霧立越

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第8回・霧立越シンポジウム
「九州脊梁山地の地質と構造」

―幻の滝と構造線を考えるー  

基調講演 2002年7月21日

講師 山北聡氏(宮崎大学地学教室助教授)
中央構造線と秩父累帯・その形成過程


 私は、日本列島の生い立ちの中で、この九州脊梁山地、或いは、五ヶ瀬、椎葉の地域がその中でどういう位置を占めているのかということで話をしようということなんですが、ちょっと夕べの酒が残っておりまして、話がどうまとまるかよく分からないですけれども、まず、日本列島の地下構造、それから今日の後のセッション等で構造線というのが幾つか出て参りますのでその解説をしたいと思います。(OHPによる解説)

地帯構造論
 これは、日本列島の主に西日本の方になりますけれども、それぞれの地方にどういう岩石が分布しているかという図になります。これをスキャナーで読んだらあんまり色が抜けちゃった部分があるんですが、特に西日本の太平洋側の地域を見て頂くと分かるんですが、同じ色で塗ってあるのがずっと帯状に繋がっています。
 で、日本海側の方は、そんなにはハッキリしないんですけれども、何となく赤いのがずっと有ったり、灰色のがずっと有ったりしています。これは別に日本列島だけではないんですけれども、世界中の多くの地域で同じような時代に出来た同じような岩石というのがこういうふうに帯状に分布するという事がよくあります。
 それで、同じような岩石がずっと繋がって分布している部分の事を地帯というふうに呼んで、それで固有名詞をつけて何とか帯というふうに呼んでいます。
 で、こういうふうにそれぞれの地域で何処にどういう岩石がどういう関係で分布しているか、その地帯の間の関係がどうなっているのか、というのを調べるその分野を地帯構造論というふうに呼んでいます。

中央構造線の定義
 さて、その構造線という事なんですけれども、構造線というのはどういうことかというと、これは、ある岩石が分布する地帯ですね。元々の構造線の意味というのはその境目ということです。
 例えば、ここの灰色の部分と黄緑色の部分に境目の線が引かれていますが、この部分が二つの地帯の境目で、これを通常「何とか構造線」というふうに呼んでいる訳です。その中で一番大きいのは、ここでも赤で書いてありますけども中央構造線、これは大ざっぱに見て頂きますと、この図の中で北側の部分には赤で色をつけたものが結構たくさんあると思いますが、これは白亜紀という時代です。今から一億年位前なんですけれども、その時期にマグマの活動がある。こういうのを火成作用と言いますけれどもそれで出来た岩石です。マグマが地下で固まった岩石、多くは花崗岩という岩石です。あるいは、ちょっと色が飛んでしまったんですが、ピンク色で何かケバケバと書いてあるやつ、こいつは、やはり同じマグマの岩石で、マグマが地上に噴出して固まった岩石、こういうのを火山岩と言いますけれども、それを白亜紀の火成作用がずっと起こっている時代なんです。
 それに対して太平洋側の方は、そういう色が全然無くて、非常に大きな違いがありますので、それでこの北側を西南日本の内帯、太平洋側の方を西南日本の外帯と言っています。その境目として定義されたのがこの中央構造線ということになります。

地帯境界の断層
 ここで、実は構造線という用語には幾つか問題がありまして、一つは構造線というのは地図の上で見ればこの線なんですけれども、実態から言うと、地帯の境界というのは線ではないんですね。各地帯の岩石というのは地下まで分布していますから三次元的な分布をとっている訳です。そういう三次元的な物同士、境界というのは線ではなくて、本来、面なわけですね。
 地図にすると線だから何となく線にしちゃってるんですが、実は問題がありまして、そういう点でいうと地帯、地帯の帯とはおびという事ですけれども、この言い方も実は問題が有って、帯というのは、例えば地図上のような面での分布が帯状であるということによっているんですけれども、本当は地下までありますから、地帯という呼び方もあまり良くないんですが、とりあえず昔から一応地質学の中ではそういうふうに呼ばれているのでしょうがないんですが、それ以上に構造線という呼び方には本当は問題があります。
 もう一つの構造線という呼び方の問題は、元々の本来の意味は、地帯の境目ということで、それが実態がどういう物かということは含んでいない訳です。多くのケースでは、この構造線というのは断層になっている事が多い。断層と言うのは岩石の中に破断面、割れちゃった面が出来て両側がずれちゃった物、こういうのを断層と言います。ですから異なる地帯というのは、異なる時期に異なる状況で形成された岩石からなっている訳で、それぞれが接している部分というのは、元々別の所に有った物が断層で動いてきてそこで接しているんだろうということが多いわけなんです。  色々この地帯の境目というのを調べていきますと、必ずしもそれだけでは有りません。それが構造線というと何となく実態よく分からないんだけれども、断層というニュアンスで名前を付けている部分がありまして、実は、それでちょっと色々問題があります。
 で、その結果幾つか名前が付けられた構造線の中で、本来そういう物は実体が無い、あるいは、断層ではないというふうにマスで分かってしまっているんですけども、多くのケースはとりあえず断層ではある。それだったら、それはちゃんと断層であるというふうに何とか断層と言った方が実態がハッキリしていい訳なんですが、これも歴史的に日本ではずっと構造線という言い方をしているということです。で、これは日本固有の用語でしてですね、本当はあんまり良くない用語なんです。
 さて、そういう構造線と呼ばれる地帯境界の中で、断層としての性格が割りとハッキリしていて、それで、その断層の活動がかなり日本列島の形成上重要な意味を持っているものということになると、やはり中央構造線というのが一番意味を持っているということになります。

