霧立越

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霧立越ドキユメント

キリタチヤマザクラ発見記


不思議なサクラ
 1999年4月29日。その日は、芽吹きはじめた山々に陽光がまぶしく光っていた。私は、霧立越トレッキングのお客様をガイドして標高1620mの白岩山に辿りつき、岩峰の上からブナ林を見渡して白岩山の植物の植生や遠くに霞む山々の説明をしていた。すると岩峰の下でピンクに染まり、際だって美しいサクラが視界に飛び込んできた。「あっ、咲いてる咲いてる」と、思わず声をあげてしまった。岩峰を下りて見たい衝動にかられるが今日は時間がない。「日を改めて来よう」と心に誓いながら「さあ、それでは出発しましょう」と声を掛け白岩山を後にして扇山へと向かった。
 霧立越とは九州脊梁山地の尾根に残る廃道で、その昔、肥後の馬見原から平家の隠れ里として知られる秘境椎葉まで馬の背で物資を運んだ道である。平家の落人を追討に来た那須大八朗宗久も通ったと言い伝えられている。あたり一面は、ブナの原生林が広がり植物の植生が非常に豊かな聖域だ。
 その杣道の尾根伝い部分12kmを今では、トレッキングコースとして活用している。麓のホテルから標高1500m近いゴボウ畠まで車で上がり、そこから1時間も歩くと白岩山の岩峰に到着する。白岩山は、九州で最も標高の高い石灰岩地帯で、イワギクやホタルサイコなど氷河期からの生き残りといわれる遺存植物が多く、植生の南限とされる北方系の植物や大陸系の珍しい植物が春から秋まで次々と花を咲かせてお花畠を造っている。
 1995年以降、霧立越をトレッキングするようになってから、ここで見かけるサクラはどうも普通のサクラと違うのではないかという疑問を持ちマークしていた。これまでも「普段見ているサクラとは違うでしょう。」といって植物に詳しい方を何度かご案内して説明したが「多分エドヒガンでしょうよ」との反応しかなかった。それでも「どうも違う」という疑問をいつも抱いていたのである。
 九州山地にあるサクラの自然種は、エドヒガンとヤマザクラの二種で、エドヒガンは開花期が早くて葉より先に花が咲き、ヤマザクラは葉が先に出てその後花が開く。エドヒガンのことを地元ではホンザクラと呼び、ヤマザクラのことをカバザクラと呼んでいた。ホンザクラの皮は剥ぎにくく、カバザクラの皮は剥ぎ易い。皮目が横目で光沢があって丈夫なため、昔は、鋸や腰なたなどの鞘に貼りつけたりして細工ものに利用したものである。特に若木の皮は紫褐色に輝いて美しい。
 カバザクラに大木がないのは、この皮が丈夫過ぎて育つ程に皮が強靭となり自分の皮に締めつけられて枯れてしまう。だから大木になれないのだと古老から教わった。縦に切れ目を入れてやるとそこからまたしばらくは育つという。カバザクラと比較して見るのがミズメザクラである。ミズメザクラは強烈なサリチル酸メチルの香り(サロンパスの匂い)を放つが、この木は直径20センチくらいになると皮を縦にバリッと破りながら育っていく。だからミズメザクラは巨木に育つというのである。ちなみにミズメはカバノキ科でサクラとは花が異なる。破った皮目に肉がついて盛り上がってくるので「目づめ」から転じてミズメになったと後日、東大の大場秀章教授から教わった。皮の裂けた部分が膨れて出てくるので大木に育ったミズメを製材するとその年輪の模様が美しい。育ち方も特長があり斜面に対してほぼ直角に立つ。
 サクラに関する知識はこのような程度で、花柄がどうだとか、ガク筒がどうだとか、雄シベや雌シべ、ガク裂片、芽鱗、毛、葉身、密腺、鋸歯がどうだなどという知識はまったくなかった。けれども、このサクラはどうも他のサクラと違うという思いがだんだん高まってきていた。花が大きく、ピンクが濃い、樹形がなんとなく違う。「今年は何時頃咲くのだろうか。もうそろそろかな」。そういう思いでその日も霧立越トレツキングのガイドをしていたのである。

はじめての花の撮影
 翌月の5月2日。デジタルカメラを携えてその不思議なサクラを目指した。リュックには、デジタルカメラには似合わない埃を被った大きくて重たい三脚を背負って登る。昔、マミヤのRB67やキャノンのスク―ピックと呼ぶ16ミリカメラに使ったジッツオの三脚だ。写真がぶれないようにアップで撮影しょうとありあわせのものを準備した。白岩山に辿りつくと石灰岩の崩落した足場の険しい坂を鹿道に沿って下り、ようやく目指すサクラの根元に辿り着いた。
 ところがそのサクラは岩峰の上から見た木とはスケールが違って、とても樹高が高く、とうてい花のアップの写真などは撮れない。何度か木に抱き着いて登ろうと試みたが1メートルも登れない。「どうしょう。困った。」弱り果てて座り込み、辺りを見渡していたら岩峰からは見えなかった小さなサクラの木が近くで見つかった。見上げると花の数は少ないが下枝の低いところにもちらほらと花がついている。その木はなんとか登れそうだ。

  その小さなサクラの木からようやく花を手にすることができた。初めて手に取って見るその花は、普段見ているサクラとは明らかに違う。「こんなサクラの花は見たことがない」。ドキドキと胸が高鳴った。震える手で花の位置を決め、重たい三脚を開き、三脚には不似合いなデジタルカメラをちょこんとのせてセットし、ピントを合わせシャッターボタンを押した。そして、その花は持ち帰った。

 家に帰り、植物図鑑で調べるとどうも九州には分布しないタカネザクラではないかと思った。花がピンと立っている様子が似ている。後で判ったことだが、その日は雨上がりのため植物達は濡れて生き生きとしており、花柄が立っていたのである。その姿がタカネザクラのイメージを持っていた。さっそくインターネットのホームページに「このサクラについて知りませんか。教えてください。」と写真を掲載した。そして知人や植物に詳しい方々へ印刷した写真やコピーしたフロッピーディスクを送った。
 その日、椎葉村の前助役で霧立越の歴史と自然を考える会の理事をしてもらっている黒木勝実氏が偶然にもホテルに姿を見せた。さっそく黒木氏にも詳しく説明しサクラに詳しい方には連絡してほしいとお願いした。
 行動派の黒木氏は、すぐさま宮崎県庁の斉藤政美氏に連絡された。斉藤氏は、宮崎植物研究会の会員でもあり、当時、県教育庁文化課に勤務されて椎葉の焼畑伝承者椎葉クニ子さんからの聞き書き「おばあさんの植物図鑑」がヒットし話題になった方である。
 氏はインターネットのホームページの写真を見てびっくりし、5月5日に飛んで来られた。現地に案内したところ、花は、満開を過ぎて残り少なくなっていたが、確かにこのサクラは珍しいといわれ、若干の標本を持ち帰りホテルで斉藤氏持参の検索図鑑と照合した。そこでオオヤマザクラかも知れないということになり、標本をしかるべき専門家の先生に送ってみようということになった。
 その夜、斉藤氏から「ほぼオオヤマザクラに間違いないだろう」と次ぎのようなメッセージがメールで届いた。
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 詳細に検討した結果、記載はオオヤマザクラにほぼ一致します。ただ、花の大きさ、がく筒とがく片の長さの比が少し気になりますが、ま、これは許容範囲でしょう。しかし、範囲を超えているのが、花の柄の長さです。図鑑では1から2.5センチとあります。これだけは記載が合いませんので、新変種の可能性としました。
 分布はある図鑑では本州中部以北、北海道などとなっていますが、今日持っていった図鑑では、四国にもあると書いてあります。九州の他の場所で見つかっているかすぐには分かりませんが、まず見つかっていないでしょう。ということで、九州初記録で、しかも分布の南限となりそうです。
 昨日の宮崎県のレッドデータブックの会議でも全く触れられていませんので、未記録に間違いありません。
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 さっそく新聞テレビ等報道関係機関に「珍しいサクラ発見」のFAXを入れた。報道関係者も直ちに反応があり各社とも取材に見えたので現地案内を続けると「九州にオオヤマザクラ」「オオヤマザクラの分布を塗り替える発見」などとオオヤマザクラの情報が駆け抜けた。取材の時は、すでに花が散っていたり、残り花も樹高が高くてよい写真がとれないのでデジカメで捉えた世界初の花の写真が大活躍したことはいうまでもない。「九州でオオヤマザクラ発見」のニュースに、5月12日、土地の管理者である日向森林管理署長さんたちも調査に見えられた。
 斉藤氏は、現地が九州中央山地国定公園の特別保護地区であり、森林生物遺伝子資源保存林や白岩山石灰岩峰植物群落地として天然記念物に指定されている地域も一部含まれるため、とにかく標本採集の許可申請を行って標本を正当化し、調査を続ける必要があると連名で関係機関に申請書を提出された。
 それまでは、無許可で標本を採集したわけである。「このサクラを調査したい」と申請し、許可が下りてから採集に行くとサクラの開花期はとうに終わってしまう。許可を受けて来年標本採集に登ったら既に花は終わっていたなんてことになるかも知れない。また、珍しい花は来年は咲かないかもしれない。やはりタイミングが大事だ。「私はこういう植物です」という決定的な情報は花にしかないので花の標本を採集しなければ調査にあたいする価値があるかどうかも判断がつかない。その内、諦めてうやむやに終わるかも知れない。今回のサクラ発見に関する多少心に残る部分である。

