山口へ下山します。下山の場所が全く異なることから間違えて下山すれば連絡が取れなくなります。特に内の八重登山口は携帯電話は電波が届かないので送迎車がある場合はこの山小屋で下山口と予定時間を連絡し合って再確認しておきましょう。

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25-ツツジ岳

  山小屋から扇山山頂への登りは、これまで辿ったような昔の馬が通った道ではなく登山道です。このため霧立越のような安定した道ではありません。小屋からは急な直登ですが、すぐ尾根に上りその先は緩やかな道になります。約20分程で最初の岩場のピークに到達します。この岩場にはヤクシマホツツジや珍しいツクシコメツツジツクシドウダンなどがあります。このピークには名前がないことからツツジ岳と呼ぶようにしています。ここから見下ろすブナ林の紅葉はとても美しいです。遠くには右から順に江代岳、市房山、石堂山が並んで見えます。このピークからシャクナゲの群落の中を進み10分弱で扇山の山頂に到達します。

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26-扇山山頂

  山頂直下は岩場ですがマンサクコツクバネウツギ、ツクシシャクナゲ、ツクシドウダンなどのの古木につかまりながら登ります。ヤクシマホツツジをかき分けて進むと眼前に山頂が現れます。山頂からの展望はすばらしく360度見渡せます。先ず北側、左手正面を振り返ってみてください。水呑の頭(1,646)(国土地理院では白岩山)が見えます。石灰岩峰の白岩山はその後ろになり見えません。水呑の頭のその上に向坂山(1,684)が頭を出しています。そこから手前の左側にくねくねと続く尾根が霧立越でこの扇山につながっているのが分かります。この尾根伝いを歩いてきました。
双眼鏡をお持ちの方は、向坂山の山頂に照準を合わせてみてください。向坂山からまっすぐ下の方へ静かにレンズを移動して林道を過ぎるとフレームの右側に黒い岩肌に白い布を引いたような部分が目に入ります。それが地図にない落差75mの幻の滝です。滝の発見はここで双眼鏡を覗いたことから始まります。扇山山頂では時として水の音が聞こえるという情報の下にその音の元を探そうとして双眼鏡で滝らしいものを確認し、現地を探査して幻の滝に辿りつきました。周辺はとても険しい崖地ですが、林道から滝壺におりるコースもできました。今度は反対の東側を覗いてみてください。天気次第ではありますが日向と思われるあたりに島陰が見えます。太平洋です。
 松木下山予定の方は、ここから一旦山小屋まで引き返して案内標識に従い松木に下りてください。約1時間20分程で松木登山口に下山できます。内の八重へ下山予定の方は、扇山山頂を通過して不動冴方面の尾根を辿ります。このルートも概ね1時間20分程で内の八重登山口に下山できます。秋は夕暮れが早いので扇山山頂からの下山時刻を4時がタイムリミットと考えた方が良いでしょう。膝が痛いなどのトラブルが発生して歩行速度が遅くなると暗くなってしまいます。

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27-縄文イチイ

扇山から内の八重登山口へ下山するには、北へ向かってツクシシャクナゲをかき分けながら進みます。苔むした岩場には風雪に耐えて盆栽のような樹形をした五葉松やヤマグルマなどの樹木が大きな根でしっかり岩を掴んでいます。良く見ると石苔のなかにはツクシシャクナゲやドウダンツツジの稚樹が芽を出しています。苔の中が発芽に最適な環境であることが分かります。
登山道は地籍調査の伐開跡と重なったり離れたりしているので良く見極めながら進みましょう。扇山から5分ほど降りると平坦な地形になります。ここで左側を見ると巨大な立ち枯れのような古木が目を引きます。縄文イチイです。良く見ると左側の部分は高く伸びて青い葉が茂り生きていることが分かります。
イチイは、ブナ帯に於ける最も長寿の木で千年以上経っていると思われる木を見かけることもありますが、この古木はもしかしたら縄文時代に遡るのではないかということです。これほどの古木になると1cmで年輪は20以上に詰まっているはずです。根元は直径2mを越えますので半径1mで二千年以上になります。こうしたことから2,300年前の縄文時代から生きてきたとして縄文イチイです。
イチイの木質は赤いことから方言では、アカギとかアララギなどとも呼ばれます。葉は先がとがっていますが柔らかく触れても刺さないので痛くありません。雪が降ると葉にまつわりついて凍りつき、風が吹いてもモミやツガなどのようにサラッと雪が落ちません。葉の構造の違いによるものと思われますが、イチイはなかな雪が離れないので枝が重たくなって折れたり曲がったりしています。苦労して育っているから長寿になるのかも知れませんが、それ故でしょうか神職の神主さんが持つ笏(シャク)はこの木で作ることになっているようです。このため木の位が一番高いとして木の名前もイチイとなったのです。この縄文イチイは、木の中心部分は腐って周りだけが立っていますがこの中には入らないでください。せっかくの長寿の木ですから根の周りを踏みつけたりして木に負荷をかけないようにし大切に見守りましょう。秋になるとイチイは赤い実をつけます。その実にはなぜか下側に穴があいていて中の種が見えるようになっています。中の種は毒と言われていますが外側の果肉は甘くて食べられます。