白亜紀の左横滑り断層
 この中央構造線なんですが、じゃあ断層ならばどういう断層なのかといいますと、断層というのは、さっき、岩石の中に破断面が出来て両側がずれたもだというふうに言いましたけれども、そのずれ方によって幾つか分類化されています。
 これは断層面が傾いてる時に、傾いてる所を総体的に上の方と下の方という断層の両側の区別が出来ますが、この時に、上の部分が断層面にずっと下がる、こういう断層の事を正断層と言います。逆に裏側の方が上がる場合を逆断層といいます。逆断層のことは、衝上断層と言って、上側が落ちるのか下がるのかで、縦に、上下の方向に動くのかで分類されます。
 もうひとつのケースとして断層面に沿って上下に動かないで水平方向にずれるのを横滑り断層といいます。この横滑り断層の場合は、たとえばこっち側にたってて相手側が左の方に動いていく、そういう断層もありますね。反対側に立ってても同じで、左側に動く。
 こちらのケースは、逆で、こっちから見てると右に動きます。で、反対側に立ってても相手側というのは右に動きます。横滑り断層でもその相手側がどっちに動くかとということで二つに分類されまして、相手側が左に動く横滑り断層のことは、左横滑り断層といいます。こちらの断層は、右横滑り断層、ま、こういう分類がされるんです。
 この中央講造線の場合はどうなのかといいますと、かなり永い歴史を持っておりまして、いろんな時期にいろんな方向にずれる活動をしているんですけれど、一番メインになる活動というのは、白亜紀という時代ですね。その時代に、先程花崗岩とか火成岩とかそういうのが起ったのを白亜紀と申しましたが、そのような時期に左横すべりの活動をしたと、そういう断層であることがわかっております。
 左横滑りですから、たとえば西南の方を外帯からみてると、内帯の方が西の方に動いていた。逆にしてみると外帯の方が東に動いていく、そういうずれ方をした断層であるということがわかってます。
 どうしてそういうことが解るかといいますと、その断層がそういう活動しますと、近くの化石は、その運動にともなって、岩石が壊れたりいろいろ変形をしたりしてその動きの痕跡が残されていて、構造線の運動に伴って変形を受けた岩石が、主に近畿地方や中部地方の方に多い。この中央構造線に沿って、ずっと観察することができまして、それを調べますと今の左横滑り断層、こちら固定しておきますと、だいたい東側の断層だということがわかります。
 それからもう一つの左横滑りの運動を補強するデータとして、西日本の紀伊半島から四国、九州の中央講造線の位置をいれてありますが、そこを見ますとこの中央構造線の北側に、泉層群、あるいは、九州のものは大野川層群というのですが、その白亜紀の時代の地層が中央構造線に沿って細長く分布している地層があります。
 こういう地層は、断層が横滑りの運動をするときに、しばしばその片っ側がへこんじゃつて、そのへこみが出来た所に地層がたまる。そういうふうにして溜まる地層というのがあります。そういうふうにして出来る凹みの事を横すべり堆積分といっているのですが、中央構造線の北側に見られる地層ですね、これを調べると非常に特長的な事が分かりまして、数字を入れてありますが、これはその辺りの地層がいつ頃溜まったのかというのを現在から何年位前かという数字でいっています。
 90というのもありますが90年前という訳ではなくて、単位がMAと書いて有りますがMAというのは100万年前という単位になります。ですから、それぞれ100万年を掛けないといけないんです。だからこの辺の90と書いてあるのは90×100万年ですから9000万年前ということですね。で、これ8500万年前、8000万年前という事でこの底に凹みが出来て地層が堆積をする時期というのが、西側の九州の方から紀伊半島の方まで段々段々若くなって行きます。
 これもその横滑り堆積分の特徴でありまして、この前はですね、要するに北側の、先程西南日本の内帯と言いましたが、こちらが段々段々西側に動いていく。こちらを固定しておくと西側に動いていく事に伴って、その動いて行く側で常に同じ所に凹みが形成されているというふうに考えると、こういう徐々に徐々に溜まる所が移動していく堆積分の形成というのを説明する事が出来まして、それから見てもですね、西南日本、内帯の方が西側に動くというふうに形成された物だということが見て取る事が出来る訳です。そうすると、この9000万年前とか7000万年前とかいうのは、さっき言った白亜紀という時代なんですけれども、その間を2000万年位かけて、この間の距離が大体500前未砲覆襪鵑任垢、それ位ずれたものだというふうに見る事が出来るということです。