シンポジウムの仕掛け
 斉藤氏が「しかるべき専門の先生に押し花標本を送る」といって送られた先は、東京大学教授の大場秀章先生であった。先生からは「オオヤマザクラの変種の可能性はあるもののオオヤマザクラと呼んでいいでしょう」というご返事を頂いたと斉藤氏から連絡があった。しかし図鑑で比較して見るかぎりでは、どうもオオヤマザクラとは思えず「もしかして霧立山地固有の種ではないか」などと議論していた。それ以後サクラについて勉強をはじめた。
 インターネットで探したり、本屋に出かけて専門の検索図鑑を探したりしたが、なかなか参考になる詳しい資料は見つからなかった。サクラに関する専門書はびっくりするような値段である。しかも必要とする部分はごく数ページで、値段に対して割が合わない。そう考えた時「そうだ、図書館で調べればいい、なんでこれまで気がつかなかったのだ。」と思った。山村暮らしは、図書館などの公共施設を利用する機会は全くないのである。
 こうして、サクラに関する資料を収集する内にその年はあわただしく暮れていった。会社の存続そのものも危うい不況下である。どうにか山積する問題を一つ一つクリアしながら越年して春を迎えた。
 2000年3月。しだいに水が温んで春の日差しを感じるようになるとあのサクラが気になりはじめた。そこで、霧立越シンポジウムとしてサクラをテーマに開こうと考えた。
 霧立越シンポジウムとは、「霧立越の歴史と自然を考える会」が主催して九州山地の霧立越をメインに山地の自然や歴史、民俗文化等について学ぶことを目的として開催しているもので、これまで6回シンポジウムを開催していた。
 第6回以降は不況のためシンポジウムの開催を見合わせていた。そこで今年は、サクラをシンポジウムにぶっつけてみたいとの思いが高まってきたのである。霧立越の歴史と自然を考える会は、霧立越を介して五ケ瀬町と椎葉村の実践活動家で構成する民間組織で予算も全くない。これまでも講師の先生方に無報酬で無茶苦茶なお願いをしながら失礼なシンポジウムを重ねてきているが、それでも宿泊費から食料費、交通費、会場費、印刷看板等の出費はかかる。
 費用はやまめの里の会社で負担しなければ開催できないのだ。このため会社の人たちに相談した。「今年、あのサクラの時期にどうしてもシンポジウムを再開したいのだが」と。すると「この大変な不況時に、かきいれ時のゴールデンウィークにお金にならないことをするのはどうでしょうかねえ。」と社員の皆はそっけない。「弱ったなあ」と考え込んでしまった。けれどもあのサクラは今年どうしても決着を着けなければ、ただのオオヤマザクラに終わってしまう。そう考えたら後には引けないと思った。

土壇場の企画
 そこで「俺は社長なんだ。やろうと思ったら何が何でもやるっ」。そういって強引にすすめることにした。ところが、講師にお願いできる人を知らない。これまでのシンポジウムは、地域づくり関係のネットワークなどで人脈を辿ってお願いしてきたが、こと植物に関して、それもサクラに関してはまるで人脈がない。空を掴むような話だ。
 先ず、頭に浮かんだのが数年前NHKラジオで聞いた京都の佐野藤右衛門氏である。宮崎出張の際、車の中でラジオから流れてくる京都弁での話は自然界の摂理を説いたものでその視点が新鮮であった。中でもサクラの話は面白く、氏が枝垂れサクラに近づくとサクラの枝がそよいだという伝説の人でもある。代々「藤右衛門」を襲名して16代目になるというサクラの研究家だ。ラジオを聞き終わって車を止め番組名と出演者の名前をメモして放送局に電話を入れた。
 放送局では、「出演者の住所などプライバシーに関わることをお答えすることはできません」とすげない返事。そこで、私は、当時NHKのアサイチリポーターとして地域の情報を朝一番のラジオで電話による生放送を時々していたので、そのことを伝えると以外にもあっさりと教えてくれた。この時、書きとめたメモがあったのを思い出したのである。そこで先ず、佐野藤右衛門氏にシンポジウムのパネリストを依頼した手紙をしたため、サクラの写真と新聞記事のコピーなどを添えて投函した。
 次ぎに県庁へ出かけて斉藤政美氏にお合いした。斉藤氏は何といっても今回サクラ発見の立役者だから、斉藤氏の参加されないシンポジウムは意味がない。幸い斉藤氏には快諾していただいた。これで方向だけは見えたようなものだが、肝心の切り札となる学術的な専門のパネリストがわからない。斉藤氏に「是非標本を送られた東大の大場先生に打診してみてください」とお願いするが、斉藤氏は「あの先生はとても忙しい方で電話でもなかなかつかまらない先生だからなあ」と「無理だよ」というような顔でおっしゃる。「その先生が無理ならお弟子さんでも結構ですから是非」とお願いして帰った。
 さて、次は地主さんだ。現地が国有林のため森林管理局からもお願しようと思った。「サクラに関心があって森林のあり方についても議論していただける方」そんな思いで地元の森林管理事務所をたずねた。この時、既に一人の人物が頭には浮かんでいた。九州森林管理局森林整備部長として前年赴任して来られた中村勝信氏である。
 氏は、若い時、群馬県に林野庁から出向されていた時期があった。五ケ瀬にスキー場を建設してもらいたいと運動をしていた時、当時の町長さんと群馬県片品村にスキー場建設のノウハウを学びに出かけ、現地を案内してもらった方で、「九州に来たのでよろしく」との便りを受けて知っていたのである。
 地元の森林管理事務所の所長さんは、これまで私達の活動に理解を示され、いろんな面で積極的に協力頂いていた。早速、森林管理局に連絡をとって一緒に行きましょうと案内頂いた。
 森林管理局では、森林インストラクターとして活躍されている計画部長さんが植物に一番詳しいといわれる。実際お話していてもとても詳しいし、造詣が深いことはすぐわかった。けれども、パネリストには学術的に専門の先生をお願することにしているので、敢えて森林整備部長さんにお願いした。
 シンポジウムの開催日はサクラの咲く日とした。前年見つけたのが4月29日であったので、その翌日の4月30日にしようと考えた。満開は5月2日であったけれども満開の日を目標にした場合、深山の植物の花は、一夜の嵐で完全に花が姿を消すことがよくあるからである。花が開きはじめた時であれば必ずパネリストは花を確認してシンポジウムに臨むことができると考えたのだ。日程を決め、パネリストも大体の布石は打ったなあと思っていた時、県庁林政課の池田氏がひょっこりホテルに現われた。
 池田氏は、およそ役人らしくない方で発想が豊かで行動力があり巨樹の会の宮崎の窓口としても活躍されている。その巨樹の会を主宰される平岡忠夫氏は、全国の巨樹の絵を描き続け、よくテレビ雑誌等で見かけることがある。私も一度は面識があった。そこで「そうだ、もう一人のパネリストは巨樹の会を主宰される平岡氏にお願いしよう」とひらめいた。
 シンポジウムは、サクラの話だけでは専門的過ぎて面白くないかもしれない。そして「やっぱりオオヤマザクラだった」と結論付けられたら不発に終わるかも知れない。そう思ったとたん即座に池田氏に巨樹の会の平岡忠夫氏にパネリストをお願いして欲しいとお願いした。
 これで、パネリストの布陣はできあがった。先ず,京都の佐野藤右衛門氏に「サクラの哲学」と題してかつてNHKラジオで聞いたような内容のお話を講演して頂こう。次にパネルディスカッションでは、サクラの生息する現地の状況と調査の感想を宮崎植物研究会の斉藤政美氏に語って頂く。そして、サクラを創り育てる立場から佐野藤右衛門氏、学術的に総合判断を東京大学の大場秀章氏、巨樹の会の平岡忠夫氏には、巨樹の分布や日本のサクラの巨樹の情報、巨樹と人との関わりについて新たな視点を出して頂こう。そして、九州森林管理局の中村部長には、森林管理者として国有林の考え方についてお話して頂こう。それぞれの立場で議論をぶっつけ合えば面白いフォーラムになる。
 こうして企画書が完成した。先ず、霧立越の歴史と自然を考える会の総会を開いて説明する。次ぎに企画書を報道関係者にFAXする。そしてシンポジウムの格付けのために近隣町村長、県知事、土地の管理者である九州森林管理局長はじめ関係団体へ後援依頼状を出す。会場の借り上げや看板の制作など会の事務局では手際良く仕事が進んでいった。
 ところが、肝心のパネリストからの確答がなかなか来ない。感触としては大丈夫と判断したけれども最終の返信がない。大場先生は外国出張中。藤右衛門氏も外国出張。平岡氏も聞いたことも無いような島に調査に出張中で連絡がとれないとのこと。中村氏も当日は部長会がありそうで上京しなければならなくなるかもしれないという。開催日はだんだん近づいて来る。途方にくれてしまった。ようやく一週間程前になったところで「出席する」という連絡が入りはじめた。直前になって大場先生からも出席すると連絡が入り、ホッと胸をなでおろした。