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28-不動冴分岐

 縄文イチイから更に尾根伝いを5分ほど進むと尾根が細くなったところで、地面の落ち葉が広葉樹から針葉樹に変わります。針葉樹はカラマツ(落葉松)です。カラマツは秋に紅葉して落葉、春一斉に芽吹きます。九州にはカラマツは自生していませんが住友林業さんが試験に植栽されているようです。内の八重下山ルートは、このカラマツの林に近付いたところで尾根を外れて右に下ります。ここが重要なポイントです。地籍調査で不動冴の方向にきれいに伐開されているので右に尾根をはずれて回り込むことなくまっすぐに進んでしまうと不動冴の岩場に入り込みますので気をつけましょう。不動冴経由で胡麻山又は内の八重集落へ下山ルートもありますがガイドなしでは困難なルートです。尾根をはずれてすぐのところに大きなヤマグルマが岩を掴んで立っている岩場の前に出ます。根の一部は鹿に皮を剥がれていますがその前を通ったら内の八重下山ルートに間違いありません。あとは一本道です。

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29-烏帽子岩

 不動冴分岐から30分程山の斜面のつづら折りの道を下ると歩道の前面に岩山がそそり立っているのが見えます。チャートの岩で烏帽子岩です。烏帽子の形に見えるでしょうか。下りばかりが続きましたので相当足も疲れていると思いますのでここで休息をとり水分補給をしましょう。せっかくの機会ですからこの岩山にも登ってみましょう。険しいように見えますが木の根が岩に張り付いて立木もあるのでつかまりながら登ると意外と簡単に上がれます。岩峰では左手に不動冴につながるチャートの岩山が重なって見えます。秋の紅葉の季節は隠れたビューポイントです。岩場の上にはクロガネモチやナツハゼがあります。ナツハゼは秋にブルーベリーのような甘酸っぱい実をつけます。この付近一帯はカモシカの出没する岩場として知られていますが平成19年(2007)登山者の撮影が最後で、岩場の周りに灌木が育ち見える機会が少なくなりました。内の八重登山口まで30分程で下山できます。

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30-内の八重登山口

 朝出発して長い道のりを歩いてきました。ようやく内の八重登山口に下山できました。お疲れさまでした。扇山から下山したこの歩道は、地元の皆さんが1989年のふるさと創生事業によって新設されたもので、その記念碑 が登山口横に建立されています。ありかたいことです。さて、お疲れのことですが、車に乗り込む前に、ここでストレッチ体操を行って体をよくほぐしておきましょう。
 車は、ここから内の八重集落を通って国道265号線沿いの鹿野遊まで下りて行きますが、内の八重集落までの林道は、極めて悪路で雨の季節は落石も多く登山口まで車の通行不能の時もあります。携帯電話は、20分程林道を下りた内の八重集落から通話可能となります。このため送迎手配等の場合は、連絡が取れないことが多いので事前に道路情報などしっかり収集されてこまめに打ち合わせを行っておきましょう。帰りは、長い下り坂が続きますので車はフットブレーキだけでは効かなくなる恐れがあります。エンジンブレーキをしっかりかけてゆっくり下山しましょう。お疲れさまでした。

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31-松木登山口

 松木登山口へ下山の場合は、扇山から一旦山小屋まで引き返して、案内標識に従って松木登山口まで下りて行きます。山小屋から松木登山口までは昔の馬道を辿りますので大変歩きやすい歩道です。50分程で駐車場へ到着します。ここは携帯電話も通話できます。下の谷間を覗くと上椎葉ダムが見えます。下山したらストレッチ体操をして体をほぐしておきましょう。ここから松木の県道まで30分、上椎葉ダムの公園まで15分程です。トイレも公園内にあります。帰りの林道は舗装がずいぶん伸びましたが道幅は狭隘で落石も多いです。充分気を付けて運転してください。特に長い下り坂が続きますので車はフットブレーキだけでは効かなくなる恐れがあります。エンジンブレーキをしっかりかけてゆっくり下りていきましょう。お疲れさまでした。
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2009.03.10〜

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