大陸から離れて曲がった
 ところで、この中央構造線なんですが、もう一回最初の地図に戻ってみますと現在の中央構造線というのは、この辺でクチャクチャとしている、何となくこの辺でクニャッと曲がってですね、ちょっと20°位曲がって、この辺なんかずーと大きく湾曲をしています。先程いったこの中央構造線が横滑りの運動をしたと、この断層に沿って両側が水平に食い違う運動をしたというふうにしますと、実は、曲がっている断層でそういう運動というのはしにくいんですね。
 で、この辺ずーとこう動くけれども、断層が曲がっているところではこちらと同じように動こうとするとこっちに押し上げちゃってあまり動けないんですね。で、普通横滑りの断層といのは本来真っ直ぐな、この地図上に書けば真っ直ぐになっていないといけないんですが、これは現在は曲がっています。これは実は、後から出来た事でありまして、この辺で曲がる、それからこの辺で曲がる、というのは日本列島は元々この北側にある日本海の海が無くて、本来はこちらの大陸側にひっついていたものです。
 これが1500万年くらい前にこの日本列島の部分が大陸から離れてこの太平洋の方へ押し出されていった。その時に、実はこの曲がりというのが形成をされたものです。ですからこの九州からもっと南日本へ中央構造線は延びていくんですけれども、日本列島全体が、南九州から琉球にかけての部分は除きますが、その他の部分が時計回りにグニュッと回転をした事によって中央構造線の方向というのは曲がってしまったということになります。
 その曲がった時に、ここに伊豆諸島がありますが曲がっちゃう時に、こいつはすでにこの辺に有ったので、ずっと動いてきた日本列島の西南日本の分がここで衝突しちゃって充分回転出来なかった為にこの曲がりも生じてしまったと、そういうふうに考えられると。それで、西南日本は曲った。その日本海が出来る前の状態で考えると、この中央構造線というのはどうなるかと言いますと、大体こんなふうに南北に縦になる。今の西南日本がグニャッと回転して背後に日本海が出来たのを、その前の状態に戻してやるとそういうふうになる。同じ位置に戻してやるとそういう位置に来ます。
 それで、この赤で書いた中央構造線ですが、そのようにずっと追いかけていくと、この東北地方にもやはり同じ白亜紀の時期に、左横すべりに活動した断層があったり、こちらに棚倉構造線といってちょっと少し時期が違うんですが、やっぱり白亜紀に動いた断層がありまして、そういうふうにつながっていって、やはりロシア沿海州にも同じ時期に同じように動いた断層、おそらくそれとずっとつながっていたものだろうと、この状態でいまの左横すべりをしたんですね。この場合は、どちらを固定するかというと、内帯側というのは、大陸といっしょくたになっておりますので、日本列島の太平洋側の部分ですね、この西南日本外帯とよばれている部分が南から北に断層に沿って動いていったものというふうになるということなんです。で、中央構造線というのは、元々こういう状態で白亜紀の時代に横に動くずれをした、そういう断層であるという事になります。

地質構造の時代区分
 ここで、最初に出すべきだったかも知れないんですが、今出てきた白亜紀のような時代のことを解説をしておきますと、これは現在からさかのぼって、地球の歴史の中で幾つかの時代区分もしておりまして、これがその表です。横に年数書いてありますけれども、これがさっき言った事と同じですね、100万年を単位とする年数になります。かける100万年と書いてありますが、先程MAと出てきたのと同じですね。今言っていた白亜紀という時代は6千5百万年まえ位から1億4千4百万年前までの間ということですね。これが現在で一応時間のスケールは比例するように取っていますので、それぞれの幅が各時代の長さという事に対応しているんですが、今日の話しに出てきますのは、白亜紀とその前のジュラ紀、三畳紀、この三つで中生代という時代を構成してまして、この次の時代を新生代ということなんですが、それからこの中生代の前の古生代の終わり頃のペルム紀、それの真ん中位のシルル紀とデボン紀というのが一応出てきます。色をつけたこの順番を頭に入れといて下さい。一番古いのが中生代の真ん中位のシルル紀、デボン紀、古生代の終わりから中生代にかけてフェルム紀、三畳紀、ジュラ紀、それから白亜紀という順番になります。