ストーブで咲かせた花
 これでシンポジウムが成功するかに見えた。ところが肝心のサクラの開花がかなり遅れている事に気付いた。「昨年より一週間ほど遅れている」とサクラ前線のニュースでもいう。心配で心配で、開会まであと一週間という4月24日にサクラの様子を見に山に登った。するとサクラの蕾はまだ固く、これでは一週間後には咲きそうにない。「いやあ、困ったなあ」と思案にくれた。そこで、サクラの木に断って一枝こっそり貰い受けて帰り、その夜から事務所の中で夜通しストーブを焚いて暖めることにした。あまり温度を上げ過ぎれば枯れてしまう。何度が限界だろうか。判らないまま毎日、24時間せっせとストーブを焚き続けた。「30日までにサクラよ咲いてくれ」と祈りながら。

  4月28日の朝を迎えた。シンポジウムまであと1日である。朝、一番に事務所の中のサクラを見に行くと、なんと蕾が大きく膨らんで今にも咲きそうにしているではないか。「やったあ、咲いてくれる」と飛び上がって喜んだ。心配そうに見守ってくれていた事務所の皆さんも「よかったですね」と喜んでくれる。「よかった。天は味方してくれた」と、とても嬉しくなった。そして、その花の開き方を見てまたびっくりした。まるで鉄砲ユリのような形をした長い蕾からなんと雌しべだけは先に長く突き出しているのだ。
 29日になった。いよいよシンポの前日だ。パネリストやシンポジウム参加の皆さんが到着される。前日夜は、講師を囲む懇談会を計画したところ結構な人数の申し込みがあった。ホテルのレストラン奥には、ストーブで暖めて咲かせたサクラを用意してパネリストの先生方を案内した。
 それからが大変である。「うーん。こんなサクラは見たことないぞ」。藤右衛門氏は、七つ道具をカバンから取り出し早速花の解剖を始めた。「この蕾はまるで鉄砲ユリだ」、「総花梗は無いなあ」、「鱗片には粘性があるよ」、「雌しべが長いなあ、これでは授精率が悪いのではないか」、「ガク筒が非常に細くて長い」、「うーん、ガク裂片も変わっている」、「子房が違うよ」。拡大鏡で調べながら大場先生と藤右衛門氏の専門用語が飛び交いはじめた。
 「大場先生、これはいっそ新種としてはどうです。」、「うーん、しかしオオヤマザクラの特性も備えているなあ」、「それではいっそ珍種としてはどうです」と藤右衛門氏の茶々が入る。「学術的には珍種という表現はないのですがねえ」と大場先生。「いづれにしてもこれは、地域の固有種でしょうなあ」「いっそ早く名前をつけたらどうです。」、「鉄砲ゆりのような蕾だからテッポウザクラはどうです?」、「キリタチヤマザクラはどうでしょうかねえ」などといつまでも議論が延々と続きます。
 傍で見入っていたあるせっかちな新聞記者氏が慌ててパソコンを取り出し、キーボードを叩きはじめた。「待ってください。明日のシンポジウムの結果を待って書いてください」。私は止めようとするが、記者氏はもう耳を貸してくれない。ところが、さかんにキーボードを叩く氏は、専門用語の漢字がわからない。しっこく尋ねるので、とうとう優しい大場先生は笑いながら代わってキーボードを叩き始めた。
 「まだですか」。幾度となく懇親会の会場で待ちくたびれた人たちが入れ替わり立ち代り部屋に入って来る。その内「会場から不満の声があがっていますよ」とスタッフが険しい顔をして告げてきた。時計を見るとなんと開会予定時刻からとうに1時間も過ぎているのだ。「料理を前にみんな待ちくたびれている」というのである。「とにかくもう少し待つように伝えてくれ、後から詳しく報告をするから。今一番だいじなところなんだ」と私も必死だ。こうして、緊迫感のある前夜祭がはじまった。

  翌日、「えー、本日は、遠路のところ多くの皆さんにご参加いただきありがとうございます。目からうろこを落しながら"さくらの国日本"をみんなで楽しく考えるフォーラムにしたいと存じます。コンタクトレンズの方はご注意ください。」などとジョークを入れた挨拶が入って第7回・霧立越シンポジウムはスキー場のレストランで始まった。
 「霧立越の歴史と自然を考える会」は、シンポジウムのノウハウを積み上げているので会場の準備やご案内、進行、録音はお手のものだ。一度の打ち合せだけであとはてきぱきとそれぞれが役割をこなし、進行や挨拶のミスに対してもさりげなく誰かがすぐ機転を利かせてリカバリーしてしまう。
 このシンポジウムでサクラは、当地の固有種であると大場先生が述べられ、会場から名前の提案を募った。熱気に包まれた会場からは議論続出でおおいに盛りあがり、最終的に「キリタチベニオオヤマサクラ」と命名された。ちなみに、書記の記録によると「2000年4月30日午後4時35分46秒『キリタチベニオオヤマサクラ』と決定」と歴史的瞬間の記録がある。
 こうしてシンポジウムは盛会裏に終了し、その内容は「第7回・霧立越シンポジウムの記録」にまとめた。

難業のサクラ調査
  5月の連休明けから開花の遅れた「キリタチベニオオヤマサクラ」が咲き始めた。そこで、花の季節を逃してなるものかと連日のように双眼鏡とカメラを持って山を歩き、あちこちの高い岩場や尾根の見通しの良いところによじ登って双眼鏡でピンクの花を探す。森をなめるようにして覗き「キリタチベニオオヤマサクラ」らしい花が見つかると、その付近の目標物を見定めてスズタケの中をかき分けながら進む。
 サクラの根元に辿りつくと先ず,樹高測定用の竿の先に特製の刃物を取り付け、するすると竿を伸ばして花を採集して花の確認作業から始める。花を見ただけでも見分けはつくが、花柄の付根にある鱗片に粘性があれば100%同種であると決定してよいのだ。これは、オオヤマザクラ系の最大の特徴で、特にキリタチベニオオヤマザクラは芽鱗がべたべたと手にくっつくように粘性が強い。これを決定的な証拠として種の確定を行なった。
 このようにして種を同定したら次は胸高直径を二方向から測定する。次いで樹高測定用の竿を伸ばして樹高を計り、幹に番号札をくくりつけて幹と樹形全体部分の写真を撮影する。こうして一本一本記録して登録する作業を開花期中続けた。当初8本から10本見えていたものがどんどん広範囲に及び始め、ついには49本となった。双眼鏡で位置は確認できたものの現地に入ると見失ってしまう木や、遠くて辿りつけない木は調査から残ってしまった。
 これからもっと範囲を拡大していくとおそらく100本は超えるのではないかと思われる。この調査記録は、「キリタチヤマザクラ調査記録」の冊子にまとめ森林管理署や行政の関係機関に届けた。



北海道のオオヤマザクラ
 花が終わって調査が一段落した時、「本場のオオヤマザクラを見てみたい」、そんな思いが高まってきた。まだ、北海道には咲いているに違いない。そう思って北海道の知人に「そちらのオオヤマザクラを送ってくれないか」とメールを入れた。すると数日後の5月23日にサクラの枝の入った大きな箱の航空便が届いた。そして、メールには次のように書いてあった。
「道内では普通に見ることの出来る桜のようです。ただ、オオヤマザクラという名前は知られておらず、誰に聞いてもエゾヤマザクラという答えがかえってきました。採集した場所ですが、おそらく住所では北海道虻田郡京極町春日あたりだと思います。標高はわかりませんが、国道276号線のわきに2本ぽつんと立っていた桜です。周囲には高い樹木はなく、畑が広がっていました。マピオンの地図に登録しておいたので見てください。木の高さは5メートル、直径は30センチくらいでしょうか」とある。
 東北・北海道に分布するオオヤマザクラは、北海道では一般的にエゾヤマザクラと呼ばれているのだ。
 大きなダンボールを開けると中には,数本のサクラの枝が入っていた。その花を見た時、これは桃の花ではないかと思うほど今回のサクラとの違いがはっきりしていた。花の大部分は散っていたが、写真に耐える枝もかろうじて残っていたのでさっそく撮影した。



写真上は、北海道から届いたオオヤマザクラ。
写真下は、今回発見のサクラ。



 このように、違うことが花を手に採ってよく分かった。一番目立つ違いは、やはり花柄の長さである。オオヤマザクラは花柄が短く、がっしりとしているが、今回のサクラは、花柄が4cmもあって相当長い。その他、ガク筒やガク片に相当の違いがあり素人でもすぐ見分けがつく。共通点は、鱗片に粘性があること、総花柄がなく枝から直接花柄が出ていることなどである。



標本木
 宮崎植物研究会の斉藤氏は、この年の4月に県教育庁文化課から学芸員として県立総合博物館に移動になった。今度は、サクラ調査にはうってつけの立場である。以後、斉藤氏と幾度となく山に登り、花から葉、サクランボ、などの標本をつぎつぎと採集して大場先生に送る作業がはじまった。
 そしてある日、次のようなMailが届いた。
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さて 大場先生から学会誌発表の仮原稿が届きました
新しい学名は以下のように記してあります

  Cerasus sargentii (Rehd.) H.Ohba
var.akimotoi H.Ohba & Mas.Saito

ご覧になってお分かりのように
秋本さんの名前と私の名前の両方が入れてあります
粋な計らいに頭が下がる思いです
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 「やったあ」と大喜びしたのはいうまでもない。ちなみにその標本木は、向坂山山頂近くの標高1600m付近にあるサクラで、調査記録の「NO.31」の木であった。標本採集の段階になって標高の低いところは花がそれてしまい、標本としてよい花が採集できたのは最も標高の高い位置にある遅咲きのサクラからであった。これが後のキリタチヤマザクラの基準木となる。
 専門用語を知らない私は、当初「var.akimotoi」の「i」はミスプリントかと思った。学名はラテン語で記され発見者の名前が入ってiが付くと教えられた。



母樹の地
 サクラの調査データは、5000分の1図に落した。すると一番まとまった植生地は、やはり白岩山の崖下周辺で28本もあり、その他は、ポツンポツンと広範囲に及んでいる。白岩山の崖下周辺に多く分布するのは、白岩山の石灰岩が長い年月に風化されて幾度となく崩落し、カルシウムを多量に含んだアルカリ性の土壌と岩の崩落によりスズタケ等が無くなって裸地状態が続いていたことがサクラの種の発芽率が高かった原因ではないかといわれる。
 そのような環境が母樹の地として晩氷期以降、種を維持しながら付近に種をばら撒いていたのかも知れない。崖下付近には、現在のサクラの親であろうと思われる大きなサクラの木の朽ち果てた株や倒木等が見られる。
 白岩山から遠く離れるにしたがってこのサクラの数はしだいに疎になっていく。鳥が種をばら撒いてくれてもブナ林はスズタケが密生しているため発芽できない。サクラは陽樹といわれ、太陽光線が入らないところでは育つことができないのだ。
 ブナ林の樹木の平均寿命を私は300年と考えているが、300年も経つと樹木にはサヤが入り、空洞となってやがて台風などの強い風を受けて倒れる。すると林床には太陽光線が入り、地面が剥きだしの裸地ができる。そこでは、新しい樹の芽が次々伸びて競争がはじまり、やがてその場所に一本だけ競争に勝った樹木が300年前後を支配することになる。
 このようにしてブナの森は13000年前から自然更新を繰返してきた。そう考えるとサクラの種は、鳥が倒木のところに落としたものだけが発芽のチャンスを与えられ、そして競争に勝った場合に花を咲かせることができるという極めて厳しい生存競争があるのだ。



破壊された部分を花で飾るサクラ
調査記録の図面を見つめていると、白岩山から遠く離れた林道沿いにも多数のサクラがあることがわかった。林道沿いで見つかったサクラは、直径10cm内外の幼木が多い。この国有林林道は昭和30~40年代に開設されている。林道開設時に工事のため付近の樹木が伐採されて裸地状態となり、そのところに鳥が落した種は全て発芽しやすい環境となったのだ。林道付近のサクラは、林道開設後に発芽したため一様にまだ若木である。
 こう考えると、天然林を伐採して植林した造林地には相当のサクラが育っていたことになる。
 天然林を伐採搬出すると後は裸地となり、その後地拵えして植林する。それから数年は毎年下草刈りを続けるので裸地状態が続く。そこに落とされたサクラの種はあちこちで発芽して育つであろう。

 3~4年間下草刈りを続けると杉が育ってくるのであとは下草刈りは止める。そして、植林後8~10年も経つと今度は、いろんな樹木が植林地に育ってくるのでそれを除伐と称して刈り払い、杉の生育を助ける作業をする。この時、育ったサクラの幼木も相当数刈り取られたものであろうと考えられる。右上の写真は植林地際のサクラでNO47の木である。幹の中央部に切り取られた痕跡があり、その周りから萌芽して育っていた。
 こう考えると、サクラは自然環境が破壊されたところに育つ樹木であることがわかる。自然が破壊される程サクラは殖える。自然環境の破壊を修復する役目を持っているのだ。このサクラは破壊されたところを美しい花で飾ろうとするロマンの木でもある。



ソハヤキ要素の可能性も
調査記録の地図を見ると最も標高の低いところでは、標高1300mの白岩林道沿い付近となる。これから考えると標高1300m以上が、このサクラの自生地ということができる。これは、冬季樹氷がかかる地帯と重なる。斉藤氏は氷河時代からの遺存植物の可能性といわれた。
 遺存植物とは氷期以降気候が温暖化して山の高いところへ逃げ込んだ植物たちを指す。そうすると九州で標高1300m以上の樹氷のかかる地帯には、他の山地にも同じようなサクラがあるのではないかという興味が沸いてきた。また、野鳥にとって九州山地は、同じような生活圏である筈だから他の山にも種を撒き散らすであろうと考えられる。その延長線上には四国がある。
 大分県鶴見町は九州最東端の町で豊後水道に面している。この町の計画策定に何度か参加したことがある。その時、鶴御岬灯台近くの海事資料館に案内して頂いた。そこに併設されている渡り鳥館は、灯台に飛来してきてガラスにぶつかって落下した鳥62種550羽の剥製が展示してあり、おびただしい数の野鳥を見ることができた。野鳥は、豊後水道を渡って四国と九州を結ぶ種の運び屋さんでもある。四国山中にあるとされるオオヤマザクラも同じサクラかもしれないという疑問だ。
 九州脊梁山地から四国山地、そして紀伊半島まで及ぶとすればソハヤキ要素をもった植物にもなるかも知れない。想像は広がるばかりである。ソハヤキ要素とは次ぎのような意味である。
 九州の大分県臼杵から熊本県の八代を結ぶ線上に臼杵八代構造線という断層がある。この南には仏像構造線があり、二つの構造線に挟まれた地域はもっとも古い地層となっている。そのシンボルとなるのが五ケ瀬町の祇園山で、今から4億3千万年前のシルル紀のクサリサンゴなどの化石が露出している。
 臼杵八代構造帯は四国山中を東に向かう中央構造帯につながっており、これらの構造帯付近に共通する特有の植物をソハヤキ要素をもった植物という。九州中央山地を熊襲の「襲」と書き、四国山中をさして速水の瀬戸の「早」とし、紀伊半島のことを紀伊の「紀」としてソハヤキと表現する。熊襲の国である九州と、非常に速い潮流の瀬戸で囲まれた島、四国と、紀の国の紀伊半島をつないで、この範囲に収まる植物のことである。植物学者の発想にはロマンがあるものだ。
 霧立越の谷間で8月に黄色い花を咲かせるキレンゲショウマがソハヤキ要素を持つ代表的な植物で、キレンゲショウマは和名がそのまま学名となっている貴重種である。カシバル峠のスキー場パーキングセンターから奥へ200mほど行くとカラ谷と呼ぶ沢がある。昭和30年代までは、この谷にはシオジの巨木が林立し、その林床一面には見事なキレンゲショウマの群落が広がっていた。
 大正4年8月(1915年)、牧野富太郎氏の霧立山地植物調査記録には、この沢のキレンゲショウマ群落について、あまりの見事さに「これは、分布上もっとも珍種であって、牧野氏はこれが産地を発表しないと云う。」と熊本の植物誌「BOYANY」のNO43に記してある。
 今は谷間に少し残るだけであるが、キレンゲショウマを探すにはシオジの木を目標にするとよい。シオジは水分が豊かな沢にのみ分布し、その林床にはスズタケが生育しない。そこにキレンゲショウマの生育環境ができるのである。キレンゲショウマはシオジと共生する植物と思う。