三波川帯、秩父累帯、四万十帯
 それでは、中央構造線以外の地帯境界としての構造線はどうなっているのか、というのを見ていきますと、今の地帯構造の各地帯が帯状に配列しているというのは、特に、西南日本外帯の側で認めることが出来ます。
 特にその中でも四国の部分がはっきりしていますのでその部分の拡大をして見てみます。これはその部分の地帯構造を示す地質図になりまして、今お話をした中央構造線ですね、それからこの地図でも赤い色で書いてあるのが西南日本内帯ですね、北が西南日本内帯といいますが、そこに出てくる白亜紀の火成岩、マグマの活動で出来た断層といいます。
 このような岩石というのは、西南側の外帯の方には、あんまりないということなんですが、この西南日本外帯でやっぱり同じような色で塗り分けられているいくつかの地帯を認めることになるんですが、この西南日本外帯を大きく分けると三つの帯になります。
 したがって、これ三波川帯、中央構造線に接しているんですが、それの右側の秩父累帯、秩父帯ではなくて累をつけているんで一応意味があるんですが、秩父累帯。それから、四万十帯というこの三つの地帯を西南日本外帯に関しては認めることができます。
 それぞれの地帯を構成している岩石というのは、いったいどういうものかといいますと、おおざっぱには、南の方からいきますと四万十帯は、先程出てきました白亜紀という時代に出来た付加帯といわれるものです。付加帯については、後で説明しますが、それから秩父累帯は、この白亜紀の一つ前のジュラ紀の時に出来た付加帯。秩父累帯の方は、他のものも入ってくるんですけれども一応これがメインである。
 で、三波川帯の方はどうかといいますと、これはだいたい四万十帯と同じ白亜紀に出来た付加帯が変成作用を受けたものであります。変成作用というのは、一旦出来た岩石がですね、たとえば地下の深いところにもっていかれると温度と圧力が上がって、岩石の特徴が変わったものをいいます。そういうのを変成岩といいます。ま、そういうので出来ていると言う事です。ということで大きくみることができます。
 それから、四万十帯というのは、白亜紀と書きましたが同じ四万十帯でも南の方の室戸岬とか足摺岬とか、もうちょっと若い時期の第三期に入った新世紀代に入った付加帯なんですが、ここでは、北の方に限っていうと、白亜紀の付加帯ということですね。ま、西南日本外帯の部分は、変性作用を受けた部分というのもあるんですけれども、大体全体が白亜紀とかジュラ紀のような中世代の時期に出来た付加帯と呼ばれるものだということになります。

海洋プレートの沈み込みによる付加帯
 じゃこの付加帯というのは何かといいますと、この付加帯の形成をおおまかな、ちょっと漫画的な図で示したものになりますが、付加帯では現在の太平洋のような大きな海の底の部分ですね、これは、その地球の表面にある地殻とそのもう少し下の方のマントルと呼ばれる部分の一番上の方とでプレートというものを構成していてそれが運動している。
 厳密に言えば、海だけじゃなくて、陸地の近くの場合もそうなんですけども、そういうプレートの運動というのを行っています。特にその中で、海の底を構成している部分を海洋プレートと言いますが、そういうのはずっと動いていって大陸のへり、或いはその近くまで来た処で海溝と呼ばれる非常に深い海があって、そこの処から陸側の下にズズーっと入っていくという運動をしています。入って行くと海の底は無くなっちゃいますから、無くなる部に相当する部分はずっとこちらの方の根元の方でですね、海嶺と呼ばれている部で、新しく海の底というのは絶えず創られているんですが、そうやって絶えず創られている海の底がずーと動いてきて海溝まで到達すると大陸の下に入って行く、潜り込んで地下に消えていくという運動をしています。
 こういうのも海洋プレートの沈み込みというんですけれども、その沈み込みの際に海洋プレートと一緒に移動してくるのは海洋プレート本体だけではなくて、その表面、つまり海底に露出していた分に堆積していた堆積物が一緒に動いてきます。どういうのがあるかというと、太平洋の深い、陸から離れた海底で堆積したものが海洋プレート本体の直ぐ上に乗っている事になりますね。そういう堆積物は、陸から離れた所ですと、陸側から運ばれてくる砂とか泥とかそういうのを堆積物、陸上の岩石が、生きていたその生物の死骸が落ちてきて溜まったものというものになります。
 具体的には、白亜紀とかジュラ紀のような付加帯に関して言うと、ほとんどはチャートという岩石になります。チャートというのは、昨日断層探検班で行かれた方はご覧になったと思いますが非常に緻密で硬くてガラスのよう感じのするああいう岩石になりますが、そういうのが出来ています。
 海洋プレートがズーと動いてきて段々陸地に近づいてくると、少し陸からのものが届くようになりまして、陸から少しだけ離れた所になりますと、陸からあんまり大きな粒子は運ばれて来ないんですが小さな粒子、泥のような粒子が運ばれてきて、そういうのがさっき言ったチャートのような生物以外と交じり合った堆積物になるようになります。
 で、そういうのを半栄養性の堆積物といいまして、これはチャートと泥岩の合いの子のような岩石、こういうのを珪質泥岩というんですが、そういうのが溜まるようになります。それがもっと陸に近づいて海溝のところまで来ますと、これは陸からどんどん泥砂が運ばれてくるようになりますから、海溝のところは陸から運ばれてきたものは全部ここに溜まって、ここから沖には行かないんですけれども、この海溝のところには砂とか泥が運ばれてきて砂岩とか泥岩のようなものが溜まるようになります。
 で、ここで堆積したもの、海溝のところに詰まった堆積物ということで海溝充填堆積物といっていますが、沈み込む直前の海洋プレートの上には、下から深海堆積物と半栄養性堆積物とその上に重なった海溝充填堆積物が重なったセットが出来る事になります。これが沈み込んでいく時、この表面に溜まっていた堆積物は一緒に吸い込まないで、この海洋プレート本体から分離されて陸側の方にペッと引っ付いてしまうという事が起こります。こういうのを付加作用というふうにいいまして、この時に出来る地帯の事を付加帯というふうにいっています。
 この図では、元々海洋プレートの上に溜まっていた地層のオリジナルの重なり方で、これを保持したような形で引っ付く、そういう状態の画を書いてありますが、そういうケースもありますし、この付加が起こる際にこれらのものがごちゃ混ぜになってしまってこういう綺麗な成層構造を持たないケースもありますが、いずれにしてもこういうふうにして付加帯が海洋プレートの沈み込みに伴っては形成されていくということになります。