テンが種を運んだ。
 サクラ調査中、白岩山から2㎞ほど離れた林道近くに10本前後のサクラが一箇所に株立ちしている不思議な木が見つかった。登録NO40及びNO42などである。その株は、直径1m範囲くらいのところにほぼ同じような大きさの木が林立している。一応調査では、この内の一番勢いの良い木を選んで一本として登録したが、これは、どうも一本の木とは考えられない。伐採した跡の切り株から萌芽したものであれば、全部同じ大きさに育つはずはないし、もともとこのサクラは大径木には育たない。
 そこで考えられることは,サクラの種を大量に含む大きな糞を落した動物がいるのではないかということである。鳥は、ヒヨドリ、ツグミ、カッコウ、ホシガラスなどのやや大きい鳥でなければサクランボは食べられない。それでも、それらの大きな野鳥の糞は種が数粒混じる程度の小さな糞でしかない。一度に大量の種が入った糞を落すことはない。
 そこで、浮かんだのがテンである。テンは悪食でウサギや野ネズミなど何でも食べるが、木の実も好んで食べる。ある秋、嵐で山が荒れた翌日、山を歩いていたらテンの糞が石の上や木の株などの高いところのあちこちにたくさんあった。テンはなぜか高い場所で糞をする習性がある。ひと晩中、山を駆け回って風で落下した木の実を拾って食べていたのであろう。その糞には、イチイの実が数十個も入っていた。人里近くでは柿の実がたくさん入っているのを見たこともある。テンは木にも登るが落下した実も拾って食べる。
 昭和30年代までは、テンの皮が高く売れていたので猟師は、テン猟をさかんにやっていた。ヤマをキルと言ってシロモジなどの細い木を1mほどに切って並べ、かずらで編み、それを棚にして片方を吊り上げ、棚の上には石の重しをのせる。棚の下には、柿の実などを餌にして罠をしかけるのである。テンが柿の実をくわえて引っ張るとダマシが外れて重しをのせた棚がどさっと落ち、テンを押しつぶすというしかけだ。
 テンの行動半径は数キロにもわたる。サクランボの季節に嵐で実がたくさん落下するとそれを拾って食べ、山中のいたるところにサクラの種を落としてまわると考えられる。テンもサクラの種の運び屋さんである。



野ネズミの出現
 キリタチベニオオヤマザクラの標本採集や植生調査が一段落した7月初旬。サクランボが熟して落下はじめた。地元としては、このサクラの保存と併せてこのサクラを殖やすことを考えなければならない。シンポジウムで九州森林管理局の中村部長さんがスーパースター誕生とおっしゃった。せっかく当地にスーパースターが誕生したのであるから、この美しいサクラを村おこしに使わない手はない。村じゅうにスーパースターのサクラを植えれば春はまさに桃源郷となる。未来永劫にこの地は人が住む地となるであろうと考えた。今や過疎対策は深刻な問題となっているのである。
 そこで、サクランボを採集して実生からの発芽試験を考えた。自然界で種を拾うという作業は、まさに鳥や獣との争奪戦である。こちらの都合で山に入っても他の動物に食べられた後である。落下した実を狙う動物たちは、夜も昼も待っているからである。そこで、風が吹いたら山に登り、雨が降ったら山に登り、風や雨で落下した実を鳥や獣と早い者勝ちで集めるという作業だ。目標は1万粒。そうして、ようやく目標の実を確保できた。手をサクランボの赤紫に染めながら網に入れてもみほぐして果肉を取り去り、種だけを洗い出した。大変貴重な種でまるで宝石のように見えた。「これを育てて村じゅうに植えよう」。10年後、20年後、50年後と村じゅうが万華鏡のようにサクラに埋まっていく光景を想い描いて気分が高まる。
 「冷蔵庫にしばらく入れて温度を下げ、その後取り出して播種すればよいが、夏以降に播種すれば若芽が冬をむかえることになるので、春になって播種したほうがよい」ということを聞いたので地下にあるワイン庫で春まで保存することにした。温度や湿度はここが一番最適だろうと考えて。
 サクラ発見のニュースにより造園業者などいろんな人たちが尋ねてくるようになった。そこでさりげなくサクラを育てる技術を聞き出そうと話を持っていく。その日も新たな情報を掴み、そのお客様が帰られた直後、種の保存方法について湿度の具合を確かめようとそっとワイン庫に降りていった。すると、そこの棚にあるサクラの種を入れた袋が破れているではないか。近くの棚や床に種が散乱している。「ああっ」と叫んでよく見ると種の殻が割れている。「ややっ、これは一体なんだ」。しばらくは、何が起こったのか理解できなかった。
 どうもねずみの仕業らしい。スタッフに聞いてみると先日小さな茶色の野ネズミをここで見たという。野ネズミはとても小さいので、どこから入るか見当がつかない。建物の床下と地下室入り口の境目あたりに出入りできる隙間があったのかも知れない。すっかり弱り果て、頭を抱て座り込んでしまった。ワイン庫には、ねずみの餌がないのでこれまでねずみのことは考えたこともなかったのである。
 森には、予想以上の野ネズミが生息している。家ねずみと違って茶色の毛をしており手の腹に握りこむほどのとても小さなねずみである。ドングリなどの木の実を多く産するブナ林には、森のいたるところに野ネズミがいる。
 昭和30年から40年代には、拡大造林政策により天然林を伐採して植林作業が盛んに行なわれた。この時、ブナ林を伐採して植林した土地は、野ネズミの大被害にあったのだ。そこで、ねずみ取りの薬や罠を植林地にしかけて野ネズミ退治の大作戦が行なわれた。餌が豊富なブナ林に生息していた無数の野ネズミ達は、ブナ林が無くなって木の実が落ちないので餌不足に陥り植林した杉をかじるようになったのである。自然界の生き物たちの生息数は餌の量と生息数がほぼ比例するのである。
 やまめの里近くの人里離れた森の中に、数年前から一人の山男が住むようになった。立ち木を柱にして小屋をつくり、当初は電気もない暮らしをしていた。彼の小屋を訪れると、小屋のあちこちに蔓で編んだ籠が吊るしてあり、その籠は食品庫であったり、衣服を収納する箪笥がわりであったりする。不思議に思って尋ねると野ネズミ対策だという。
 この山小屋に住むようになった時、衣服は、ぼろぼろに噛みちぎられ、食料は、食べられてしまうという事件が起きた。犯人は野ネズミであった。そこで、彼は蔓で籠を編んで吊り下げ、その中に衣服や食料を入れた。こうしておけば野ネズミの被害に遭わないことが分かったというのだ。
 このようにして、今日でも野ネズミは予想以上の数がブナ林には生息している。餌が豊富にあると際限無く増殖し、餌が少なくなると、餌の量に合った生息数となる。そして、ヘビやテン、鷹などの猛禽類の餌となって自然界のバランスをつくる。山小屋や山深い山村の家屋には、こうした野ネズミが侵入してくるわけだ。こんなことを思い出した時、サクラの実を食べた真犯人は、野ネズミに違いないと確信できた。
 気を取り直して「とにかく一粒でも残っていれば」と帚であつめて新聞紙に広げ、事務所の皆にこの中で種の残っているものを探すよう命じました。しばらくしてから「一粒も残っていません」と報告する。もう、とても泣くにも泣けないほどがっかりした。計画が振出しに戻ってしまったのである。