古いものから新しいものへ付加帯の配列
 先程の西南日本外帯に見られる付加帯というのは、ほとんど全部そういうふうにして海洋プレートの沈み込みに伴って出来た付加帯だということになります。実はですね、西南日本外帯だけではなくて日本列島のほとんどの部分はそういう付加帯という部分で出来ています。その日本列島の土台を構成しているものはほとんどがそういう付加帯になります。
 それを、非常に大ざっぱに日本列島の土台部分を示したのがこの図になりまして、このオレンジで塗ってある分、縦縞を入れてある分、これがジュラ紀の時に出来た付加帯、今のように海洋プレートの沈み込みで出来た付加帯ということですね。この黄色で斜めに線を入れてある分がそれ以降ですね。ジュラ紀の次が先程の表で示しましたように白亜紀になりますが、その白亜紀からさらに後の第三期に出来た付加帯ということになります。
 この中で水色で塗られているような模様をつけているところがありますが、これはそのオレンジのジュラ紀よりも前に出来た地質帯でして、ちょっといっしょくたにしてあるんですが、この中には、より古い時代の付加帯というものも含まれます。この部分は、フェルム紀という時期に出来た付加帯でして、ま、ちょっとそれ以外の岩石もあるんですが、大きくみるとこの水色、日本列島に関しては特に西南日本の北側から行きますとフェルム紀に出来た付加帯、ジュラ紀に出来た付加帯、白亜紀に出来た付加帯ということで、大雑把には北から南に向かってだんだん新しい時代に出来た付加帯が配列をしているということになります。
 これは一番北の方の、陸上でいうとこの北陸地方のここだけになりますが、この部分には先程日本列島というのは、アジアの大陸から1500万年位前に分離したと申しましたんですけれども、その時の大陸の欠片の一部がでている部分がありますが、これを含めると大陸の一部があって、フェルム紀位の付加帯があって、ジュラ紀の付加帯があって、白亜紀の付加帯があるということですね。
 これは、ようするに日本列島というのは、基本的には、ずっと大陸の縁に位置していて、そこに海側からのプレートの沈みこみによって付加帯が順次、古いものから新しい物へ形成されていったもので、おおまかにみると、そういうふうにみることが出来るということですね。

仏像構造線と衝上断層
 それで、この西南日本の外帯を構成している部分は、典型的に付加帯であるということです。これは地帯の境界のなかで、この秩父累帯とよばれている部分と四万十帯の境界になっております。この地帯が境界になっている部分のことを仏像構造線と呼んでいます。
 で、先程述べた構造線の定義からいうとそういう地帯の境界だということなんですが、じや、実態は何なのかと言いますと、仏像構造線の断層が、昨日も運良く実際路頭で見る事が出来ましたが、あのように断層は断層なんですけども大した断層ではありません。で、その断層の部分に実際、断層の活動に伴って破砕された岩石が壊れた部分というのはある訳ですけども、そんなに大きく壊れているという訳でもありません。
 こちらの方はどういう性質の境界の断層なのかと言いますと、これは、ジュラ紀に出来た付加帯ですね、南側の四万十帯というのが白亜紀の、その次の時代より新しい時代に出来た付加帯ということになるんですが、そうすると、そういうふうに付加帯が累進的に発達をしていくということになりますと、一つ前の時代に出来た付加帯の下に、新しい付加帯が沈み込んでいって引っ付くということになりますので、上から下に向かって新しい付加帯が付け加わっていくことになります。
 動きとしては、こちらを止めておくと、この海洋プレート本体がずるずると入っていくので、あるいは、こちらを止めておくとこちらが上がっていく、相対的な運動としては、そういうことになりますが、先程述べた断層の動き方による分類ということで言いますと断層は傾いていますからその上盤側が上がるということで、これは衝上断層というふうに分類されるということになります。
 先程述べた、中央構造線と、仏像構造線と両方とも構造線という名前が付いておりますが、こういうふうに構造線、地帯境界としての性格、あるいは、断層であるわけですけれども断層の性格としては、これまは全然違うものだという事になります。こういう点からも、こういうのは、一区切りにして構造線と言っていることの多少問題はあるんですけれども本来ならそれぞれ境界としての性質を表すとこちらを中央断層とでも呼ぶとか、こちらは衝上断層というふうに呼ぶとか、そういうふうにしたほうが良いというのは先程冒頭に述べたような事だということです。