野ネズミが謎を解く
 悔しくて憂鬱な日が続くことになった。その時、ハッと考えた。「もしかしたら、サクラの種は野ネズミの大好物で、サクラの木の下では毎年種が落下する頃をマークしていて多くの野ネズミが集まって食べ尽くす。この為にサクラの種が発芽しないのかもしれない」と。普段入ったことのないようなワイン庫の中までサクラの種を嗅ぎつけて野ネズミは侵入してきたのである。想像に難くない。
 シンポジウムで佐野藤右衛門氏は「自然界ではサクラはサクラだけの森をつくらない。かなりな距離を保ちながら点々として育つのが特長」といわれた。「サクラの木の下ではサクラの実は発芽しない」とおっしゃったことが記憶に引っかかっていたのである。「なぜだろう。神秘的だ。」と。
 ひるがえって考えてみると、ブナは全ての動物たちが食べるほどおいしい実をつけるが、それでもブナはブナばかりの純林をつくることができる。たとえば、長野県の野沢温泉村の上にある広大な台地の茅の平、ここは一面にブナが林立してブナばかりの森が出現している。ブナ北限の里として知られる北海道の黒松内町にもブナばかりの森を造っていた。過去に人の手の入ったいわゆる二次林にはこのようなブナの純林が出現する。
 なぜブナはブナの木の下でも発芽してブナばかりの純林を造る力があり、サクラはサクラの木の下では発芽せずに遠く離れてぽつんぽつんとしか育つことができないのか疑問となる部分であった。
 ブナは、数年に一度しか実をつけない。ブナが豊作の年は、動物たちは栄養状態がよいので丸々肥えて、不作の年は痩せ細っている。猟師の仕留めた獲物も木の実の豊作不作によって味が違う。豊作の年の獲物は脂肪がたっぷりのっていて実においしい。ランダムで数年に一度豊作にするブナの戦略は、ブナの実を食べる動物の数をコントロールしているのではないか。
 動物は栄養状態がよいと数がぐんぐん増える。だから不作が続く年を作って動物を間引いた後にどかっと豊作にすれば、獣たちがいくら食べても食べ尽くすことができないので種を殖やすことができる。また、定期的に実をつけないということは,動物たちが特定の実のある場所をマークできない。ブナはそういう戦略を持っているのではないかと思われる。そして、ブナの実の季節は秋である。動物たちが実を拾ってしまわない内に雪が覆って種を隠してしまう。翌年は、雪が溶けるとすぐ発芽するので動物に食べられる期間が短い。
 ブナと比較してみるとサクラは初夏に実を結ぶ。落下した実は、秋までの長い期間動物に餌として提供するのだ。そこで野ネズミがこれを狙う。サクラはブナのように実を付けない年が続いたり、どかっと豊作になったりする戦略をもたない。毎年毎年定期的に花が咲いて実を付けるので、野ネズミはサクラの実の季節と実が落ちる場所を知っている。このためサクラの種が落下する季節には、周辺の野ネズミが集まってくる。そして落下した種を全部食べてしまう。だからサクラの下には発芽できる種がなくなってしまう。こういうことではないかと思った。鳥が遠くへ運んでポツンと落した種は、野ネズミは知らないわけだ。野ネズミは、山のいたるところに住んでいるが予期しない処に落ちた種は、遭遇する確率が低いことになる。
 その後、8月30日に山に登りサクラの木の下を調べてみた。そこには、ワイン庫の状況と同じようにサクラの種が割られておびただしい殻だけが残っていた。殻の割り方も同じ。直径2~3ミリの小さな殻の硬い種であるからこれを割って食べるのは野ネズミの仕業に違いない。正常な種はないかと付近を探してみたが一粒も残ってはいない。ワイン庫のように悉く種は割られて中の実が食べられていたのである。
 これで「サクラは、枝の下にたくさんの種を落すが、なぜその木の下では発芽せずに遠くへ鳥が運んだ種だけが発芽するのか」という謎が解けたのである。ブナの戦略とサクラの戦略の違いである。
 貴重なサクラの種と引き換えに謎が解けたわけだが、それにしても、その代償は大きい。



「王のサクラ」
 韓国のソウルから北2時間のところに春川市があり、そこには安東欽氏がヤマメの養殖をしている。彼は25年前、韓国で最初に虹鱒の養殖を手がけた男で、近年はヤマメの養殖をしたいとたびたび来日して私のところへ見えた。3年間ほど私のところのヤマメの卵を送り込み、今では虹鱒生産の大半をヤマメに切り替えて成功している。
 その安東欽氏が、韓国訪問時に語った話が気がかりであった。安氏は「3年ほど前、朝鮮日報に、日本のサクラは韓国の済州島(現在のチジュ島)の『王のサクラ』を持って行ったものであると書いてあった」と話されたのだ。日本のシンボルであるサクラは実は韓国のサクラを持ち帰ったものであるという。思わずギクッとして聞いた。安 東欽氏には、その後資料を送ってもらった。
 その資料、韓国山林庁の「韓国樹木図鑑」p233によると次のような記述がある。
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「王のサクラ」
Prunus Yedoensis Matsumura
(漢)染井吉野櫻、
(英)Yoshino Cherry
 済州道、漢県?山山麓の原産地で、樹形と花が美しく全国に植栽してある。日本にも渡って栽培されている。落葉濶葉喬木で樹高15mに達する。耐寒性が弱く中部内陸地方には、越冬が多少困難である。陰地よりは陽地に開花がよい。耐潮性は強い方で、大気汚染に対する抵抗性は普通である。土深は深く肥沃なる砂質土壌に成長が良好である。
 樹皮は、灰褐色又は暗灰色で葉が互生し、長さ6~12cmで卵形又は倒卵形、表面には毛が無く、後面脈線と葉柄には毛がある。蜜腺が葉底両端に一対あり辺には鋭利な複鋸歯がある。花は短く、繖房花序にして5~6個の実あり。4月に葉より先に白色又は軟い紅色に咲いて花柱に毛があるのが特長で実は丸型にして直径1㎝内外で5~6月に黒色に結実する。
 初春、真粉紅色の花蕾から軟粉紅色の花で樹冠に至り、華奢で優雅なる花が咲く。材質は、緻密で乾燥してもそのままで曲がることがなく、家具材,器具材、建築内装材に使われる。
 王のサクラは、雑種で種子に胚がなく完全に形成できなくて種子繁殖が不可。「ハヤサクラ」「ヤマサクラ」に切接しなければできない。
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 また、別ルートで入手した韓国の桜に関する情報に次のようなものがあった。----------------------------------------------------------------
鎮海の桜
 60有余年、随分と花を見てきました。上野の山に愛宕山、吉野に醍醐。日本の花の代表である桜は、実は、韓国の済州島が原産地です。もっとも桜は日本に渡って独特の湿気のせいで、香りと色がよくなりました。韓国の桜は、大きいだけで色も香りもありません。私の住むソウルのマンションも春には桜の洪水です。
 昔、日本海軍は南の鎮海に鎮守府を置きました。日露戦争の時の日本海大戦では、沖合いの巨済島に日本の艦隊が集結して決戦に臨みました。戦前まで長木(チャンモク)という港の丘の上に連合艦隊大勝利の碑が立てられていましたが、日本が負けると押し倒されて今も近在の警察の倉庫に転がされています。丘には、壊された台座だけが虚しく残っています。
 さて、桜の話ですが、ここ鎮海の桜は世界一です。凄いのなんのって一目30万木。日本で一番威張っている吉野の桜は多く見積もっても4000本。上野公園など1000本ほどです。鎮海の桜は、「桜に錨」と日本の海軍が町じゆうに植えました。もっとも当時は10万本。町のド真ん中の広場を日章旗の赤丸に見立て、海軍の旗に合わせて8本の放射状の道路を通しました。
 その間には、綺麗な小川が流れ、鎮守府の入り口はひとかかえもある桜の古木です。なにしろ東郷元帥が見たそうです。桜の寿命はざっと70年、そこで韓国人も接木をしたり新しく植えたり、世界一の桜の名所を大切にしています。
 在日の韓国人もせっせと苗木を送っています。年に一度しか見れない海軍士官学校の桜のトンネルなど狂い死にしそうな風景。韓国を見物するならこんな時に来なくちゃ。ただし、シーズン中は宿は満員、食べるのも大変なので覚悟すること。
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 このように韓国では、済州島にある『王のサクラ』が日本に渡ってソメイヨシノとなったと理解されているようである。そして、日本の軍隊が多くのサクラを植えたという。ソメイヨシノのルーツが『王のサクラ』かどうかについては今回のシンポジウムで明らかにしていただいた。
 その概要は、
1.ソメイヨシノと済州島にあるサクラは、似ていても異なるもの。
2.ソメイヨシノは、いろいろな分析を通して雑種に由来するサクラである。
3.親になるサクラは、エドヒガンとオオシマザクラであるがエドヒガンとオオシマザクラが掛け合わされたものが、更に、また何かの雑種を作るというような、かなり複雑な過程を経て由来したサクラと考えられている。
ということである。
 詳細については第7回・霧立越シンポジウムの記録を読んで頂きたい。
 また、佐野藤右衛門氏は、日本の桜は、戦争が育てたとおっしゃった。「見事な花を一度にぱっと咲かせて潔く散っていく」という軍人精神をサクラに見たのであろう。戦時中は○○陣地陥落記念などと称して節目節目に戦勝記念樹として全国的に植えていったといわれる。16代の佐野藤右衛門氏の先代、先々代藤右衛門氏の桜との関わりはこうした戦争ともかかわりがあって10万本の桜を育てていたと氏はいう。