複雑な構造の黒瀬川帯
 それで、今回は最初にシンポジウムのお話を頂いた時に、主に、中央構造線と仏像構造線のお話をしろという事だったんですが、ここでですね、他に重要な、特に後で出て来ますが九州の脊梁山地との関係で言うと、それに対応する分というのはこの西南日本外帯の処に有るんですけれども、この部分に、重要なものがありまして、この秩父累帯、先程、秩父帯ではなくて累、重ねるという字をここに入れると言いましたが、この三波川帯とか四万十帯のような単一の地帯ではなくて、幾つかの地帯が合わさったものになります。
 だから、秩父累帯と言う名前になったんですが、この地図を見ても何となくこの辺の処ですね、四万十帯とか三波川帯がわりと一色で塗られているのに対して、色んな色の違う小さいのがボツボツとこの辺にあるのが分かると思いますが、実は、この辺の部分、秩父累帯は主にジュラ紀の付加帯が主体だというふうに言いましたけれども、それ以外のものが、丁度秩父累帯の真ん中辺か真ん中よりチョット南よりの部分に幾つか分布しています。
 それで、この秩父累帯に関しては、そういう部分を一応別の地帯だと考えまして、その、秩父累帯の分だけ取り出しますと、より細かく区分がされています。
 これは、先程の四国の分ですが、これが中央構造線で三波川帯があって、この色をつけた部分が秩父累帯という事になって、この青が仏像構造線なんですけれども、一応この部分はさっきの真中辺にあったチョット変なものですね、いっぱい変なものがある地帯ですね、こいつを黒瀬川帯というふうに呼びまして、それぞれ呼び方は色々あったんですが一応私共と共同研究者等では、北側のものが北部秩父帯、南側のものは南部秩父帯という呼び方で統一しましょうということでやっているんですが、そういう区分がされます。
 で、この黒瀬川帯の部分ですね、この中で北部秩父帯と南部秩父帯部分は、これは、先程見ましたように、この主体をしめているものは、ジュラ紀の付加帯です。ちょっと、これ付加コンプレックスと書いてありますが、付加帯に対して同じ物で出来ているんですが北部秩父帯の方はそれにちょっと古いペルム紀の付加帯もこういう青で示したもので、こういう処に付け加わっておりまして、これが、ジュラ紀付加帯の上に重なっている事になりますが、こういうのを除くと両方ともジュラ紀の付加帯ということになります。
 それに対して、本当はこの真ん中の黒瀬川帯の部分でして、この中にはそれ以外の色んなものがはいってきます。一番特徴的なのは、これは非常に古い岩石、これは古生代の中頃のシルル紀とかデボン紀の頃に堆積をした地層とか、あるいは、それより前からあった花崗岩とか変成岩のような大陸の一部を構成したものというふうに考えられますが、そういうものもチョボチョボ入ってくる訳です。
 それ以外にも、ここでは全部一括しましたけれども、フェルム紀から三畳紀、ジュラ紀くらいにかけて付加帯というのは、そこの堆積岩というのは、深海底とか海溝のような深いところで溜まった岩石になりますが、そうではなくてもっと浅い所、陸に近い浅い所で堆積をして、それで、陸に近いところですから生物がいっぱい生きていて色んな化石が出てくるようなそういう地層も分布をしてきています。あと一部は複雑に混ざり合って、両側の北部秩父地帯とか南部秩父帯とかに含まれるのと同じようなジュラ紀の付加帯というのも一部あるんですが、そういう色んな物がごちゃごちゃになったのが、この黒瀬川帯という事になります。
 で、この黒瀬川帯というのは何なのかと、先程日本列島のその土台部分の地質というのは、色んな時代に出来た付加帯で出来ていると、北側ほど古いのが有って、南側に新しいのがあって段々付加帯が成長しきているんだということでおおよそは説明出来ると言ったんですが、黒瀬川帯に関してはですね、ジュラ紀の付加帯の間にちょっと古い岩石を含むような、しかも、大陸の一部だったような岩石を含むようなものが挟まっているということになります。

黒瀬川帯の起源
 これは、先程のわりと単純な説明では合致しなくなりますので、じゃあこれなんなんだということになりまして、黒瀬川帯の起源に関しては幾つか説があります。で、一番古くから考えられていたのは、海洋プレートと一緒に動いてきた大陸のかけらがあって、太平洋プレート上に乗っていた小さな大陸があって、そういうのが海洋プレートの沈みこみの際に一緒にこの辺にくっ付いてしまったものだと、衝突してきた大陸の欠けらではないかという説があります。ただ、この説はですね、出てくる大陸の欠けらが、あまりに分布がしょぼい訳ですね。この、極々小規模にしかありませんので衝突した大陸片だったらもっとでかいのがドンとあるだろうということで、これはちょっと、かなり早い段階でそういう考えというのは却下されています。
 もうひとつの考え方としては、ちょっとおおざっぱなモデル図で書きましたけども、今は、この黒瀬川帯の部分というのは、この秩父帯の主体を占めていたジュラ紀の付加帯ですね、あれの上にペロッと乗っかっているだけだと、それが地質構造として下に沈んだ構造をしているので、その、下に沈んだ結果の上の方に乗っているやつがポコポコっと見えているのがこの黒瀬川帯であるという考え方ですね。
 そうすれば、要するに黒瀬川帯を構成している岩石というのは、言ってみれば日本列島分布の中でいうと、大陸のかけらとか、あるいは一部ペルム紀の付加帯よりジュラ紀の前の地質帯も含むんですが、こういうのは本来このジュラ紀の付加帯に対しては、それの上に乗っている関係になります。
 西南日本の内帯の関係でいうと、これの上に、北に傾斜する衝上断層でこういうのが重なっている関係になりますが、それが、そのまま延長されて外帯の部分でも見えているんだという見解がだされました。
 ただ、これも実は間違っていまして、実際そういうのを調べると、黒瀬川帯とその両側の秩父帯のジュラ紀付加帯との関係というのは、実はこんなふうになっています。このピンク色で書いたのが黒瀬川帯になりまして、こちら北部秩父帯、こっち南部秩父帯になりますが、これの上にペロッと乗っているのではなくて、この黒瀬川帯の、シルル、デボン紀の地層とか、古い花崗岩を含むような黒瀬川帯の部分というのは両者に挟まれている。で、上から下に重なってたのであるということが明らかになってきました。
 ですので、さっきのは、上に黒瀬川がペロッと乗っているという事にはならないということですね。じゃあ、黒瀬川帯というのは、なんなんだ、ということになりますと、それはですね、どうも調べますと、この黒瀬川帯の周りに、黄色で書きましたけれども、ところどころ白亜紀の地層というのが分布をしてきます。これは、付加帯ではなくて付加帯が形成された後でその上を覆った浅い海のとこで堆積をした層なんですが、そういう浅い海の地層ですからその中には、化石がいっぱい入ってきます。
 その化石を調べると、実はこの黒瀬川帯の北の縁の部分ですね、ここを境にして両側で出てくる化石の種類がちょっと違っていまして、南側の黒瀬川帯の方で出てくる化石は、比較的にかなり暖かいところで生きていたような貝の形である。対して、北側の北部秩父帯については、それより相対的にその寒い環境で生きていたその成分の化石である、そういうふうに分布してくる化石が違うという事が解ってきました。
 その部分を説明するにはじゃあどう考えるかというと、先程中央構造線の時に述べたように、もともと日本海が出来る前の日本列島というのは、白亜紀の後期なんですが、白亜紀の終わり頃にこの中央構造線のとこで海側のものが南から北に上がってくる。そういう運動をしていたという事になります。
 実はそれと同じようなことが黒瀬川帯に沿っても起こっていたのではないか、そういうふうに考えると、黒瀬川帯南側にきては、より暖かい処に生きていたような生物の化石が出る。そういう暖かいとこで堆積したような地層が分布してくるというふうな説明がされるわけです。
 これは、先程の図から中央構造線が白亜紀、特に白亜紀後期になりますが、その時に、左横滑りを起こした。太平洋側のものが北に上がってきたというふうに言いましたが、その移動量がだいたい500キロ位のものでしたので、それを戻したものがこういう図になります。
 中央構造線が活動したのがだいたい一億年前より後なんで、白亜紀の中頃以降、後半になるんですが、それを戻すと白亜紀中頃の日本列島付近の分布図というのは、たぶんこんなふうになっているんであろうということですね。そうするとそれ以前に先程の、黒瀬川帯の周りで化石の種類が違うと言ったのは主に白亜紀前期の、これよりも前の時代の地層でありまして、そうすると白亜紀後期には黒瀬川帯のとこで左横滑りが起こっていたのですが、それより前の白亜紀前期の時代には、ここにちょっと緑で書いてみましたけれども、この黒瀬川帯からこれもやっぱり沿海州という処に続いていたんだと思われますが、この部分で同じような左横滑りが起こっていたのではなかろうかということですね。
 そこで、どの位ずれたのか、厳密にはあまりよく解らないんですが、今のとこからですね、ここがもともとの東北地方のこの部分でありますが、これをズルッとずらして多分こいつがこの辺のところにきてますですね。あと、四国の黒瀬川帯のあたりとかもっとこっちのここら辺にくるんだと思いますが、こういうふうになっているのが白亜紀前期ですね、ずっとずれてきたという事ではないかということなんですね。
 それだったらどの辺にあるかというと、この辺には、朝鮮半島ですから大体、南中国位になります。すなわち、この黒瀬川帯の中に入って来ると、あの古い大陸の欠片のようなもので、これらのものは、もともとは、南中国のその大陸の一部だったもの、それがいまの、横滑り運動ですね、そこからちぎれてこっちの方にずっと運ばれてきたものではないかというふうにみる事が出来るということですね。