サクラ前線はなぜソメイヨシノ?
 毎年、春になるとサクラ前線のニュースが日本列島を南から北へと上っていく。「○○地方は何日頃開花するでしょう。」とか、「昨年より何日早い」とか季節の話題にサクラはかかせない。1月30日頃から沖縄で咲き始め、鹿児島に上がって北海道までゆっくりと北上する。遅いものは7月まで咲いているという。けれどもニュースになるサクラ前線のサクラは本土ではソメイヨシノだ。なぜソメイヨシノでなければならないのかという疑問があった。
 サクラの種類は数百種にのぼるが、その基本となる種は10種類という。エドヒガン、ヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラ、マメザクラ、チョウジザクラ、オオヤマザクラ、タカネザクラ、チシマザクラ、の9種とイシヅチザクラなどまだ詳しく分かっていないものを含めて10種が基本種である。この中から交雑や突然変異からいろんなサクラがつくられているのである。
 こうしたサクラの基本種は分布も異なり、それぞれの土地の気候風土により、開花時期も種によってその土地独特の時期となる。例えばやまめの里では、先ずエドヒガンが4月上旬に咲いてその後1週間~10日後位からヤマザクラが咲きはじめる。これではサクラ前線が混同することになる。また、東北地方以北にはヤマザクラが無くてオオヤマザクラになるのでこれも開花期が比較できない。
 その点、ソメイヨシノは、前述のような戦争の要因もあり全国的に植栽されている。しかも、ソメイヨシノは実生では繁殖できないので接木で殖やしている。接木は、株は違っても、ひとつひとつの木の持つ遺伝的性質は、皆んな同じクローンである。そこでサクラ前線にはソメイヨシノが採用された。そう考えるとなるほどと納得したものである。
 これまで日本は、全国津々浦々一律に同じようなソメイヨシノ的画一的な町づくりをしてきたわけで、ここに来てようやく地域の個性を大切にしなければならないと気付くようになった。私たちは、全国ネットのサクラも守りながら地域の固有種を大切しなければならないと改めて思ったものである。



キリタチヤマザクラの論文
 年が明けて、2001年になった。宮崎県立総合博物舘の斉藤氏から植物研究雑誌に東大の大場教授の論文が掲載されたとメールが届いた。昨年の第7回・霧立越シンポジウムでキリタチベニオオヤマザクラと命名されたが、論文では、キリタチヤマザクラとなっている。
 実は昨年、大場先生は「論文ではキリタチヤマザクラにしたいが地元はどうでしょうか」と斎藤氏を通じて打診があった。そこで、キリタチヤマザクラともキリタチベニオオヤマザクラともどちらでも呼べることにして「地元としてはOKです」と返事していたのである。
 確かにキリタチベニオオヤマザクラは長過ぎる。途中で一息つかなれぱ読みこなせないことがある。サクラの感動をシンポジウムの会場で集約して参加者全員で命名した名前である。けれども、以降本稿は、キリタチヤマザクラを使うことにする。論文内容は次ぎの通り。

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植物研究雑誌 


 第75巻  第6号      平成12年12月

p370~p371

九州で発見されたオオヤマザクラとその分布(大場秀章・斎藤政美)
Hideaki OHBA and Masami SAITO: A New Variety of Cerasus sargentii (Rehder)
H.Ohba Found at Mt Shiraiwa-yama,Miyazaki Prefecture,Kyusyu,the Southern Limit of Distribution of the Species

熊本県堺に近い宮崎県の五ヶ瀬町と椎葉村とにまたがる白岩山群のひとつ向坂山で、地元の秋本 治氏により、オオヤマザクラCerasus sargentii (Rehder)H.Ohbaが発見された。白岩山群は九州山地に属する石炭岩の露出する霧立山魂の一部で、岩場には九州では分布が限られるヤハズハハコ、ウスユキソウ、イワギク、ホタルサイコなどの好石炭岩植物が見られる。問題のサクラは向坂山の石炭岩屑が推積した崖錘斜面に約10株あり、最大の株は胸高直径約30cm、樹高約20mであった。その後の調査で白岩山群の北東の日之影町(宮崎県)でも見出され、発見された総株数はおよそ50になる。
 このサクラは、芽鱗が粘り、花に総花柄がなく、しかも無毛であり、新葉は深い紅色となり、成葉裏面は白色を帯びず、樹皮にはやや光沢があり、横一列に皮目が密に並ぶなどの点から、オオヤマザクラの変異に含まれることは明らかである。これまで九州からはオオヤマザクラの報告がなく、四国の石鎚山から飛んでその南限産地となる。
 しかし、このサクラは花柄が長さ3.5cmにも達すること、蕚筒が筒状で、蕚裂片が針状三角形、鋭頭になること、花弁の基部が楔状となることなど、他地域のオオヤマザクラには見出せない傾向をもっており、変種として区別することを提案したい。白岩山群は絶滅が危惧される植物が多く、秋本氏を中心とした地元の方々がその保全に力を注いでいる。今回、桜研究家の佐野藤右衛門氏を交え、このサクラの和名を検討していただいた。その結果をもとにキリタチヤマザクラという和名を用いたい。このサクラを命名するに当り、ご援助得た秋本 治氏をはじめとする「霧立越の歴史と自然を考える会」の皆様にお礼を申し上げる。
 Cerasus sargentii (Rehder) H.Ohba in JJpn.Bot.67:279(1992).
Var.akimotoi H.Ohba&Mas.Saito,var.nov.
 A typo pedicellis ad 3.5cm longis,calycistubo cylindrico. Lobis subulati-triangularibus apice aculis et petalis basi cuneatis bene differt.
 Holotypus, Japan, Kyusyu, Miyazakipref; Nishiusuki-gun, Gokase-machi, Mt Shiraiwa-yama,alt.1580m.On calcareous steep slope. Masami Saito & Osamu Akimoto s.n. May9,1999(TI,Isotypes in A,TI,TNS,Museum and Cultural Institution of Miyazaki Prefecture).
 Paratypes.Japan Kyusyu Miyzaki Pref;Higashiusuki-gun, Shiiba-mura, Mt.Mukou-zaka-yama,all.1530m.On Calcareous steep slope. May5,1999.Sailo & Akimoto s.n.(Ti);loc,cit. May 2,1999. Osamu Akimoto s.n.(Ti);Loc.cit,July10,1999.ly Saito & Akimoto s.n.(Ti);lot. cit, May 8,2000 Saito & Akimoto s.n.(Ti) Miyazaki Pref,Nishiusuki-gun, Gokase-machi,Mt,Shira-iwa-yama,alt.1320m. May9,2000.Saito&Akimoto s,n.(Ti), lot.cit,alt 1410m,May9.1999. Saito.&Akimoto s.n.(Ti):loc.cil.,alt.1600m.May.1999.Saito&Akimoto s.n.(Ti)
 Cerasus sargentii ranges from Sakhalin Ussuri to Korean Peninsula and Japan(Hokkaido,Honsbu and Shikoku).ln 1999 Mr Osamu Akimoto found this fiower cherry at Mt, Mukouzaka-yama in the Shira-iwa-yama Mountain Group in the central mountainous region of Miyazaki Prefecture in kyushu. The Fiower cherry belongs to Cerasus sargenti having sticky bud scales,glabrous inflorescences without peduncles,reddish leaves When sprout, gloss barks with numerous lenticels standing side by side densely. This locality is the southern limit of the species . Comapring with the type variety it differs by a different combinations of several characters; the pedicels are long up to 3.5 cm long , the calyx has a cylindrical tube and acute tipped, subulale-triangular lobes, and the petals have a cuneate base. By these different tendencies it is regarded as a new variety. Var, akimotoi is propoused here The epithet is dedicated to Mr,Osamu Akimoto, who has found this flower cherry and made effout to conserve the nature and its biodiversity of the mountainous range named Kiritachigoe jncluding Mt,Shiraiwa-yama, the type locality of the flower cherry.