九州の中央構造線の特長
 それで、九州の話をする時間があまり無くなったんですが、大急ぎでやりましょう。さて、じゃあそういう日本列島全体の地帯構造をふまえて、九州をどう考えるかということなんですが、で、九州の地図になります。九州の地質構造というのは、今まで述べてきたような四国を中心に述べてきた西南日本一般とは、少し様相が異なります。まず今まで述べてきたような地帯構造、それから地帯境界としての断層ですね、構造線がどうつながってくるかということなんですが、まず中央構造線に関しては、四国の方からずっと追いかけてくると佐賀関半島の北側にくるというのは確実です。
 この佐賀関半島のとこには、四国と同じ三波川地帯がありますんで、それから西側の方にこのように赤で書いた白亜紀の花崗岩なんかがここにあります。これらは、西南日本相対のものになりますし、それから、黄緑色で書いてある地層、これが大野川層郡というんですが、これが先程述べたような四国なんかで、中央構造線の北側にある泉層郡とよばれる地層と基本的に同じものだと思われますんで、こういうものは内帯である。そうするとその内帯をずっとたどってきますと九州の八代と臼杵を結んだラインで、この部分が中央構造線にだいたい相当するということになります。
 これを臼杵・八代構造線といっているのですが、そうすると問題は三波川帯が出ている佐賀関半島のとこに、ちょつとくい違ってしまうということが起こります。一応これ何なんだということになりますが、これについては次のように考えると良いだろうという事ですね。
 それは、中央構造線というのは、従来はこっち側まで高角にずぼっと入っていると、ま、そういう断層だと考えられてます。ほぼ垂直に近くこっちからずっと入っている断層だと考えられてます。こことここで食い違うとちょつと困るんですが、ま、最近いろんな調査の中で中央構造線というのは、そうではなくて地下になると特に出てきているらしいということが解ってきます。
 で、これは別府湾のちょっと沖のとこでですね、海の上で人工的な地震を起こしてその地震のはねかえってくる波によって地下の構造を調べたものなんですが、その中でこの辺が中央構造線があるだろうと、これは、佐賀関半島で三波川帯ということで中央構造線だろうということです。ずっと地下に沿っていくとこの辺でこう低角になってくるということなんです。これは四国で調べても、中央構造線は、やっぱり地下では、どうも低角になってるらしいということが解ってきまして、そうすると高角であればそういうふうに食い違っちゃうと困るんですが、低角であれば、これをちょっと曲げてやれば多少うねらせてやればですね、例えば、外帯である、三波川帯の南の処に先程の内帯のような大野川層郡が出てくるというのも説明できるということで、中央構造線が一旦ここでぐにゃっとへこむんですが、その分布に関しては説明できるだろうということですね。
 それで中央構造線をぐにゃと曲げた、こういう図になります。低角なですね、ちょっと波打つ事によって、地表での分布は、こういうふうになってしまったということですね。
 それからもう一つ、九州の中央構造線で四国と違うことは、この秩父累帯の部分で、秩父累帯の中に入っていた黒瀬川帯がずっとこの赤っぽく書いてあるのが黒瀬川帯の構成要素になりますが、これが臼杵、八代構造線のすぐ傍まで出てきます。その辺をもう少し詳しくみせますとこんなふうになりまして、臼杵・八代構造線のすぐ南側の部分ですね。これは、大部分は黒瀬川帯という事になります。
 その南側には、南部秩父帯を相当する部分というのは、ずっと認められるんですが、ここでその四国なんかとの違いは、この黒瀬川帯の北側にあった北部秩父帯の部分で、それがどうもないらしいということなんですね。四国では、北側から、北部秩父帯があって、黒瀬川帯があって南部秩父帯ということだったんですが、九州では、この北部秩父帯がない、黒瀬川帯と南部秩父帯しかないということなんですけれども、じゃこれどういふうふうに説明するかということなんですが、先程四国の、西南日本の主体のところでは、中央構造線とそれから黒瀬川帯のところでそれぞれ白亜紀前期と白亜紀後期の時に左横滑りを起こしていた。それが九州ではずっとその白亜紀を通して同じ所でこの臼杵・八代構造線に相当するところで中央構造線とか黒瀬川帯でやっていたような左横滑りがずっと続いていたというふうに考えるといいだろう。
 実際にこのへんには、先程の大野川層郡がありますので、白亜紀後期には、ここで動いていましたし、黒瀬川帯の北側に動いていた白亜紀前期の横滑りというのが基本的にこれと同じとこで起こっていた。その、ずっと同じ所でそうゆう左横滑りが続いていたというのが九州の特異なところであろうということです。
 それで、最後に、現在我々がいるのは、この辺九州の真ん中、位になりますが、そこがどういう位置を示すか、といいますと、その辺の地図を示すと凡そこんな感じです。これは、あの私の学生時代の先輩のこの辺調査されてですね、調査した所で五ヶ瀬のまさにこれ祇園山ですね、ホテルフォレストピアがこの辺の所ですね。そこでは祇園山というのは、ご承知のとおり、シルル紀デボン紀の古い地層があって、その珊瑚の化石が出るような古い地層があって、その基盤にはあの古い花崗岩があります。
 これはまさに黒瀬川帯のその構成要素になります。それから同じようにあの黒瀬川帯の構成要素として、これ十根川層と呼ばれているんですが、現在我々がいるのは、この辺ですけれども黒瀬川帯と南に南部秩父帯があると、こういう関係になっているということです。すみません、だいぶ超過をしましたが。(拍手)

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2009.03.10〜