  (東京大学総合研究博物館、宮崎総合博物館) 
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接木の講習会
 キリタチヤマザクラを殖やすには、接木と実生及びバイオによる方法がある。先ずは、接木の技術導入からはじめようと考えた。それには、接木に使う台木と台木に接ぐキリタチヤマザクラの枝が必要だ。  幸い植生分布の調査では、規制区域外の植林地などにも育っていることが確認されたので規制区域外の一本だけ採集の許可を受けて天気の良い日の3月3日、接木用の枝を採集した。
 採集した枝はビニール袋に入れて密閉し、地下室に保存した。穂は、光りが欲しい、水が欲しい、芽を出したいという欲求の飢餓状態にしなければ成績がよくないといわれる。台木は、ソメイヨシノはだめだとシンポジウムのパネリスト佐野藤右衛門氏から教わったので自然のヤマザクラを使うことにした。
 2001年3月18日。福岡県の種苗園から講師を招いて接木講習会を開催した。当日は、椎葉や五ケ瀬から霧立越の歴史と自然を考える会々員9名が参加して接ぎ穂の採り方や根接ぎ、高接ぎの理論を学習し、その後スキー場へのアクセス道路沿いのヤマザクラに地下室で保存していたキリタチヤマザクラの接ぎ穂50本を講師の指導で接木した。
 参加者は、貴重なキリタチヤマザクラのはじめての接木体験ということもあり緊張していたが、講師の丁寧な指導のもと数本接ぐ内に手際もよくなり「これなら私たちでもできそうだ」と話しながら作業を進めた。誰が一番うまいかは、数ヶ月後に桜が教えてくれるのである。
 講習に使用した接ぎ穂の残りは、会員が自宅に持ち帰って自宅付近の山桜に接木を行うことにし、残り150本は講師の種苗園で苗の生産を委託することにした。
 この講習会をきっかけとして、将来村じゅうに当地固有種キリタチヤマザクラの美しい花が見られるようになれば、と期待が寄せられている。



種子の発芽
  2001年3月20日春分の日、サクラの種を蒔いて苔を被せていたことを思い出し、その苔を何気なく取り除いて見た。すると、なんとサクラの種から芽が出ているではないか。
 昨年夏、地下室で野ネズミの被害にあった時、その種の一部は、シンポジウムのパネリストの先生方に記念にお送りしていた。その内の一部が75粒ほど残り、封筒に入れて冷蔵庫に保管しているのを思い出して、赤だま土の上にぱらぱらと蒔いて上から石苔を被せていたのだ。秋になって何度も苔を持ち上げて観察するが発芽の兆しはない。年が明けても何度か苔をとってみたが全く発芽していなかった。
 発芽しないのは「果肉を取り去ったのがまずかったのかもしれない」。「洗濯機に入れて果肉を取り去ったのが原因か」、「陰干したのが悪かったのかも知れない」。「冷蔵庫で乾燥しすぎたのかも知れない」。などと思いをめぐらし「やはり難しいんだなあ」と諦めていた。
 諦めた時、実は発芽を始めていたのだ。それも発芽率は100%近い。ほとんど発芽している。その隣には、まだ未熟らしいサクランボを果肉付きのまま10数粒蒔いていたがこれも発芽しているではないか。小躍りして喜んだ。
 そこで、ビニールのポットに苗床用の土を入れて、発芽した種を植え込んだ。すると、やがてピンクの芽を出し、みるみる内に成長を始めた。嬉しくて嬉しくて毎日朝晩サクラの成長を眺めてひとり悦に入った。これからが楽しみである。


写真上は、発芽後の生育の様子。



サクラの命名式と発表会
 大場先生の論文も発表され、サクラの名前も決定した。実生や接木も成功した。一つの区切りがついたということで締めくくりのイベントを考えた。標本の基準木となった木には、博物館の斉藤さんと標柱を立てようと話し合っていたのでこれをイベントに結びつけようと考えたのである。
 世界中を飛びまわって研究に忙しい大場先生は、普段はなかなか電話で連絡がとれないのであるが、思い立ったその日の電話は一発で大場先生につながった。「今年のサクラの花の時期にお出でになりませんか。そこで命名式をお願いしたい」とお話したら快諾してくださったのである。
 命名式は、2001年5月1日とした。サクラの開花時期が昨年より大幅に早くなっていたのだ。イベントの内容は、林道付近や白岩山の満開になったキリタチヤマザクラを観桜した後、NO31の基準木の前に集合して式典を行なう。
 先ず、総合博物館学芸員の斉藤政美氏に経過報告をお願いし、東京大学教授の大場秀章先生にキリタチヤマザクラと命名してもらう。ついで基準木には予め標柱を立てて幕を掛けて置き、来賓の方々にその除幕をしてもらう。その後公民館に移動して大場先生の発表会を行なうというものである。
 先ず、標柱に書く原稿を大場先生に送って校正して頂く。次ぎに看板屋さんにお願いして標柱にその原稿を書いてもらう。企画書を関係機関や報道関係者にFAXで送る。今回のイベントはそんな簡単な準備でOKである。
 さて、5月1日は、午前10時に来賓のお客様20名ほどでやまめ里からマイクロバスで白岩林道に上がり林道付近の満開になったサクラを観察した後、ゴボウ畠から白岩山のサクラ群落地に向けて登山を開始した。道中は濃いガスが立ち込めて霧雨が降るあいにくの天気であったが、道端に咲くワチガイソウの名前の由来やノリウツギのキセルへの利用、シロモジやクロモジのもつ油について、ミズメザクラの名前の由来、イヌザクラの解説などなど次々と大場先生の専門的な植物の解説に全員時間が経つのも忘れて聞き入った。
 白岩山ではますます雨が強くなり、そこそこに昼食を済ませて、ぬかるみで泥んこになりながら急斜面を登ったり下ったりしてサクラを訪ね廻った。全体ではまだ蕾が多くこれからというところ。午後2時過ぎ、疲れた体を引きずりながら予定時間を少し遅れてようやくNO31の基準木に到達して、寒さに震えて待っていたスタッフと合流、さっそく次のような命名式を行う。



1.開式の辞
2.会長挨拶
3.来賓紹介
4.経緯報告(宮崎県立総合博物館学芸員 斉藤政美先生)
5.キリタチヤマザクラ命名(東京大学教授 大場秀章先生)
6.基準木標柱除幕( 東京大学教授 大場秀章様・宮崎県立総合博物館学芸員 斉藤政美様・宮崎県北部森林管理署高千穂事務所 大倉所長様・宮崎県西臼杵支庁統括次長様・高千穂警察署長代理様
7.閉式の辞
16:00 キリタチヤマザクラ発表会(波帰公民館)
1.白岩山の植生とキリタチヤマザクラについて(スライドによる解説)
講師 宮崎県立博物館学芸員 斉藤政美先生
2.キリタチヤマザクラの命名について
講師 東京大学教授 大場秀章先生
17:30閉会 18:00~大場先生を囲む夕食会(えのはの家)

 かくてキリタチヤマザクラの発表会は盛会裏に終わった。イベントには遠く長崎や東京からも参加いただいた。東京から参加の飯田さんは、ノンフィクション作家で、目下、「岳人」という雑誌に24回シリーズで連載を続けておいでだ。やがてキリタチヤマザクラのお話が「岳人」の紙面をかざるに違いない。


 68本の登録
 昨年調査漏れのサクラを今年も花の季節に継続しけなければならない。キリタチヤマザクラの調査は、花の季節に限定される。時間をやりくりしながら最優先して山歩きを続ける。見とおしのよい崖の上や尾根に上がって双眼鏡で花を見つけては、その木の根元にたどりついて木のデータを収集し、番号札をくくり付けて写真を撮影し、位置を図面に落す作業である。
 足場の悪い地形や深い山では、「見つからなければいいが」と思いながら双眼鏡を覗いている自分におかしくなってしまった。怖いもの見たさに覆った手の間から一生懸命見つめているようなものである。
 今年は、北は白岩山から6km離れた小川岳の北側に2本見つかった。南は、白岩山から扇山へ向かう霧立越歩道沿いに5本見つかり、最終的には68本のサクラが登録できた。いずれも標高1300m以上の地点である。
 特に今年は、民間の植林地で9本も見つかったことが嬉しい。桧を植栽してある中にポツンポツンと育ててあるのがキリタチヤマザクラであった。美しい花のサクラだから残そうとした植林作業に従事した人々と所有者の心意気に感謝したい。



2001.05
やまめの里
秋本 治